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第116話:ラリマーの国の王子

 アンドリューとイサベルには、婚約の儀式が用意されていた。

 その儀式の2日前。

 カタラネス王国から、イサベルの兄であるセルベッサ第一王子と神使がヴェルデの王宮にやってきた。

 婚約の証書は、いわば同盟の「仮契約書」となる。そのため、儀式は満月の夜、婚約する当人同士の他、両国の王族と神使立会の下で行われる。

 ジェード側の立会はアルティスが務めることになった。「二度と署名はしない」と言っていたアルティスだが「イサベルとのことは自分が薦めた話だから」と率先して名乗り出た。

 実際、イサベルは何度もアルティスとお茶を共にしていて、すっかり気に入られている。セルベッサ王子が訪れた時も、アンドリューとイサベルだけで出迎える予定が、わざわざアルティスまでも顔を出したほどだ。

 儀式の手順などの打ち合わせが終わり、お茶を飲みながら一息ついていると、セルベッサ王子は徐にアンドリューへ人払いを願い出た。

 部屋の中にアンドリューとセルベッサ、イサベルだけになると、セルベッサ王子は口火を切った。

「妹二人が早々に嫁ぎ、兄である僕だけが残ってしまいました。寂しいというより、焦りの方が募りますね。」

 セルベッサ王子は、イサベルと同じく金髪碧眼の美丈夫で25歳。大陸の各国から連日のように熱烈な輿入れの申し入れがあるが、すべて断っているのだと話した。

 その話を聞いたアンドリューは、嫌な予感がした。

 同じような話を、聞いた事があるからだ。

 セルベッサ王子は背筋を伸ばすと、アンドリューに正面から向き合った。

「将来、我が兄上となるジェードの国王陛下にお願いがあります。」

「・・・何でしょう?」

「今こちらに、プラテアードの王女がいらっしゃいますね?」

 アンドリューの眉間が僅かに軋んだ。

「王宮にはおりません。別の屋敷で軟禁しています。」

「是非一度、お目にかかりたい。」

 予想通りの筋書きに、アンドリューは冷静に首を振った。

「それは、応じかねます。」

「なぜですか?先日、表舞台に出たと聞いています。もう隠しておく必要もないでしょう。」

「あれは―――、プラテアードを大人しくさせておくための人質です。血筋は王女でも、今や我が国から独立を目論む革命家です。そんな危険な女を大切なお客様に会わせるわけには参りません。」

 しかし、セルベッサ王子は引き下がらなかった。

「では、婚約の儀式の立会人の一人としては?両国の立会人はそれぞれ原則二人。ジェード側のもう一人の立会人としてお呼びすることは敵わないものですか?現に、先日の戴冠式には王女が立ち会われたと聞いている。そうであれば今回も、」

「申し訳ないが・・・!それだけは、ご要望にそいかねる。」

 アンドリューの苦い額を目にしたイサベルは、兄の腕を掴んだ。

「もうおやめになって、お兄様。」

 セルベッサ王子は、隣に座る妹を見た。

「イサベル。これは大切な事なのだよ。」

「陛下がお困りでないの。お兄様は、私の立場を悪くなさりたいの?」

「そんなつもりは無いよ。せっかくここまで来たのだ。裏紋章を持つ希少な王女を一目見たいと言うのは無茶な願いなのだろうか?」

「プラテアードは、もはや王国ではないのです。ジェードの植民地なのです。あの方は、王女ではないのですよ?」

 セルベッサ王子は、「やれやれ」というように大袈裟な溜息を吐くと

「国家間の大切な話に、女を交えるべきではなかったようです。アンドリュー陛下、妹をこの席から外したいのですが。」

 イサベルは兄を睨みつけていたが、アンドリューにはセルベッサが何を話したいか予想できる。いや、イサベルもわかっているに違いない。だからこうして止めようとしているのだろう。

――― この大陸で、妙齢の紋章付の王女はリディだけ。それを手に入れたいと思うのは当然のことだ。呑気な顔をしているのは、そなただけだぞ―――

 エストレイのあのセリフを思い出すだけで、やり場の無い激情に苛まれる。荒げそうになる息を押し留め、アンドリューは瞼を閉じて頷いた。

「表に私の側近が待機しています。離れまで送らせましょう。」

 扉の外には、セルベッサ王子の侍従とレオンが待機していた。

 アンドリューはレオンにイサベルを離れへ送り届けたら即刻戻る様に伝え、すぐに扉を閉めた。

 イサベルは、思いつめたような暗い顔をしている。アンドリューと会った後の王女は、いつもこうだ。婚約しようという二人に、距離を縮めている気配が少しもないことが心配になる。

 アルティスとのお茶会後のイサベルは、暗いというより疲れ切った顔で出てくる。扉が閉まるまではにこやかでいるのに、閉じた途端全身の力が抜けた様に膝から崩れた時は本当に驚いた。極度の緊張に縛られていたことがわかる。だが、そんな状態になっても尚、イサベルはアルティスとのお茶をやめようとはしない。アルティスは気分の変調が激しく、はじめは機嫌がよくても何がきっかけで変貌するかわからない。アルティスの機嫌を損ねず2時間を乗り切る忍耐と聡明さは、見事としか言いようがない。だがそれと同時に、常に相手の顔色を窺い選りすぐった言葉のみを発するのにどれだけの神経をすりへらすことになるか、想像に難くない。

