第118話:見えないヴェール
その日、イサベルとアルティスの「お茶会」は突然打ち切られた。
何年振りかわからないぐらい久々に、アルティスは部屋のカーテンを開け、日差しの中でイサベルを出迎えたのだが、30分も経たないうちにアルティスは眉をしかめ悪態をつきはじめた。驚いたイサベルは、侍女たちに冷たい水や薬を求めたが、それが更にアルティスの機嫌を損ねたようで、激しく恫喝されたのである。
終いには「出て行け!」と怒鳴られ、イサベルは深々と腰を屈めて部屋から出た。
廊下で待機していたレオンは、イサベルの青白く固まり切った表情を見て、只事ではないと察した。イサベルに続き、追いたてられるように部屋を出てきた侍女達に、レオンは中の様子をうかがった。
恐れていたことが遂に起こってしまったのだとわかり、レオンはイサベルを連れて王宮を出た。
顔のどこにも力が入らないというか、何も考えられないというか、例えようのない表情のイサベルに、レオンは言った。
「陛下に御報告しておきます。二人きりでゆっくりお話できる時間を設定しましょう。」
すると、イサベルはゆっくり首を振った。
「・・・陛下に余計な心配は、かけられません。」
力なく呟くイサベルに、レオンは強く主張した。
「余計な心配だなどということはございません!王女様は、陛下の婚約者なのですから。」
イサベルは再び強く、一度だけ首を振り、しかし口を噤んで何も言わなかった。
いつもと違い、イサベルはレオンの腕をとることはなかった。
何か言う気力もない程憔悴しているのだと、横顔が訴えている。
よく見ると、長い睫毛の下では、青い瞳が透明な雫で膨らんでいた。
キュッと結ばれた薔薇色の唇が、小刻みに震えている。
レオンが顔を上げると、その先には庭園を楽しむための白いベンチがあった。
「少し、お掛けになって休まれますか?」
「・・・。」
イサベルはその問いに答えず、しかし、ふらふらとベンチに向かった。
普段の王女からは想像もつかないほど無造作に腰掛けたため、パニエでふくらんだスカートがいびつに歪む。
レオンは少し離れた場所で様子を見守っていたが、イサベルが微動だにせずうつむいているので、思い切って声をかけた。
「しばらく、皇太后陛下とのお茶会はおやめになった方がよろしいでしょう。」
すると、イサベルは小さく首を振った。
レオンは驚いた。
「このような理不尽な仕打ちを受けて、まだお続けになるのですか?」
イサベルは頷き、レオンは「理解できない」というように息を吐いた。
「イサベル様は、これまで本当によくお務めになってこられたと思います。これ以上、傷つかれる必要はございません。」
その言葉に反応して上を向いたイサベルの顔を見て、レオンはハッとした。
瞳に留まり切れなくなった涙が、幾筋も薔薇色の頬を伝っている。
「私は、逃げたくないのです。」
「・・・王女・・・。」
「今の私にできるのは、陛下の邪魔にならないよう、未来の義母と良好な関係を築くことだけ。そのたった一つの務めから、逃げることはしたくないのです。私は、これしきの事に負けられない・・・!!」
伏せられた長い睫毛に、ダイヤモンドのような粒が散りばめられている。
レオンは、胸元から白いハンカチを取り出すとイサベルに差し出した。が、王女は手のひらを向けてそれを断った。
もはや、レオンにはどうしたらいいか皆目見当もつかない。慰めの言葉など、今の王女は求めていないだろう。
自分の存在価値の無さを思い知らされ、レオンは静かに言った。
「・・・女官長をお呼びしましょうか?」
「いいえ。少し休んだら一人で戻りますから、侯爵はどうぞ、陛下のもとへ。」
「例え一瞬でもイサベル様をお一人にはできません。イサベル様のお気の済むまで、私は向こうの噴水で待機しております。」
「・・・日が暮れてしまうかもしれません。」
「かまいません。」
「夜中になってしまうかもしれません。」
「ご迷惑だとおっしゃられても、・・・待たせていただきます。」
そう言ってレオンが背を向けたところへ、イサベルの声が追った。
「侯爵。」
レオンは肩越しに振り返る。
「私は今、どうしようもなく誰かに縋りたいのです。でも、それは・・・それは、今はできぬこと。ですから、この私の我儘を許してください・・・!」
イサベルはなぜ、このような心の内をさらすのだろう?
