第119話:月満ちて -その1-
リディの懐妊の有無を確認する前日。
プラテアードとジェードの国境に、キールとソフィア、医師のジロルド、そして王政時代に神使を務めていた唯一の生き残り、ミヒャエル卿が到着した。
ミヒャエル卿は、プラテアードの城がジェードに陥落した時、地方で流行っていた疫病を治めるための行脚に出かけていた。人里離れた場所にいたことが幸いし、ジェード軍に存在が見つかることもなく逃げおおせたわけだが、今日まで正体を隠して農民として暮らしていたため、キール達が今回の捜索に相当難儀したのは言うまでもない。
国境の見張り小屋で、レオンが四人を出迎えた。
レオンはキールに、「結果は電報で知らせます。」と伝えた。
「ソフィア達は、いつ帰国できますか?」
「3日後に、またこの国境へ迎えにいらしてください。」
「私がリディ様にお会いすることは――――」
「戦争が決着するまでジェードから出すことはできませんから、暫くは難しいかと。」
心配そうに眉を顰めるキールを他所に、レオンはミヒャエル卿に頭を下げて敬意を示した。
「ジェード国王第一側近のバーンハウストと申します。恐れながら、我が国王より、神使の証を確認するよう、仰せつかっております。」
ミヒャエル卿は、胸元から黄ばんだ絹の包みを取りだした。
レオンはそれを両手で受け取り、中を検めると、丸いブルーアンバーが中央にあしらわれた勲章が出てきた。台座の裏面にはプラテアード王家の紋章が刻まれている。
「当時の身分は第三神使でした。」
勲章の飾りリボンに施された藍色の刺繍が一本。第一神使は三本だから、一本が第三神使で合っている。残念ながら、これ以上本物か確認する術はない。レオンは丁重に勲章を布に包み直し、ミヒャエル卿に返却した。
「時間がありませんので、早速王宮へ御案内いたします。」
ソフィアは不安げな兄の顔を一瞥した。
この先何かあれば、真っ先にソフィアが犠牲にならねばならない。その覚悟を示すようにソフィアは頷き、首に巻いた藍色のスカーフをギュッと握りしめた。
そして。
植民地の人間を乗せるには豪華すぎる馬車は、すべるようにヴェルデへ向かって走り出した。
王宮の敷地の西端に、王族と神使と公爵家専用の病院がある。
ジェード最先端の医学の研究施設も兼ねており、優秀な医師が日夜研究に励んでいる。外観は白亜の小さな城だが、エントランスに赤の十字架が掲げられ、その役割を誇示していた。
王族や神使が病気になった際、医師が寝室に出向くことが常であるから、実際に病院が患者のために使用されるのは、専ら精密検査や手術、感染隔離に限られる。
この日、病院に勤務する全ての医師や看護婦、薬剤師が休暇を取らされ、王宮の敷地から出た。
夕方になり、最も豪華な応接室にアンテケルエラの医師、神使、そしてエストレイ王子が入った。その隣の応接室に、ジェードの神使とハロルド伯爵が待機する。
そして、最も奥の応接室に、プラテアードの神使、医師のジロルド、そしてソフィアが入った。
部屋に入る時間帯はあえてずらされ、三国の要人が顔を合わせることはなかった。
ソフィアは、エストレイの顔を見たら絶対殴らずにはいられないと思っていた。だが、エストレイはアンドリューとは違う。きっとその場でソフィアは銃殺されてしまうだろう。ジロルドは、そんな本来とは違う心配にも気を削がねばならなかった。一方、ミヒャエル卿は窓枠に肘をついて一心に祈りを捧げ始めた。何を祈っているのかとソフィアが尋ねると、「物事が最も平和的に解決することです。」と答えた。
「平和的解決って、どういう状況のこと?」
「私にはわかりませぬ。ただ、私は祈ることしかできぬものですから。」
ソフィアは、苛立ちに眉を吊り上げたが、何を言っても解決にならないため、強く息を吐いて自分を諫めた。
日が暮れると、軽食のサンドウィッチと紅茶が運ばれてきた。ワゴンを運んできたのはアランと召使と貴婦人だった。
アランは、ソフィアやジロルドと面識がある。ソフィアはアランを「マリティム国王に良く似た美少年」と記憶していた。相変わらずとろける様な金髪だが、短く切ってしまったせいか、マリティムとは違う存在だと改めて確信した。
アランは、一番後に入ってきた貴婦人が部屋の鍵を閉めたことを確認すると、後ろについてきた召使に「大丈夫ですよ。」と言った。
召使が深くかぶったボンネットを徐に外すと、そこに現れたのはリディの顔だった。
アンドリューの寝室からこの病院まで、リディがどうやって来るか考えたのはアランだ。表向き、リディは王宮にはいないことになっているし、エストレイには絶対会わせてはならない。そもそもリディがアンドリューの寝室に匿われていたなど、絶対に知られてはならないことだ。目元から髪の毛まで包み込めるボンネットを被る召使の変装なら十分周囲の目を欺ける―――、と算段した。
リディが顔をさらした瞬間、ソフィアもジロルドも、思わず息をのんだ。
ここに立っているのは、革命家「アドルフォの娘」などではない。
召使の地味なドレスを着てはいるが、プラテアードにいた頃とは明らかに違う。
艶やかな髪、磨き上げられた真珠のように透き通った肌、血色の良い頬。