 レオンはアンドリューに、もっとイサベルを労り優しくしてやってほしいと願っている。だが、今のアンドリューにそれを望むのも酷な話だと思う。傷心のイサベルを送り届ける役目にあるレオンではあるが、たかが侯爵風情が未来の王妃に気安く声をかけるわけにもいかず、いつも、ただ腕を貸すことしかできない。

 今日も、同じだ。

 イサベルは桃色の唇をギュッと引き締めて宙を睨みつけていた。

 その歩みはいつにも増して遅く、レオンにとってはスローモーションに近い動きを求められた。

 黄昏時の庭園は、オレンジ色に染まっている。

 噴水のある広場に差し掛かったところで、イサベルがレオンの腕を掴む指に力を込め、思い切ったように口を開いた。

「教えてください。」

「え?」

「・・・陛下とプラテアードの王女は、どのような関係なのです?」

 レオンは思わず立ち止まり、イサベルを見下ろした。

「関係など、何もありません。」

「ではなぜ、陛下は彼女の話になるといつも苦しい表情をなさるのです?」

「・・・」

「ほら、答えられないではありませんか。」

「それは、プラテアードは敵ですから―――」

「侯爵。」

 イサベルはレオンの言葉をさえぎり、言った。

「舞踏会でダンスをした時、陛下は私の方を向いていても、瞳に何も映しておられなかった。それが、一瞬だけその瞳に風景が映ったのです。」

 イサベルの白い額と頬が、橙色に染まる。

「それは、アンテケルエラの王子とプラテアードの王女が踊っている姿を捕えた時でした。あの時から私は―――」

 レオンは、首を振った。

「それは、誤解です。陛下とプラテアード王女との間には何もありません。あろうはずがない!」

 イサベルは必死に訴えるレオンを見つめ、言った。

「―――それは、侯爵の願望・・・?」

「!!」

 図星だった。

 それは、最も他人から指摘されたくない「願望」だった。

 目を見開いて二の句が告げないレオンを見て、イサベルは視線を落とした。

「ごめんなさい。」

 レオンは、静かに首を振った。

「・・・いえ。本当の、ことですから。」

 イサベルは眉を顰めた。

「本当のことだからこそ、・・・言ってはいけないこともあります。」

 不思議だ。

 いつもなら、図星をつかれるのは深層心理を抉られる様で不快でしかないのに、今胸中を巡るこの感情は、決してそうではない。

「家臣に対しそのようなお気遣い、王女様がなさることではありません。」

「・・・そう、ですわね。」

 そう言うと、イサベルは先立って離れへと歩き出した。

 レオンは慌てて、その後を追う。

 歩く振動と風に揺られる金髪は、夕日に照らされた赤い輝きから、ラベンダー色の宵に浮かびあがる金色へと移りゆく。エクリュのレースをあしらったドレスが、その変化にあわせるように揺らめく。

 薔薇の庭に相応しい、美しい光景。

 それを追いかけていると、まるで夢の中を彷徨っているような錯覚に陥る。

 重力も、時間間隔さえ失ってしまいそうな感覚。

 果樹園に差し掛かった時、イサベルは突然立ち止まってレオンを振り返った。

「・・・そんな悲しげな表情をなさることも、あるのですね。」

 レオンは、ハッとして表情を引き締めた。

「悲しげな表情など、しておりません。」

「悪い事ではないのですから、否定なさらなくてもよろしいのに。」

「否定ではなく、事実を申し上げたまでです。」

 すると、イサベルは口元に指を添えてクスッと笑った。

「こんな他愛のないことで、むきになるのですね。」

「むきになど、なっていません。」

「ほら・・・!」

「・・・。」

 返す言葉がないが、イサベルの明るい顔を見ていると、もはやどうでもいい様な気持ちになる。

 レオンは黙って、心なしか楽しげになったイサベルの足取りに付き従った。

 やがて二人は離れに辿り着き、レオンが館の入り口で呼び鈴を鳴らそうとすると、イサベルの手がそれを止めた。

 先程とは打って変わって、青い瞳が強い光を帯びている。

「兄が、プラテアードの王女を狙っています。」

「・・・!」

 レオンは、眼を見開いて息を呑んだ。

 イサベルは抑えた声で続けた。

「陛下は当然、お断りになるでしょう。ですが兄は執着心の強い男です。同盟を盾に無理矢理迫る可能性もあります。」

 王族でないレオンには、わからない。なぜ取り潰された王家の生き残りを、エストレイといいセルベッサといい、大国の王子がこぞって狙うのか。

「今、陛下と兄はそのことを話しているのです。陛下は大人でいつもは冷静な方です。でもプラテアードの王女のことだけは別です。それは侯爵もおわかりのはず。二人が諍っていなければよいのですが。」

 そうか。

 それを心配しての「問いかけ」だったのか。

 つまらぬ猜疑心とか嫉妬ゆえの質問などではなかったのだ。

 レオンは、自分の浅はかさを恥じた。

 そして言った。

「すぐに戻って確認します。儀式の前ですから、お互いに無理はなさらないでしょう。」

「そう願ってはいるのですが。」

「御心配なくお待ちください。何かあれば即刻、何もなければ明日、報告に上がります。」

「頼みます。」

 イサベルが扉の奥へ消えるなり、レオンは王宮へ走った。

 帰りの道のりを進むほどに、夢は、現実へと冷めていく。

 王宮のエントランスに灯る明かりを捉えた瞳でそのまま宙へ視線を移すと、そこには一番星が一際強い光を放っていた。

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