第115話:ラリマーの国の王女
ハロルドからアンドリューの婚約話を聞かされたシンシアは、呼吸を忘れたように唇を固く結んで顔を赤くし、震えていた。
骨筋張った細い腕で掴んだスカートが、同じように振動している。
色々、言いたい事があるのだろう。
しかしそれを言ってはいけないと自制して我慢しているのだ。
ハロルドは、烈火の如く憤ると思っていた妻が必死に感情を抑えていることをいじらしく思った。震える妻の手を握り、優しく諭した。
「一週間後には、イサベル様が入国される。お前も色々な事を見たり、聞いたりするだろう。しかし、その事を決してリディ様に気取られてはならない。それは、わかるね?」
シンシアは、すぐに頷くことができなかった。
リディの前で、平常心でいられるか。リディの現状に胸を痛め、泣いてしまわないか。その結果、リディがアンドリューの婚約を察知するようなことがあってはならない。
「どうだね?シンシア。無理なら無理と言って欲しい。そうしたら、リディ様の侍女というお役目から外していただこう。」
「そんな・・・。」
「お前がリディ様に心からお仕えしていることは私も陛下も嬉しく思っている。しかし、だからこその心配なのだ。」
シンシアは、自分以外にリディの侍女を務める者などいないと知っている。責任の重さからすれば、逃げるという選択肢などない。第一、自分は当事者ではない。何を耐えられない事などあろか。
夫の手を握り返して、シンシアはしっかりと頷いた。
「大丈夫です。絶対にリディ様には知られない様にします。ですから、侍女から外すなどとおっしゃらないで。」
ハロルドは、妻の肩を優しく抱きながら言った。
「わかった。陛下にそのように伝えよう。だが、失敗は許されないのだよ。」
「わかっています。」
二人は長い時間頷き合いながら、口に出せない想いのすべてを呑みこんだ。
カタラネス王国のイサベル王女は、18歳になったばかり。瑞々しい桃色の頬には、まだあどけなさが残っている。青い海のように揺らめく大きな瞳に太陽の輝きを思わせるまばゆい金髪。国の宝石はラリマーと呼ばれる水色の石で、イサベルは晴れた空を思わせる色のドレスで王宮のエントランスに立った。肩口や裾にフリルをふんだんにあしらったデザインは10代の可愛らしさを引き立て、迎えの侍従や侍女達が思わず溜息を漏らす程可憐だった。
レオンは、カタラネスへ密書を運ぶ役目を仰せつかった時から、こういう予感はしていた。今までさして交流もなかった遠方の国への用件など、考えるまでもない。舞踏会で皇太后が国王のファーストダンスの相手に選んだ王女が妃候補であることは、察するに余りない。
だが、流石に今の状況で、この話は酷だと思った。
無論、今でもリディとアンドリューの仲が深くなることを許してはいない。アンドリューは、しかるべき国の王女と結ばれるべきだと思っている。だから、すべては自分の思い描く通りに動いているのだ。
なのに、躊躇いばかりが先に出る。
それでも、自分に与えられた役目としてイサベル王女を丁重に扱い、異国で何一つ不自由がないように十分な準備をさせ、エスコートしてきた。イサベルは決して人懐こい性格ではなかったが、カタラネス到着から今日まで二週間懸命に尽くした甲斐あり、信頼を得る事はできた・・・と思いたい。
馬車を降りる時、レオンが王女に手を差し伸べると、イサベルはそのままレオンの腕に白い腕を絡めて「私をこのまま一人で歩かせることなどありえませんね?」と言いたげな視線を向けてきた。
レオンは複雑な感情を呑みこんで懸命に笑顔を返し、まずはアルティスのところへ連れていく事にした。
アルティスは、ほぼ使った事のない皇太后専用の謁見の間で、イサベル王女を出迎えた。最高級の待遇だ。
「遠いところをよくいらっしゃいました。お疲れでしょう?」
労いの言葉に対し、イサベルは深く頭を垂れて丁重な礼を述べた。
その慎ましやかな一連の所作にアルティスは満足し、イサベルにゆっくり休むよう伝えた。
イサベルは謁見の間を出ると、レオンに言った。