これもまた、レオンを試そうとする計算なのか?
少なくとも、レオンは「我儘」などとは思っていないのに。
何も言えないままその場を離れ、100m程戻ったところにある噴水の淵に腰かけた。この位置なら、王女の様子を監視でき、かつ王女の視線に入らず邪魔にならない。
(誰かに縋りたい・・・か。これは、アンドリューに慰めてもらうしかないだろうが。)
1時間後にイサベルを送り届けたレオンは、王宮に戻ると即刻アンドリューの元を訪れた。
アンドリューは執務室でアランと共に仕事をしていた。
「忙しいところ悪いが、話がある。」
アンドリューは、レオンの声色がいつもと違うことに気づき、顔を上げた。
「・・・どうした?改まって。」
「リビングで、話をしたい。アランは執務室にいてくれ。」
アンドリューは僅かに眉を顰めたが、すぐにレオンと共にリビングへ移動した。
レオンは、イサベルの身に起こったことをすべて伝え、イサベルとアルティス双方にお茶会はしばらく中止するよう言ってほしいと訴えた。
「戦争を控えたさ中に下らない事で手間をとらせるな、と言いたいだろう?だが、今のイサベル王女は憔悴しきっている。慣れない異国での疲れも出ている頃だ。婚約者であるアンドリューの優しい言葉が何よりも必要だと思う。」
アンドリューは返事ができず、苦し気に瞼をとじた。
レオンは、その態度にいささか声を荒げた。
「婚約者に優しい言葉一つかけることが、そんなに負担なのか!?リディと過ごす時間は何時間でもとるくせに、イサベル王女には10分でさえ時間を割けないというのか!?」
アンドリューは思わずレオンを睨み上げた。
だが、レオンは怯まなかった。
「イサベル王女を何だと思っているんだ?意に添おうと添うまいと指輪を交わした以上、もう他人ではない、責任があるだろう!」
アンドリューは口端を引き締めたまま宙を睨みつけていたが、やがて静かに息を吐いた。
「わかった。明日の昼食は、将軍たちと打ち合わせをすることになっているが、それを30分早く打ち切る。王女を隣室に待たせておいてくれ。」
昼食後のお茶の給仕をして、レオンは部屋から下がった。
アンドリューの向かいにいるイサベルは、顔に力が入らないといった様子で、寝不足なのか目元も腫れぼったかった。
扉の閉まる音を聞き届けると、イサベルは静かに言った。
「バーンハウスト侯爵が、私のために相当御無理を申し上げたのではありませんか?」
アンドリューは、軽く首を振った。
「昨日のことは、すべて聞きました。母のことで大変だったようですね。」
「・・・私が皇太后陛下のお気に障ることをしてしまったのです。」
「ご承知だと思うが、母は病気です。今頃はきっと昨日のことなど綺麗に忘れている。あなたが気に病む必要はありません。」
アンドリューは、紅茶の注がれた金縁の白いティーカップを手に取ると、一口飲んだ。そしてイサベルにも勧めたが、イサベルは指先でカップに触れたままその先へは進まなかった。
「イサベル殿は『逃げたくない』とおっしゃった様だが、俺はこの先あなたが二度と母と会おうとしなくても、決して『逃げ』などとは思わない。あなたが、あの母を相手によく務めてくれたことは、レオンから聞いています。」
「でも、今回のようなことになってしまったのは、私の失態です。陛下にも無用の気遣いをさせてしまいました。未来の王妃としてあってはならないことです。」
イサベルの指を改めてみれば、きちんと薔薇翡翠の指輪がはまっている。そして今はアンドリューも、将軍たちの手前ラリマーの指輪をはめている。
ここにいるのは、将来を誓い合った未来の妻なのだ。
そこで初めて、イサベルはカップに口をつけた。
今日の紅茶には薔薇の花びらがふんだんにブレンドされている。その芳香に、思わず口元が緩んだ。それを見たアンドリューは、優しく言った。
「レオンは、あなたによく尽くしていますか?」
「それはもう、十分に。侯爵は常に私の味方をしてくださいます。それはひとえに・・・最も大切に思う国王陛下の妻になる存在だからにすぎません。」
「レオンは、イサベル殿のことをジェードの王妃にふさわしいと、いつも褒めています。」
「そんな・・・。」
