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第117話:分かち合う幸せ

 息せき切ってレオンが王宮に戻ると、謁見の間の扉の外ではセルベッサ王子が侍従と話をしていた。

 額に汗を浮かべ強張った顔つきをしているレオンを見て、セルベッサは苦笑した。

「そんなに慌てて戻らなくとも、国王陛下は御無事だ。」

 レオンは呼吸を整え、セルベッサにお辞儀をすると、部屋の中に入ろうとした。

 と、

「アンドリュー陛下は、なかなかの頑固者―――いや、失敬。『強い意志を持っている』と言った方が適切かな。」

 レオンが怪訝な顔つきをすると、美しい王子は、イサベルと同じ瞳の色で凝視してきた。

「バーンハウスト侯爵・・・だったね。君は、プラテアードの王女の居場所を知っているのか?」

「いいえ。」

「フッ、知っていても言うはずがない―――、か。あの国王の側近だものな。」

「本当に存じ上げないのです。」

「だが、面識はあるのだろう?」

「・・・多少は、ございます。」

「先日の戴冠式に出席しなかったことを、これ程後悔したことはない。父王はイサベルをアンドリュー陛下に嫁がせる事にしか頭が回らず、ろくにプラテアード王女を観察してこなかった。とんだ体たらくだ。」

 父親を嘲った王子は、レオンが簡単に口を割らないと悟ったらしく話題を変えた。

「残念ながら我が妹も相当な頑固者だ。頑固者同士気が合うといいが、逆に言うと衝突が耐えない夫婦になりかねない。側近の君には苦労をかけるだろうね。」

「恐れながら―――、」

 レオンは、視線を伏せがちにして言った。

「イサベル王女様は、気難しい皇太后陛下との関係を築くべく日々努力されております。アンドリュー様に対しても細やかな気遣いをなさる、大変聡明な王女様です。新しい王妃様としてこれ以上相応しい方はないと、皆、心より喜んでおります。」

 すると、セルベッサは堪えきれないというように吹き出した。

「聡明!?あの小生意気なイサベルが?」

 何が面白いのだろう?

 レオンは喉を締め付けられる感覚にギュッと拳を握った。

「妹が生まれて18年、初めて耳にした形容詞だよ。いいね、これは傑作だ!!」

 見ると、一緒にいる侍従まで王子に付き合っているのか、笑っている。

「侯爵はイサベルの毒気にあてられたかな?あれは可愛い顔で男を手玉にとる、我が妹ながら恐ろしい女なのだよ。まあ、数週間の付き合いでは本性はわからないだろうがね。」

 セルベッサは妹のことを何だと思っているのだろう?だが、これ以上言い返すことはアンドリューの立場を悪くする。レオンは深く頭を下げ、「失礼いたします」と告げて部屋の中に入った。

 イサベルが祖国でどのような扱いを受けていたのか、なぜ孤独を感じているような事を言っていたのか、わかる気がする。

 広い部屋の最奥で、アンドリューは肘掛のついた椅子の背もたれに身体を預け、天を仰いで固く瞼を閉じていた。だが、余程深い眠りについていない限り、アンドリューは人の気配に気付いている。レオンは壇の下に立ち、声をかけた。

「・・・アンドリュー、大丈夫か?」

 返事がない。

「部屋まで送る。今夜はもう予定もないし、早めに休めるだろう?」

「――― レオン。」

 アンドリューは天井を仰いだまま、言った。

「レオンはイサベル王女をどう思う?」

「どうって・・・、容姿も資質も、ジェードの王妃として申し分ないと思うが?」

 レオンからはアンドリューの顎裏しか見えないため、その表情は読み取ることができない。

「そうか。レオンがそう言うのなら、そうなのだろうな。」

「セルベッサ王子に、何か言われたのか?」

「いや、そうではない・・・が。」

 何とも歯切れの悪い答えだ。

 だが、その後アンドリューは一言も発することなく部屋に戻り、一人執務室に籠った。

 夕食もお茶も不要というアンドリューに、リビングで待機していたハロルド伯爵も不安の色を隠せなかった。

 日に日に少なくなる口数。食事も一日一回程度になっている。眠る時間も惜しんでいるらしく、アランはアンドリューが執務室でうたた寝しているのを何度も見ていた。だが、周囲の忠告を素直に聞くアンドリューではない。特に健康面には全く気を遣わないから、いつ倒れるか心配が耐えない。

 ハロルドは、今こそ、アンドリューの傍で公私共に支える存在が必要だと思っている。イサベルという婚約者にその役割を期待したいところだが、現実は無理だろう。お披露目の晩餐会以来、二人は殆ど顔をあわせていない。二人の今後を心配したハロルドやレオンが、「いくら戦争を間近に控えているとはいえ、お互いを理解し合う時間は必要だ」と進言しても、アンドリューは苦い顔をして返事を濁し続けた。