「次は、アンドリュー様に御挨拶をしたいのですが。」
「長旅でしたから一休みして、着替えをされてからの方がよろしいのでは?」
「私、少しも疲れてなどおりませんわ。それとも、何か都合の悪い事でも?」
「いえ、そうではございませんが、国王陛下にお会いになる時は正装の方がよろしいかと存じます。召使いがお茶の用意を整えておりますし、どうぞゆっくりお寛ぎください。」
レオンは思いつく限りの言葉を並べてイサベルを宥めすかし、王宮の中枢部から、薔薇の咲き誇る庭を案内しつつ、「離れ」へ案内した。
王宮の東側の広大な薔薇園を抜けると、オレンジやレモン、林檎などの果樹園がある。その中腹に建てられた煉瓦造りの「離れ」は、異国から家族ぐるみで長期滞在する国王一家のために建てられた一軒家である。一軒家とはいっても、中庭付の2階建てで部屋は15もついていて、小規模な城と言っても十分な贅沢さだ。先日の戴冠式では、一つの国だけ特別扱いはできないため使用されなかったが、侍従と侍女、女官、召使い、従僕など10名を付き従えた未来の王妃には相応しい待遇と言えよう。何せ、レオンが「召使いなどはジェードで用意する」といくら説得を試みても、異国で寂しがらないようにと、カタラネス国王が強引に同行させたのだ。イサベルがジェードに慣れてきたら、2人ぐらい残して後は全員帰国させるつもりだ。異国の人間を易々と王宮に入れるのはスパイを潜り込ませることに等しい。フィリグラーナの時だって、こんな事は許されなかった。
「随分、王宮から離れたところですわね。」
侍女の棘のある言葉に、レオンは余裕の表情で笑みを返した。
「この離れは、王家の方でも特別な方のみに解放している場所でございます。それに王宮内では、将来の王妃様に対して値踏みするかのような輩の目もございます。しばらくは、離れの方が気兼ねなくお過ごしいただけるだろう、との陛下の御心遣いですが、御気分を害されたのであれば―――、」
「いえ。国王様の御心遣いであれば、私どもは何も・・・。」
「離れには、警備以外のジェードの者は立ち入りません。今、お茶を設えた召使い達も、給仕を終えたらすぐに出て行きます。」
イサベルは、先を行くレオンに尋ねた。
「・・・それで、いつアンドリュー様にはお会いできますの?」
「歓迎の晩餐会を開きます。その前に御案内いたしますから。」
「そう。」
正直、お姫様の御機嫌取りは性に合わない。人生の多くをアンドリューのために捧げてきたレオンの周囲は、常に気の置けない男達ばかりだった。新聞記者として働いていた時に関わった女性達は皆自立して同等の立場だったため、このように「気を遣う」状態が連続したり「ご機嫌をとる」ことは初めてに等しい。
離れで一行と別れ、ようやく眼にしたアンドリューは、心なしか顔色が悪く顎が尖って見えた。
イサベル王女を連れて帰国したことを手短に報告したレオンに対し、アンドリューは仕事の手を休めることなく、ただ一言「わかった。御苦労。」とだけ言った。
「今夜の晩餐会の前に、イサベル様に会ってくれないか。」
「それは、必要な事なのか?」
「・・・すまない。俺の独断で、王女様に約束をしてしまった。」
「そうか。では、謁見の間へ通してくれ。」
「わかった。」
アンドリューは、レオンの顔を一度も見なかった。
こういう時のアンドリューの心境が、レオンにはよくわかる。
リディの事件があってから、アンドリューと一緒に行動している時でさえ、避けられている気がする。嫌、信頼の欠片が剥がれ始めているといえばいいか。物理的な距離ではなく、心の距離が遠のいていく気がする。
(それでも俺は、俺の役目を果たすまでだ。)
レオンはぐっと顎を上げて、気を引き締め直した。
謁見の間に現れたイサベル王女は、薄青から濃紺がグラデーションになったドレスを身に纏っていた。肩から背中が大胆に開いていて、真珠の様な肌が透き通って見える。胸元には大粒のラリマーを小粒なサファイアがぐるりと取り囲んだプラチナのネックレスが燦然と輝く。これらを引き立たせる様、まばゆい金髪はアップに結い上げられていた。