恥ずかし気にうつむき、イサベルは再びカップに口をつけた。少しだけアンドリューとの距離が近くなったような気がして、イサベルはどうしても聞きたかった話題を切り出した。
「陛下、その・・・、先日は、兄が大変失礼をいたしました。」
「いいえ。あなたが謝ることではない。」
「兄は、プラテアードの王女に裏紋章があるという話を聞きつけて以来、目の色を変えて王女の行方を追っていました。もしや正式に、王女へ求婚しましたか。」
「その話題を匂わせてはいましたが、はっきりとは言わなかった。ただ、会いたいと食い下がっただけです。」
イサベルは、アンドリューを見つめた。
「私には3つ違いの姉がおります。姉には裏紋章があり、生まれてすぐ多くの国から縁談が舞い込みました。父は返事を伸ばしに伸ばし、姉が13歳の時に最も羽振りのよかった国を嫁ぎ先に決め、引き換えに金の鉱脈を手に入れました。少女だった私にも、その現実が何を意味するか、嫌という程わかりました。」
「この大陸の運命は、いつの時代も裏紋章に翻弄されている。どれ程の王族が翻弄されてきたか、俺も身を持って知っています。」
「私は、あの兄が簡単に引き下がるとは思えないのです。これから血縁関係になれば尚、無理難題を押し付けてくるのではないかと・・・その結果、陛下を苦しめてしまうのではないかと憂いております。」
アンドリューは、目を伏せがちにした。
「お心遣いは有り難いが、御心配は無用です。」
その冷たい物言いに、イサベルは、リディの事を聞き出したいという下心を見透かされたのだと思い、恥ずかしさに俯いた。
アンドリューは、そんなイサベルを見て、今日の本来の目的は「優しく慰める」「労う」ことだったと思い出した。そしてそれは、冒頭のやりとりで達成したはずではなかったろうか?
二人は、次の会話のきっかけを見つけることもできず、カップのお茶が無くなるのを見計らって席を立った。
部屋から出てきた二人は、やはり以前と同じ浮かない顔で、レオンは(この期に及んでもまた駄目だったのか?)と落胆した。
一体どうすれば、二人は打ち解けて仲睦まじくなるのか。
離れまでの小路、イサベルは真っすぐ前を向いたまま言った。
「今日は、ありがとう。」
「・・・。」
「おかげで、陛下とお話しできて・・・良かったです。」
「少しは、その・・・仲良くなれましたか?」
イサベルは、その質問にクスリと笑った。
「侯爵は、随分とかわいらしい質問をなさるのね。」
何がおかしいのか、レオンにはさっぱりわからない。
イサベルは、訝し気な表情のレオンを見上げて、それでも笑顔をやめなかった。
「ほら、そういうお顔はなさらないで。あのね、私と陛下のことは心配なさらなくても大丈夫よ。」
「しかし、陛下はイサベル様に対し―――」
「侯爵。」
レオンは、息が止まる程の驚きに襲われた。
イサベルの白い人差し指が、自分の唇に触れている。
青い目の奥に映っているのは、自分の、瞳。
「私は、陛下と結婚するのです。それは、何がどうあっても、変わらない事なのです。」
「・・・・。」
驚いて声の出ないレオンに、イサベルは畳みかけるように続ける。
「ですから、どうかこれ以上心配なさらないで。私たちは大丈夫ですから。」
余計な事はするな、と。
夫婦になる二人の間に、余計な気を遣うな、と。
そういうことか。
そういう、・・・ことなのか。
レオンは、イサベルの視線から逃れるように瞼を閉じた。
呑み込む空気を、これ程固く感じたことがあったろうか。
再び開いた目に映ったイサベルは、随分先を一人で歩いていた。
まるで、独り立ちをアピールするかのように。
レオンが目を細めると、見えないヴェールが二人の間に降ろされたかのように見えた。
レオンは翌日から、イサベル王女の世話役をネイチェルに委ねることにした。アンドリューはレオンの申し出を何も言わずに受け入れ、それはネイチェルも同じだった。レオンが自分の仕事を途中で放棄するなど、今まで決して無かったことだ。だから、アンドリューもネイチェルも、レオンが思い悩んだ末にやむなく申し出たのだと慮った。
しかし、離れを訪れたネイチェルから話を聞いたイサベルは、何も言わずに背を向けて館の奥へと閉じ籠ってしまった。
そして、皇太后とのお茶会どころか、次の「事」が起きるまで、離れから一歩も外へ出ることはなかったのである。