第114話:アルティスの告白 -その2-
想像したこともなかったヴェールの奥には、アルティスの天蓋付ベッドと玉座の他にも、長椅子やテーブル、チェスト、ドレッサーなど生活に必要な調度品がコンパクトにまとめられていた。緋色のカーテンに絨毯、金彩の壁紙。何かの呪いかと疑いたくなる怪しい彫刻や仮面が飾られているのはいただけないが、皇太后に相応しい贅を尽くした部屋であることに疑いの余地はない。
テーブルに置かれた金の燭台の灯りを挟んで、二人は向かい合った。
まさか、あの母親とまともに話をする日が来るとは思っていなかったが、アルティスの気怠い溜息を聞くと、単に離れている場所でも聞こえるように声を張り上げるのが面倒になっただけだと想像できる。とはいえ、今まで怒鳴られるか物を投げつけられた経験しかない相手を前にすれば、それなりに緊張する。唇を引き締め、顎を引いて固唾を呑んだ。
そんなアンドリューとは対照的に、背凭れに身を預けきったアルティスは、ゆったりとした口調で尋ねた。
「アドルフォが死んでから、もうどれぐらい経つか。」
「14年以上です。28年前、ジェードがプラテアードを完全に制圧した時と同じくらい激しい武力衝突があったと聞いています。」
「プラテアードのような小国は戦争の標的にうってつけだ。それが28年前まで存続し続けられたのは、ジェードと同盟を結んでいたからに過ぎない。」
アルティスの歪んだ瞳に、蝋燭の灯りが映り込む。
王宮の内部は電気が通っているというのに、アルティスは自室で蝋燭しか使わないと聞いた。
「私がこれから話すことは、亡き夫から聞いた話にすぎない。記憶違いのこともあるだろうし、嘘もあるだろう。真実は後で、国王に代々受け継がれている日記で確認することだ。」
アンドリューは、黙って頷く。
アルティスは長い睫毛を伏せがちにした。
「いつからかわからぬほど遠い昔から、ジェードとプラテアードは同盟を結んでいた。プラテアードのような、ろくな資源も持たぬ国をジェードが決して他国に渡さない理由・・・それは、二つの国境の谷間に莫大な財宝が眠っているからだ。」
アンドリューは、思わず息を呑んだ。
それは、リディと二人で迷い込んだ洞窟で見た、薔薇翡翠とブルーアンバーと水晶の谷のことに違いない。
「ところがその財宝は、両国の正統な跡継ぎが協力し合って初めてその姿を現すという。どうやら財宝を初めて見つけた時に、他国に盗られないよう仕掛けを作ったらしい。」
アンドリューの中で、あの時の経路が鮮やかに蘇った。
発掘のために、これから数回は入らなければならないと考えているが、1回1回が命懸けであることは身を持って知っている。
財宝を守るための仕掛けだったというのは納得できるが、一歩間違えば王位継承者が命を落とす。そんなリスクを圧してまで手に入れようとした国王が、果たして何人いただろう?
嫌。
往路は苦労したが、帰路は容易すぎた。外へ繋がっていた階段こそが真の王家のためのルートだったのではないか。だが、そうであれば「両国の正統な跡継ぎが協力し合って」というプロセスとは矛盾する。
アンドリューが眉一つ動かさず考えを巡らしていると、アルティスは少しだけ顔を上げた。
「お前は、我が夫に妹がいたことを知っていたか?」
「!?・・・いいえ。」
「もう、35年程前になるか。私はジェードに嫁いだばかりで、夫は国王に即位したばかりだった。夫の妹・・・アンジェラ王女は幼少から体が弱く、城の中でばかり過ごしていた。そのせいか人見知りが激しく内気な性格で、私が何度お茶に誘っても、一度として顔を見せる事がない程だった。」
以前、マリティムから見せてもらったファミリーツリーに、父親の妹の名などあったろうか?全く記憶にない。
「王女として外交手段に嫁がせようと大臣達が動いたが、あの性質では見知らぬ男に耐えられないだろうと、一度は諦めたようだ。しかし夫は何とかしようと舞踏会を開き、大陸全土から独身の王子を招いて、アンジェラ王女に選ばせることにした。」
「・・・アンジェラ王女は舞踏会に参加されたのですか。」
「いや、周囲が説得して、緞帳の陰から舞踏会の様子を窺わせるのが精いっぱいだった。しかし・・・運命とは因果なものよ。自室へ戻るため廊下を歩いていた王女が偶然落とした扇を拾ったのが、プラテアードの王子だった。つまり、ルヴィリデュリュシアン・・・長い名だ。通称名はリディとか言ったな?あの小娘の父親だ。」