 婚約の儀式の日になった。

 正装に身を包んだ関係者達は日が暮れる前に大聖堂に到着し、月が出るのを待った。

 アンドリューは心のどこかで天気が崩れるのを期待していたが、それは叶わなかった。満月は赤く輝き、儀式の催行を促した。

 この儀式では、証書にサインをする他、指輪の交換がある。互いの国の宝石をあしらった指輪を、互いの右手の薬指にはめ合うのだ。

 満月の下、イサベルはアンドリューの手を取り、美しくカットされたラリマーの金の指輪を、ゆっくりとはめた。続いてアンドリューが、薔薇翡翠の指輪をイサベルの細い指にはめる。結婚式まで決して外すことは許されないと神使から説明されると、もう、決して引き返せないのだと実感する。

 わかっている。

 何もかも、わかっている。

 アンドリューは堅く瞼を瞑り、何度も自分に言い聞かせる。

 レオンが言う通り、イサベルは王妃に相応しい申し分のない女性なのだ。兄王子が何を言おうと、それは変わらない。


 その後、長い儀式の中で何が行われたか、アンドリューの記憶には残らなかった。


 王宮に戻り、自室で正装を脱ぎすてて一人になったのは午前0時過ぎ。

 アンドリューは残っている仕事を確認するため、執務室に入った。

 面倒な書類はアランが綺麗に片付けてくれている。有難いと思いながら顔を上げると、寝室に繋がる扉が目に入った。

 洞窟で見つけた石板の解読を頼んで以来、リディとは顔を合わせていない。

 リディがまだ起きているのか眠っているのかわからないが、アンドリューは深く考えずに寝室の扉をノックした。

 すると、すぐに扉が開いた。

「・・・!」

 リディは、シンシアが何か忘れ物を取りに来たぐらいに思っていたため、慌てて身を引いた。

 アンドリューと近い距離にいることは許されないと、身体が反応している。

 だが、アンドリューはそんなリディの素振りに構わなかった。

「すまない。起こしてしまったか?」

「いいえ。解読をしていただけです。」

「どこまで進んだか、見せてもらえるか?」

 リディはぎこちなく首を縦に振ると、部屋の隅のティーテーブルに備えられたビロードのソファにアンドリューを座らせた。そして、ノートと初代ジェード国王の日記を持ってきてテーブルに並べた。

「日記を一通り読みました。中にはジェードのことと同じぐらいプラテアードのことが書かれています。この頃はまだ、プラテアードもジェードと同じぐらいの国土を持っていてそれなりの強国だったようです。隣国同士の国交が盛んだったことも記してありました。でも、残念ながら洞窟の事には一切触れられていないのです。」

「洞窟の発見は、この時代ではないということか?」

「それはまだわかりません。でも、日記を読んでいて不思議に思ったことがあって、例えば・・・」

 リディは刺繍糸の束を栞代わりに使っていて、日記には複数の糸が挟んであった。

 日記の初めの方で緋色の糸を挟んでいた部分を開くき、

「この3行目の部分、それから・・・。」

 次に、藍色の糸を挟んでいた部分を開いて見せた。

「ここの8行目の部分を比べてみてください。」

 アンドリューは、少し離れた二つのページの間を長い指で挟みこみ、何度か見比べた。リディが、話を続ける。

「緋色の糸を挟んでおいた部分は、ジェードに関する記述。藍色の部分はプラテアードに関する記述です。」

「・・・他にも、糸が挟まれている場所は何カ所もあるようだな。」

 リディは日記の隣でノートを開いた。

「左にジェードについての記述、右にプラテアードについての記述を抜き出してあります。日記を書いているのは間違いなく一人の人間なのに、わざわざジェードとプラテアードに分けて同じことを違う表現で記している。そして、その箇所に限って文章の途中途中、不自然に大文字が使われているのです。」

 アンドリューは素早くノートに目を通した。

「これは・・・アナグラム?」

「私もそう思って、ノートの後ろに大文字だけ抜き出しているのですが、そもそも日記からの抜き出しが完璧でないかもしれないので、今はそれに専念しています。」

「・・・少し、読ませてもらっていいか?」

「勿論です。気付いたことがあれば、教えていただけますか?」

 しなやかな長い足を組んで、アンドリューはノートを真剣に読み始めた。

 リディはその時間を利用して、銀製のサモワールで湯を沸かし、紅茶を淹れた。

 白い陶器のカップに注ぐと、静かにティーテーブルに置く。

 アンドリューは軽く礼を言ってカップを手に取り、一口すすると思わず柔らかな表情になった。

「いい香りだな。」

 リディは嬉しそうに頷いた。

「そうでしょう?伯爵夫人からいただいた薔薇のシロップを垂らしたんです。夫人が王宮の庭で積んだ花弁を煮詰めて作ったのですって。」

「シンシアはそんなことまでできるのか。」

「本当に色々な事を知ってらして、勉強になります。慎ましやかな生活で物を大切に活用する方法を沢山教わりました。何でも御自身で作られるようですよ。・・・そういえば、」

 リディは、棚の中から皿を取り出し、それもテーブルの上に置いた。そこには、ティーソーサーと同じぐらいの大きさのマドレーヌがあった。

「これも夫人のお手製なんです。よろしければ召し上がってください。」

「・・いや、これはリディのために夫人が用意したものだろう?」

「私は昼間、既に一ついただいていますから。」

「しかし・・・」

 アンドリューは少し考え、

「じゃあ、半分ずつにしよう。」と言うと、王冠型のマドレーヌを自らの手で半分に割って、片方をリディに差し出した。

 これを断れる女性がいるだろうか?