イサベルは自分の魅力をよくわかっていて、その「見せ方」も心得ている。どういう話し方で、どういう視線の使い方で、どういう仕草をすれば男が甘えさせてくれるか、物心ついた頃から自然と身に付けてきた。それは裏紋章を持たない第二王女が生き抜くための術だったのかもしれない。
お決まりの挨拶の後、イサベルの視線の先には、あまりにも表情の無い、何を見ているのかもわからない未来の夫の姿があった。
皇太后を始め貴族や大臣ら100名程を集めた晩餐会は豪華絢爛で、裏で戦争の準備をしているとは想像もできない様相だった。
アンドリューとイサベルは並んで前に座り、その場に居合わせた人々からは口々に「美男美女で御似合いだ」「新しい『ジェードの薔薇』も申し分のない美しさだ。」などと美辞麗句を並べ立てられた。
愛想笑いも出来ない程アンドリューの心中は穏やかではなかったが、それを覆い隠すようにイサベルが笑顔を振りまき、ほとんど食事もせずに祝いの言葉に対応していた。
その様子を後ろで見ていたレオンは、晩餐会が終盤に近付いた頃、そっとアンドリューの脇に立った。イサベルは皇太后のテーブルに移り、和やかに食後の紅茶を楽しんでいる。
「差し出がましいと思うが・・・、イサベル王女に労いの一言ぐらいかけておいた方がいいんじゃないか?」
アンドリューも、流石に自分の態度がイサベルに比べて相当大人げなかったと自嘲していたところだった。
「そうだな。晩餐会が終わったら、もう一度謁見の間で話をする。王女の侍女達には、話が終わったら部屋まで送り届けるから先に戻る様、言っておいてくれ。」
「わかった。」
「それにしても・・・」
アンドリューは座ったままレオンを見上げた。
「レオンが女性を気遣う台詞を、初めて聞いた気がする。」
レオンは、不快そうに眉をしかめた。
「未来の王妃様だ。これから永い付き合いになる。カタラネスとの友好は大切だし、余計な揉め事は小さな芽のうちに潰しておきたい。それだけだ。」
レオンはそう言い放つと、その場を離れた。
アンドリューは、遠目にイサベルの様子を窺った。アルティスは殊の外上機嫌だ。イサベルは、きちんと自分の役割を自覚している。そして、十分な覚悟をもってこの国に入ったのだろう。アンドリューは自分が18歳の時、こんな覚悟があっただろうかと思い返した。勿論、自分の運命がどうなるか全くわからなかったこともあるが、スパイの役割の傍らで敵の罠にはまって恋に溺れ、危うく死ぬところだったのだから、国を背負うなど程遠い『青二才』だったのだろう。
晩餐会が終わったのは深夜を回っていたが、アンドリューは今一度イサベルを謁見の間に誘った。
部屋の中で二人きりになると、アンドリューはイサベルと正面から向き合った。
イサベルは透き通る青い瞳で、まっすぐにアンドリューを見つめてきた。物怖じしない、強さを感じる。ただ、目の前にいるのが未来の妻だという実感がまるで湧かない。情愛もないが、嫌悪感もない。
「今宵の宴では、客の相手をよく勤めてくれて、感謝している。特に皇太后があれ程上機嫌だったことは珍しい。長旅で疲れていただろうに、気遣いもせず申し訳なかった。」
思いがけないアンドリューの謝罪に、イサベルは目を丸くして驚いた。
「陛下にそのようなお言葉をかけていただけるとは・・・恐縮です。」
「本来、俺の方があなたをエスコートすべきだったと、反省している。」
イサベルは長い睫毛を伏せ、首を振った。
「いいえ。国王に即位されて間もないのですから、毎日お忙しく、色々お気に掛かることもあるでしょう。私の方こそ陛下にお気を遣わせてしまい、妻となる身としては失格です。」
アンドリューはもう一度軽く頭を下げ、用事は終わったとばかりに部屋の扉のノブに手をかけた。
イサベルは軽く顎をひくと、思い切って言った。
「アンドリュー様は、私との結婚を望まれてはいないのですね?」
思わず、外へ向けていた足が止まった。