それが縁で、アンジェラ王女はプラテアードの王子を選んだというから、御伽噺さながらの出来過ぎた話だ。
「いくら同盟国とはいえ、相手は小国。アンジェラ王女が嫁いだところで何の得にもならぬ。周囲は猛反対したが、王女は頑として受け入れなかった。・・・ところがそうこうしている内に、プラテアードの王子は、信頼している家臣の公爵令嬢と結婚してしまったのだ。」
それが、リディの母親か。他国から嫁いだ王女とばかり思っていたが、違ったようだ。
「他国の王女との縁組であれば、国家間交渉になるからな。ジェードに相談があったろうに、相手が王族でなかったが故、知らぬ間に話が進んでしまっていた。」
プラテアード国王とて、まさかジェードの王女との縁談など想像もしていなかったに違いない。
「ジェードはプラテアードに対し、公爵令嬢と離縁してアンジェラ王女を正妃として迎え入れる様申し入れたが、プラテアード側は断ってきた。夫は金銭で釣ろうとしたり、不利な取引を仕掛けて脅したりしたが、受け入れられなかった。ジェードのプラテアードに対する風当たりは段々強くなり、心労でプラテアード国王は逝去した。王子が新国王に即位すると、仲違いの原因が何だったかわからなくなるほど、様々な小競り合いが絶え間なく続いた。」
そこまで話したアルティスの表情が、不意に厳しくなった。
「気の弱いアンジェラ王女は、両国の関係が悪化した原因が自分であることに責任を感じ・・・新月の夜に自ら命を絶った。」
「・・・!」
「可哀想なアンジェラ。ただ一度の恋が報われないだけでなく、国家の狭間に潰されてしまった。」
「それが、本格的な戦争のきっかけですか。」
「そうだ。数年間に及ぶ応酬は国民にも影響を与えていたからな。くすぶっていた炎が一気に燃え上がるかの様だった。」
何百年にも及ぶ同盟が、唯一人の王女のために破棄されたのか。
だが、唯一人の王女のために戦争が起きようとしているのは、今も同じだ。
なぜ歴史は学習されず、繰り返されるのか。歴史は抗えぬ運命の結果だからなのか。
アルティスは、蒼い瞳で遠くを見つめた。
「プラテアードなど、あっと言う間に降参すると思っていた。しかし想像以上に善戦し、その分戦争は長引いた。業を煮やした夫は、プラテアード国王に対して一つの提案をした。それが、峡谷の財宝だ。」
「発掘のための協力を求めたと?」
「それもあるが、真の要求は、財宝すべてをジェードの所有とすることだった。それで戦争を終え、プラテアード王家の存続を約束すると提案した。」
「それは、受け入れられたのですか?」
「見の程もわきまえず断ってきた。なぜジェードに有利な取引に応じなければならないのか、と。・・・まったく、プラテアード国王の何と強情だったことか!その血を見事に受け継いだのがあの小娘だ。アドルフォに育てられながら、なかなかどうして、あの娘は間違いなくプラテアード国王の子だ。容貌は王妃に似ているが、あの目、あの表情はまさしくあの男のそれだった。生意気な・・・、今思い出しても腹が立つ!」
アルティスは机を拳で叩くと、呻くような声で言った。
「財宝を手に入れる事は、両国王家の長年の悲願だった。だから夫は王宮に攻め入り、プラテアード国王を拉致して強引に財宝の眠る場所へ連れて行った。だが、プラテアード国王はジェードに渡す財宝のために協力など出来ないと言って、夫の目の前で舌を噛み切って、死んだ。」
戦いの最中に死んだと聞いていたが、まさか自殺だったとは。
このような事実を、アドルフォや側近達は知らされていたのだろうか。
「怒り狂った夫はプラテアード王家の取り潰しを決めた。王妃が身重だったことはわかっていたが、夫の憎しみは頂点に達していたからな。出産前に王妃を殺害する様、命じた。」
「・・・しかし、子供は生き延びた。」
「ああ。その事実を聞かされても、俄かには信じられなかった。しかしマリティムは、アドルフォの娘が王女だと知った時、暗殺をやめて拉致を命じたろう?」
「はい。利用するだけ利用した方が得策だと。」
「その『利用』には、財宝の発掘も含まれていたのだろう。何せプラテアード王家は全滅し、二度と財宝は手に入らぬものと諦めていたのだからな。嬉しい誤算だったやもしれぬ。結局、マリティムは着手できなかったが。」
アンドリューは、一度呼吸を整えてから、言った。