 リディは両手で受け取ると

「では、いただき・・ます。」

 と言って、口元に引き寄せた。

 サクリとした歯触りのマドレーヌは、蜂蜜の優しい甘さが口の中に解け蕩けた。レモン果汁を皮ごと混ぜた生地から立ち昇る爽やかな香りが、後から鼻孔をくすぐる。


 何という幸せ。


 好きな人と一つの物を分ちあって食べる。

 それは、世間では他愛のない事なのかもしれない。

 しかしリディは、この初めての経験のもたらす幸福に溺れそうだった。

 お茶と焼き菓子を口にしながら、リディはアンドリューの見解を聞き、それについて意見を言ったり、質問をしたりした。

 アンドリューの博識には改めて感心する。

 会話を進める程に、リディの中で脳が覚醒し、曖昧なイメージがはっきりと形作られていくのを実感する。

 両手で持ったカップの芳香を吸いこめば、そのまま胸が一杯になって呼吸を忘れそうだ。

 これ程までに幸せで充実した時間を与えてくれるのは、この世でアンドリュー以外にありえない。

 永遠にこの時間が続けばいい。

 それが許されないことは、百も承知している。

 今の自分の立場も、これから何が待ち受けているかもよくわかっている。

 だが、今だけは。

 今だけは、せめて。

 浮上しそうになる現実を押し留めて、リディは今という時間を大切に、大切に噛みしめた。

 そしてそれは、アンドリューにとっても、充実した時間だった。

 自分の問いに的確な答えを返してくれる相手がいること。

 課題を解決する方法を一緒に考えてくれる相手がいること。

 かつてマリティムがフィリシアを求めた理由を聞いた時は「そんなものか。」と何も感じなかった。だが今なら、自分が兄と同じものを求めているのだとわかる。


 二人の話は、時折沈黙を挟みながらも、明け方まで続いた。

 カーテン越しに空の明るさを感じるようになった時分、アンドリューは立ちあがった。テーブルについた自分の右手の薬指に、婚約指輪ははまっていない。正装を脱いだ時、指輪も一緒に外していた。儀式の際、神使から指輪を外すことがいかに禁忌であるか滾々と諭されたのだが、それに構わず指輪を抜いていた。無論、リディに気付かれてはならないということもある。だがそれ以前に、「禁忌」を犯すことにより婚約が破断になるならそれでいいという気持ちたあったことも否定はできない。

 何もかも受け入れる覚悟ができていると言いながら、何と不謹慎なことを考えているのだろう。

 自嘲しながら、アンドリューは扉の前で立ち止まった。

 リディに、セルベッサの事を伝えておくべきかと一瞬思ったからだ。だが、それを伝えればイサベルの話もしなければならない。

 何も、話すことは無かった。

 そんなアンドリューの背を後ろで見つめていたリディの方が、口を開いた。

「次の満月までに石板の解読に目途をつけるつもりです。今どれだけお忙しいかわかっていますが、10日に一度だけでも意見をうかがう事はできませんか?」

 アンドリューは何故か安堵の息を漏らし、振り返って頷いた。

「質問や意見を聴きたいところを、予め示しておいてもらえると助かる。」

「では、ノートにメモを挟んでおきます。」

「それを水曜の夜、シンシアが下がった後に俺が受け取りに行く。そして木曜の夜に話をする、というのではどうだ?」

「わかりました。でも・・・あの、御負担になる時は遠慮なく断ってください。」

「負担ではない。第一、これは両国にとって重要な仕事だ。優先順位は高い。」

 リディが見つめたアンドリューの表情はとても優しくて、穏やかで、独りよがりかもしれないが、幸せそうに見えた。

 リディが今感じている飛び上がりたい程の幸せの万分の一でも、アンドリューが幸せを感じてくれているなら。

 ほんの一滴程でも構わないから、自分の存在がアンドリューの幸せに貢献できるなら。

 そんな思いを滲ませた瞳で、リディはアンドリューを見つめた。

 そしてアンドリューは、今日は、その視線を正面から受け止めた。

 互いの瞳に宿る熱量を、これ以上誤魔化し続けることはできない。

 だが。


 「・・・お休み。」

 「お休みなさい。」


 閉じた扉を挟んで、二人は背を向けあう。

 手を伸ばせば届くはずの幸せに、背を向けるように。

 一人になると、たちまち上気した頬が冷えていく。

 立場という現実に、二人は既に足を捕られ過ぎていた。

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