「誤解なさらないでください。責めるつもりはございません。強国とはいえ、所詮私は第二王女。裏紋章もない。どこの王国も、私の美貌を褒めそやしても、決して縁談は持ちかけませんでした。差し詰め、売れ残りだったわけですから、当然です。」
アンドリューはイサベルの方を振り返った。
「第二王女だからということは、関係ありません。」
「では、純粋に女性として魅力を感じていただけないということでしょうか?」
これ以上返事に困る質問があるだろうか?アンドリューが無言でいると、イサベルの方から言葉を繋いだ。
「舞踏会でファーストダンスのお相手を務めた時、陛下は私の方を見ていても私自身を見てはくださらなかった。私が何を話しても、まるで上の空でしたし。」
「・・・それは、失礼をした。」
「構いません。この結婚は国同士の契約であって、庶民のような愛の結末ではないのですから。・・・ですが、」
イサベルは、改めてアンドリューを凝視した。
「他の方々の目がある時だけは、仲睦まじい様子を演じてくださいませんか?国王夫妻の不仲は、国家の安寧に暗雲をもたらすものです。私は、人前では陛下を愛する良い妻を演じます。『ジェードの薔薇』として、常に美しく気高い王妃であると約束をします。」
「・・・殊勝な心がけだ。こちらも、それは見習うべきなのだろうな。」
アンドリューの声が思いのほか低く響いたため、流石のイサベルも生意気を言い過ぎたかと些か後悔した。そんな様子に気付きながら、アンドリューはあえて語気を強めた。
「だが、それは暫く先の事になる。婚約はしても、結婚は数年先の可能性が高い。」
「え・・・?」
「戦争が、控えている。」
イサベルが息を呑み、喉がクッと鳴った。
「それは・・・、初耳です。」
「当然だ。カタラネス国王にはあえて隠して、話を進めた様だから。」
「一体、どこの国と?」
「アンテケルエラ王国。」
イサベルは、白いレースの手袋をはめた指を、口元にあてた。
「エストレマドゥラ王子は、舞踏会でプラテアードの王女を弄んでらした。まさか、それが発端ですか?」
「発端ではないが、プラテアードを巡る戦いであることに違いは無い。」
「アンテケルエラは強国です。・・・簡単に決着はつかないでしょう。」
「ああ。一度始まれば、長引くと覚悟している。」
アンドリューは、再びイサベルと向き合った。
「例え『離れ』にいても、戦争の準備が始まっていることは隠しきれないと思い、告げた。もしアンテケルエラに屈服するようなことがあれば、あなたの身も保障できなくなる。ここまで準備をさせておいて申し訳ないが―――、この話を断って帰国してもらって構わない。」
すると、イサベルはアンドリューを睨み上げた。
「私を、見くびらないでください。」
イサベルの美しい眉が、吊り上がる。
「私は、二度とカタラネスの地を踏むことはないという覚悟をもってジェードに入国しました。それは、例えジェードが我が祖国カタラネスと戦うことになったとしても、私はジェードの人間として親兄弟と戦う覚悟ができているということです。それを!簡単に帰国して良いなどとおっしゃらないでください!」
そう言い放ったイサベルの顔は、人形などではなかった。
強い意志をもった、一国の未来を担わされた王女そのものだった。
「・・・すまなかった。」
アンドリューが素直に謝罪すると、イサベルは首を振って肩を落とした。
部屋から出ると、アンドリューはイサベルをレオンに託すなり自室へ向かい、曇った表情をしているイサベルを手元に残されたレオンは、一体どうすればいいのかと困惑した。
離れまでの道のりは遠い。
さらに、昼間は温かかった薔薇園には冷たい風が吹いていた。
肩から背中まで開いたドレス一枚のイサベルは、外に出るなり思わず身体を竦めた。
レオンはすかさず自分のフロックコートを脱ぐと、「王女様のお許しがいただければ。」と、それをイサベルの肩へ翳した。イサベルは軽く驚いたようだが、すぐにフッと口元を緩めて、「よろしくてよ。」と答えた。
レオンの黒いフロックコートは、イサベルの小さな身体を覆うには十分すぎた。