「今後は俺が、着手します。戦争の片が付いたら、リディと共に。」
アルティスは、鼻先で嘲笑した。
「その『リディ』は、今どうしておるのだ?」
「・・・。」
「舞踏会以降、私の周りは誰も行方を知らぬ。お前の側近達は口を割らぬし、噂では郊外の館に軟禁しているというが、それは誠か?」
「そのとおりです。」
「下手な嘘だな。」
「嘘ではありません。」
「では、これだけは答えよ。アンテケルエラの王子との間に何があった?私の知らぬところで、三国間で覚書を交わしたな?立ち会った神使も詳細は語らぬのだ。」
アンドリューは、喉の奥で迷った。
裏紋章の有無に関わる話は、ジェードでも皇太后にしかできない。
だが、それを知ったアルティスがどう動くか予測もつかない。アンドリューにとってアルティスは、未だ信頼に値しない存在なのだ。
出すべき情報を計算し、アンドリューは口を開いた。
「マリティムがリディを人質にしようと言いだしたきっかけは、エストレイがリディに求婚したためでした。強引に奪われる可能性があったため、ジェード国内で『人質』の名目で匿う事にしたのです。今回エストレイは、招かれてもいない戴冠式に父王の代理としてやってくると、リディを正妃としてアンテケルエラに迎え入れたいと申し出ましたが、当然認められないと、断りました。」
アルティスは黙って聞いていたが、腑に落ちないといった表情で首を振った。
「そんな綺麗事だけではなかろう?今聞いた程度なら、誰に何を隠す必要もないではないか?」
「俺は事実を話しています。」
「・・・アンドリュー。私がお前にプラテアードを手離せない理由を話したのは、所詮何百年も日の目を見ず、一度は諦めた財宝のために、多くの犠牲を払う必要があるのか問いたかったからだ。」
アンドリューは、アルティスの目を初めて正視した。
アルティスの瞳の色は、こんなにも自分と同じ色だったのかと気付く。
「プラテアード自体に、ほぼ資産価値はない。しかも独立を求めて今後もジェードに楯突く事を考えれば、アンテケルエラへ高く売りつけてしまうという手もあるのではないか?」
「これは、金銭や財宝の問題ではありません。この大陸の一、二を争う強国のジェードが、支配する国を他国へ売り渡すなど、あってはならない事です。金銭と引き換えでも、領土を減らすことは国力そのものを減らす事になります。できません。」
「今、戦争の準備のために大金がつぎ込まれているはず。それだけの投資価値がある戦いならまだしも、小さな貧乏国のために大勢の人や大金を犠牲にすることは国王として正しい選択だと思うか?大臣達も多くの貴族も納得してはおらぬぞ。」
「・・・それは・・・。」
「お前は自分の周りを味方の側近のみで固めておるだろう?だから周囲の動きに目が行き届かぬのだ。味方を敵に送り込むだけでなく、敢えて敵を懐に取り込むこともしなければ。王宮に入ったばかりで疑心暗鬼になるのも無理はないがな。」
驚いた。
精神を病んでいる皇太后から、こんな建設的な助言を受けるとは。
どこまでが本心なのか、罠なのか。
だが、すべてを隠し続ける事が得策だとも思えなくなった。
太腿の上で握りしめた拳に、決意を固める。
「実は、エストレイから同じような提案をされましたが、断りました。」
「ほ・・う。どれ程の値を提示してきた?」
「お答えする気にもなれません。・・・エストレイは、このジェード王宮内でプラテアード王女の純潔を奪うという卑劣な行為に及んだのです。この無礼を、金銭で濁す事など到底承服できません・・・!」
アルティスは眉を顰め、少しの間言葉を失っていた。
アンドリューは奥歯を噛みしめ、握り拳に更に力を込めた。
互いの呼吸の変化を感じ取りながら、沈黙が続く。
やがて、アルティスが深い息を吐いた。
「よもやリディが、アンテケルエラの王子と裏で結託して仕組んだ芝居などということは無かろうな?」
「それは、ありません。エストレイがリディを襲ったのは今回が初めてではないのです。リディはエストレイを怖れていました。皇太后陛下も舞踏会でエストレイと踊っていたリディの様子を御覧になったはず。結託など、ありえません。」
「・・・そこまでわかっていて、奪われてしまったということか。」
「・・・そうです。」
「大いなる失態じゃな、アンドリュー。マリティムであれば、このようなことは絶対になかった。」
返す言葉もない。