爪の先まで手入れの行き届いた佇まいは、その気品と風格が相まって、「プラテアード王家の末裔」が存在していることを示していた。
三人は、思わずその場に跪いた。
ミヒャエル卿は、頭を垂れたまま言った。
「これは・・・、亡き王妃様を髣髴とさせるお姿。再び目にすることが叶うとは、光栄でございます。私は当時、第三神使としてお仕えしておりましたミヒャエルでございます。」
ソフィアは、リディの身に起こったことを憂いて、その顔を見たら一緒に泣いてしまうと思っていた。だが、その姿があまりにも遠い存在に思えて、何も言えなくなってしまった。確かに幼い頃目にしたプラテアード王妃に似ていないとも言えないが、数える程しか見かけていないため、照らし合わせる記憶が無い。
リディは、三人の反応に戸惑いながらも、低い声で言った。
「今回のことでは、本当に迷惑をかけた。国を捨て、もはや派首でもない私のために・・・心からすまないと思っている。」
ソフィアは軽く首を振った。
「リディ様の方こそ・・・、大変だったと聞いています。」
「私の事は、自業自得だ。案じることはない。」
そんなことは、ないだろう。
だが、それ以上何も言えなかった。そもそも、ここにいるアランが何をどこまで知っているのかわからないため、迂闊なことは言えない。
リディは、扉の脇に控えていた貴婦人―――シンシアを呼び寄せた。
「伯爵夫人、こちらがプラテアードの代表のソフィア、医師のジロルド、神使のミヒャエル卿です。」
シンシアは、ドレスのスカートの裾を大きく広げ、膝を深く曲げてお辞儀をした。
「シンシアと申します。及ばずながら、リディ王女様のお世話をさせていただいております。」
ソフィアは、この貴婦人が実に手厚くリディの世話をしてくれているのだと思った。そして、そんな素晴らしい女性をリディに付けてくれたアンドリューの「大切にしている」という言葉が真実だったと確信した。
ソフィアはシンシアの足元で膝を折り、頭を下げた。
「リディ様の事を、どれ程大切にしていただいているか、お姿を拝謁して確信いたしました。国を代表して、心よりお礼申し上げます。」
「そんな・・・勿体ないお言葉でございます。私こそ、リディ様のお世話をさせていただいていることを本当に嬉しく思っております。お仕えできて、幸せでございます。」
リディは、困り顔で「二人とも、恥ずかしいからやめて。」というと、ジロルドとミヒャエル卿に挨拶程度の言葉をかけた。
すると、すぐにアランから「そろそろ・・・。」と促された。
プラテアードの様子や今後の計画などの会話はさせてはならない、と、アランはアンドリューから厳しく言われていた。懐妊の確認前にソフィア達に会うことさえ本来認められないところを、アランとシンシアの立ち合いの元で「あいさつ程度なら」と許したのは、アンドリューのせめてもの恩情だろう。
リディはすぐに頷き「この後レオンが予定の説明に来るから」と言って部屋を出た。
その「時」は、もう間もなくやってくるのだ。
リディは控室で、レースや飾りの一切ない白い絹のドレスに着替え、栗色の髪は一つに結い上げた。
シンシアが、支度が整ったことを知らせるため部屋を出ると、リディは胸に手をあてて大きく深呼吸した。
瞼を閉じ、できるだけ余計な事を考えないようにしたいと思うが、それはとても難しいことだ。
心臓の鼓動の一回一回が、とても深く、耳まで振動させる。
どちらの結果が出ようと、これはリディ自身の問題ではない。
その鋭い現実が、膝から喉から唇からを震わせる。
握り拳に力を込め、何とか震えを止めようとした。
もう、この儀式に必要な顔触れは全員揃っているはずだ。
―――エストレイも、この建物のどこかにいて、息をしているのだ。
突然、扉がノックされ、シンシアがレオンを連れて現れた。
「診察室へ御案内します。」
黒に緋色のグログランリボンの縁取りがあるフロックコートを身にまとったレオンの姿が、灰色の壁には不釣り合いだった。
シンシアはリディをいたわる様に優しく手をとり、廊下へ出た。
カツン、カツン、と、レオンのブーツが石の床を蹴る音だけが響く。
リディには、これがまるで死刑台へ向かう道のりのように感じた。
国家の大事だとわかっているが、頭の片隅には女の尊厳が再び冒される事への嫌悪が拭えないでいる。
診察室では三国の神使が見守る中、三国の医師が一人ずつ順番に診察する。医師は懐妊か否か判断し、その結果を書いた紙を折り畳んで厳封し、診察室を出る間際に置かれた金の箱に入れる。三人の結果の多数決で行く末は決まるというのだが―――。
診察とはいえ、また、いかに神聖な儀式の一つだとはいえ、身体を開く場面をさらすのは屈辱以外の何者でもない。小さい頃から世話になっているジロルドにだって、こんなことをされるのは、嫌だ。しかもこれは、強姦された結果の確認であって、結婚した女性の期待のそれとは違う。
そんな事を考えている間に、王族専用の診察室にたどり着いた。
レオンが、一瞬だけ振り向いて注いでくれた視線が切なそうに見えて―――、そんな些細な思い込みさえ今のリディには大きな力となり、その足をしっかり前へと進ませたのだった。