風が入らない様にイサベルが胸元で前を合わせると、風を遮る様に前に立ったレオンの背中が見えた。絹の白いシャツ一枚で、レオンの方が寒そうに見える。しかし、自分より身分の低い者を気遣うことはイサベルの矜持が許さなかった。その代わりとなる言葉を、イサベルは探した。
「バーンハウスト侯爵は、いつからアンドリュー様と御一緒されているのです?」
「もう、20年以上の付き合いになります。」
「では、お互いの事を知り過ぎるほど知ってらっしゃるのでしょうね。」
「そのようなことはございませんが、お仕えする以上、アンドリュー様のことを理解したいとは、いつも思っています。」
「うらやましい。」
「・・・え?」
イサベルの小さな呟きに、レオンは思わず立ち止まり、後ろを振り返った。
「私には、私を理解しようとしてくれる家臣などおりません。うらやましい限りです。」
「侍女も侍従達も、イサベル様に心から御仕えしているように見えますが。」
「彼らには父の息がかかっています。私より父の命令の方が絶対なのです。父が彼らを強引に連行させたのは、私が可愛くて心配だからではありません。私が国を裏切る様な真似をしないように、見張りでつけさせただけなのです。」
イサベルは、眉を僅かにひそめた。
「きっと今だって、誰かがその辺の茂みに潜んで私達の会話を盗み聞きしているのです。小さい時から、いつもそうでした。」
「そのような事を、私にお話しされて大丈夫ですか。」
「だって、侯爵は私の夫となる方の忠臣ではありませんか?何でも知っておいていただかないと。」
「しかし―――」
「侯爵は、度重なる私の我が儘にも辛抱強く付き合って下さった。あなたが信頼に足る人物だという事は、よくわかりました。これ以上試すような真似はいたしません。」
なんと、数々の我が儘は、すべて芝居だったというのか。
「人の本性を知るには、怒らせるような事をするのが一番簡単ですもの。侯爵はちょっとだけ右の眉を動かして、それから笑顔で応えてくださるのよね?もう覚えましたわ。」
イサベルは、驚くレオンをからかうような楽しげな口調で、クスクスと笑った。
その笑顔の、何と華やかで美しかったことか。
漆黒の夜に、まさに大輪の薔薇が咲いたかの様だ。
金髪の回りに、黄金が散りばめられたかのように見える。
レオンは、女性の笑顔を初めてまぶしいと思った。
離れに到着する間際、イサベルは抑えた声で言った。
「王宮が戦争の準備で大変なことはアンドリュー様から伺いました。私達を遠ざけたいのも当然でしょう。ですが、何も繋がりを持てないというのは寂しいものです。」
「国王陛下と、3日に一度は会えるようにいたしましょうか?」
「いいえ。それは今のアンドリュー様にとって、最も煩わしい約束になってしまうでしょう。代わりに3日に一度、皇太后様とお話しする機会を設けていただけませんか?」
「皇太后陛下は、大変難しい方です。いつも御機嫌麗しいとはいえません。」
「心の病だということは聞いています。せめて3日に一度、お会いできるかどうか、知らせてください。侯爵もお忙しいとはわかっていますが、お願いできませんか?」
この上目遣いの「おねだり」の仕方も、仕組まれたものなのだと。
そうわかっていながら、頷くことが自分の「計算」なのだと。
その肩に預けたフロックコートを返そうとせず、またそれを要求しないことも、互いの「狙い」の内なのだと。
レオンは、自らに言い聞かせるように、呪文の如く繰り返した。
そうでもしなければ、イサベルの青い瞳に呑みこまれ、すべてを信じてしまいそうになる。
20歳以上も年下の若い王女の罠に、はまってはいけない。
自分は、この甘やかな魔法の囁きに誘われる程、生易しい人生を送ってきてはいない。
一人、星明かりを頼りに歩く果樹園を通り抜ける風は、フロックコートが無いにも関わらず、冷たく感じなかった。
その事を戒めるように、レオンは首のアスコットタイをむしり取り、胸元を開いた。
すると、実を付け始めたばかりの青いレモンの苦い香りが、風に混じって鼻先を掠めていった。