今でも脳裏に焼き付いて離れないのは、千切れたドレスから覗いた、リディの白い肩と上腕の抉れた傷跡。
毒矢を受けた傷口を焼き切った時の跡をエストレイが目にしたと思った途端、アンドリューの全身が総毛だった。二人が共有してきた秘密の領域を土足で踏みにじられたような気がして、我慢ならなかった。
アルティスは、少しだけ上体を乗り出した。
「プラテアードの王女がアンテケルエラの裏紋章を戴く子を産んだなら、大陸の習わし上、プラテアードはアンテケルエラのものだ。ジェードは、逆に、アンテケルエラからプラテアードを奪う立場になってしまう。」
「三国の覚書では、戦いの開始時期を、リディが懐妊していなければ二か月後、懐妊していれば子の洗礼後と決めました。」
「成程。これで全てに合点がいった。」
アルティスはゆっくりと立ち上がった。
「アンドリュー、お前が国王としてやらねばならぬことが腐るほどあることはわかる。しかし、そのすべてに着手することは不可能だ。優先順位をつけ、他に任せられるものは手放す事も仕事の一つではないのか?つまらぬ書類にまで目を通し、隅々まで把握するのは後でも間に合う。即位して間もないお前がしなければならぬのは、国王だけが目にすることができる代々の日記を読み切ることだ。マリティムは即位が決まって一週間、それだけに専念していた。お前も、そうすべきだろう。」
アンドリューは返事をせず、立ち上がると頭を下げて踵を返した。
すると、
「アンドリュー。」
アルティスは、アンドリューの背中に向かって声をかけた。
「イサベル王女との縁組は決まった事だ。お前が娶るのは、イサベル王女以外にありえない。」
「・・・わかっています。」
「婚約の延期もできぬ。戦争の始まる前に、何が何でも婚約までは整える。」
アンドリューは何か言わねばと思ったが、なぜだか声が出なかった。
部屋を出るために押した扉の、何と重かったことだろう。
だがそれは、これから背負う責任より遥かに軽いはずだ。
リビングでは、ハロルド伯爵が立ったまま待機していた。
「いかが・・・でしたか?」
心配そうな声に、アンドリューは伯爵の顔を見ずに答えた。
「延期はできない、と。」
「・・・そうですか。」
「そんな落胆した声は出すな。どうにもならないと言ったのは伯爵ではないか?」
「それは、そうでございますが・・・。」
アンドリューはシャツの襟元を緩めると、
「伯爵。奥方はどうしている?」
「今、リディ様のお部屋で就寝の準備を。」
「では、まだリディは起きているな。」
「アンドリュー様。もしや、イサベル王女様とのことをリディ様に―――」
「・・・リディには関係のないことだ。知らせる必要はない。だが、シンシアには話しておく必要があるだろう。間もなくイサベル王女は王宮に来るのだからな。」
「私が今晩話しておきます。シンシアは実直で隠し事が苦手ですが、リディ様に勘付かれない様最善を尽くすはずです。」
「・・・余計な気苦労をかけてしまうな。」
「何をおっしゃいます?一番大変なのは陛下御自身ではございませんか?周りの者は陛下を支えるために存在しておるのです。余計などということはございません。」
アンドリューは寝室をノックし、一応返事を待ってから扉を開けた。
リディの髪を梳いていたシンシアは、アンドリューの姿を見るとすぐに腰を曲げてお辞儀をし、部屋から出て行った。
リディは既に寝着に着替えていたため、慌てて絹の羽織り物を纏った。
「少し邪魔するぞ。」
アンドリューはリディの方を見ることなく、寝室の最も奥の壁へ歩み寄った。
そして、何やら手のひらや指を動かすと、壁が動いて書庫が現れた。
リディは、自分が見てはならないものだと察し、思わず背を向けた。
アンドリューは書庫の裏の狭い通路から更に奥の書庫へ進むと、古くて分厚い本を手に取った。
国王が代わるたびに、新しい日記に綴ることになっているため、背表紙に金文字で「1」と描かれた緋色の本が、初代の日記となる。
マリティムの死後、真っ先に存在を確認してはいたが、古い日記は古代文字で綴られていたため読むのを後回しにしていた。
「リディ。」
アンドリューは書庫から出てくると、背中を向けて立っているリディに声をかけた。
リディは躊躇いがちに声の方を向いた。
アンドリューは何も思っていないだろうが、リディは凌辱された身体をアンドリューの前に曝すことが辛い。どんな顔をしていればいいかもわからないが、表情が強張っているのはわかる。
自分の方を見ようとしないリディに、アンドリューは日記を差し出した。
「ジェード国王が代々綴っている日記の最も古い巻だ。実は古代文字で書かれていて、読まずにおいたんだが、おそらくこの中にあの洞窟の財宝の事が記されている。」
リディは、ハッとなった。
「あの石に刻まれていた古代文字のことも・・・?」
「多分。」
そしてアンドリューは、1枚の便箋もリディに見せた。
「洞窟から戻って覚えている限り書き写した。同じような綴りの並びを探して読み解くことで、色々な謎が明らかになると思う。」
リディは紙に書かれた何十行もの古代文字に驚いた。
「こんなに覚えていたのですか・・・!?あの時見ただけで?」
「何て書いてあるかわからないから、画像として脳裏に焼き付けた。暗かったから所々虫食いになっているし、正しい綴りかどうかもわからない。リディが覚えている部分があれば付け足してほしい。それから、」
アンドリューは、隠し書庫の前にリディを連れてきた。
「古代文字の辞書はここにあるし、他にも必要ならどの本を読んでも構わない。俺は今すこぶる忙しいが、リディは本を読むこと以外やることがないと聞いた。俺の代わりに、日記を現代語に訳してくれないか?」
リディは驚いて首を振った。
「待って、アンドリュー!国王の日記は、代々の国王しか目にしてはならないと聞いています。隠し書庫だって、国王以外が使用するのはご法度のはずです!」
「そんなことはわかっている。だが、あの財宝を手に入れるため、いずれ俺達は再び命懸けの道のりを辿らねばならない。この日記には、あんな危険なルートではなく国王用の安全なルートが示されていると考えている。その文章には裏紋章の事も書かれているはずだから、俺以外で目にできるのはリディだけだ。直近の日記ならまだしも、古代文字で、プラテアードとの国境にある峡谷の秘密を読み解くのだから何の問題もない。おそらく同じ記述が、プラテアードの国王の日記にも記されていたのだろう。戦争ですべて、焼かれてしまったのだろうがな。」
「では、せめて書庫は閉じてください。辞書だけお借りしておきます。」
それを聞いたアンドリューは、思わず小さく笑った。
「おかしい、ですか?」
「ああ。いつもと逆だなと思って。」
「逆?」
今、アンドリューの中にリディを警戒する気持ちは全くない。書庫を開け放しにしておけば、直近の国王の日記だって読まれる虞があるというのに、リディがそれに手を出さないと信じきっている。リディが自分を信じきっていたのを、今まで散々諌めてきたというのに。
「そうだな、書庫は閉める。とりあえず辞書だけ出しておくから、読んでいる間に必要な本がでてきたら教えてくれ。」
リディは深く頷き、日記を凝視した。
目的を得たことで、久しぶりに脳が覚醒し出したのを実感する。それも、アンドリューとの接点を持てるとなれば、嬉しさが零れそうだ。
アンドリューは、久しぶりにリディの瞳に生気が宿った気がして、安堵した。
自分達が向かう先は棘の道だが、少しの間だけでもそれを脇に置いて没頭する物が必要だと思って提案したが、正解だったようだ。
日記を手にしたリディがアンドリューを見上げると、その表情はとても穏やかで微笑んでいるように見えた。それを見たリディも、自然と微笑んでいた。
が、次の瞬間。アンドリューはイサベル王女とのことを思い出し、再び厳しい目になった。
寝室から執務室へ戻ると、アンドリューは苦しい息を吐いて椅子に座り込んだ。
以前、リディに「この世で一番嫌いな女性であっても、国の利益の為なら一生添い遂げられるというのですか?」と聞かれ、「できる。俺の存在は俺のものではない。国家のものだから。」と答えた夜を思い出した。
今でも考えは変わっていないし、覚悟もできている。
しかし。
この気分の重さは想定外だった。
只でさえ課題が山積しているというのに、更に、常に背負う荷物を持たされた気分だ。
放り投げることもできず、逃げる場所もなく、背負う以外道はない。
これが上に立つ者の宿命だということはわかっている。
だが、時には限界もある。
大臣や側近ではなく、同じ王家の者として相談でき、支えになってくれる存在がほしい。
課題解決に向けて、一緒に歩む相手がほしい。
このような事を、一番気付いてはならない時に、気付いてしまった。
それもまた、アンドリューを更に苦しめるのだった。