第113話:アルティスの告白 ―その1―
アンドリューがプラテアードへ行っている3日間、その留守を預かったのはハロルド伯爵だった。大臣や貴族達の謁見の予約をとったり、会議のスケジュールを組んだり、外国からひっきりなしに届く手紙や電報を捌いたりと、普段はレオンがこなしている仕事を一手に引き受けたものの、アンドリューに判断を仰がねば片付かない案件が積み上がっていく。アランは、マリティムの代から国王の代筆やサインは手慣れているものの、やはりアンドリューの采配が必要なものに手がつけられず、中途半端な状態な書類が溜まっていく様子に溜息をついていた。
優秀と名高い二人にさえ手に負えない状況になったのには、訳がある。本来、各担当大臣や担当者に任せればいいものまで、アンドリューが「まずは自分の目で確かめてから」と抱え込んでいるからだ。ハロルドもレオンも、「家臣を信じて任せないと、国王への猜疑心を生むことになります。」と繰り返し忠告しているが、元々他人を信じない性質も災いし、アンドリューは首を縦に振らなかった。
国王の執務室で疲労困憊している二人に遠慮しながら部屋を通り過ぎねばならないのが、シンシアである。アンドリューがいる時も、相当気を遣って往来しているのだが、今の二人が醸し出す雰囲気が余りにも重苦しくて、そこにいるのが夫だというのに、小さな声で「失礼します。」と言う事さえ憚られる程だった。
リディは予め、アンドリューがジロルドに会いに行く事は聞かされていた。にも拘わらず、シンシアが寝室に入ってくるときに、より注意を払って扉の閉まる音をたてないように腰を屈めていることが不思議だった。
「執務室では、アランが仕事をしているのですか?」
その質問にシンシアは苦笑いをした。
「アラン様と、夫が・・・相当煮詰まっておりまして。」
「でしたら、私など放っておいて、お二人のお手伝いをして差し上げては?」
「とんでもない!王室のお仕事に、私などが口を出しては叱られます。」
「書類の整理とか、手紙の仕分けぐらいなら構わないのでしょう?」
シンシアは貴族の令嬢として、妻が夫の仕事に興味をもったり、質問をしたり、ましては口を出す事など絶対のタブーと教えられてきた。そのため、リディの言う「夫の仕事の手伝い」など考えも及ばないのである。
シンシアは部屋の隅に設えた簡易ベッドの羽枕を振るって膨らませると、
「さあ、リディ様は御心配なさらず、もうお休みくださいませ。」
リディはいつもどおり、用意されたベッドに大人しく入った。それを見届けないと、シンシアが自室へ戻らないからだ。
一人きりになった20分後、リディはベッドから出ると、床に腰をおろした。
ベッドに頭部だけ預け、眼を閉じる。
戦争の引き金となった身の上で、贅沢な布団で眠る事など許されない。でも、その思いは所詮自己満足に過ぎず、心配するシンシアに迷惑はかけられない。だから、無駄な事とわかっていながら毎晩同じことを繰り返す。そして朝、シンシアが来る前に必ず起きて、ついさっきまでベッドに潜っていたような振りをする。
エストレイに襲われてから、どれぐらいたったろう。
昼も夜もわからない部屋で、灯りが消された途端、あの時の恐怖が蘇る。
目を瞑れば、未だ生々しいエストレイの息遣いや肌の感触が纏わりついている。勿論、即刻忘れたいのだ。すべて身体から引き剥がして、記憶の彼方に捨て去りたい。だが、そう簡単には敵わない。
その夜も、ようやく眠りに落ちたと思ったら、ハッと目が覚めた。
時計は、深夜2時。全身に寝汗をかいている。特に首を拭うと、手のひらから雫が滴った。毎晩、この調子だ。
リディは今まで、乱暴された女性は被害者なのだから何の引け目を感じる必要もないし、汚された等と思うこと自体間違いだと思っていた。だが、当事者となった今、そう言い切れない自分がいる。
被害者とはいえ、大っぴらに公表などされたら恥ずかしくて面を歩けない。表現する言葉が思い浮かばないが、要は、男の慰み者にされたという屈辱といえばいいか。男の欲の捌け口にされるという、女として最低の扱いを受けたことが、引け目に繋がるといえばいいのか。
これは、罰なのだろう。
飢えに苦しむ国民を救えず、革命家の役割を果たさず、敵国の国王に心を奪われ、甘い思いを知って喜びに震えていた事への、罰。
いや、違う。
すべては、自分の身勝手で浅はかな行動が巻き起こした結果にすぎない。
もはや苦しみ悶えることさえ赦されないのかもしれない。
確かなことは、このまま時間に流されていても何も解決しないということ。
改めて、己に言い聞かせねばならない。
自分が一人の女である前に、国家の責任者であることを。
アンドリューはプラテアードから帰国した翌日から、大臣やら貴族やらの謁見をひっきりなしに受け続けねばならなかった。それだけでなく、執務室の机上にはアンドリューの確認が必要な書類が山積みとなって待ち構えている。
3日間のブランクは想像を遥かに超えていて、もはや寝る間を惜しんで仕事をせざるを得なかった。その状態が一週間程続き、その間に事態は思わぬ方向へ動いていた。
ある夜、ハロルドは突然外務大臣に呼び出され、皇太后アルティスの部屋へと連れて行かれた。
薄暗い部屋の白いヴェールの向こうで、アルティスは手短に用件を伝えた。
アルティスの話の内容に、ハロルドは思わず言葉を失った。しかし、何も返答しないままでは、すべてを受容したことになってしまう。
「恐れながら皇太后陛下、今我が国がどのような状況にあるか、大臣達から説明を受けていらっしゃるのでしょうか。」
「無論だ。アンテケルエラから宣戦布告を受けているそうな?」
「さようでございます。最短で1か月半後に戦争が始まるのです。今、そのための準備を急速に進めているところです。アンドリュー様も、毎日奔走されております。いささかの猶予も許されないのです。」
「だからこそ、こちらも急いで話を進めたのだ。アンテケルエラとの件が他国に出回らぬうちに話をまとめておく必要がある。カタラネス王国が、戦争を間近に控えた国との縁組など喜ばぬだろうからな。こちらとて、一刻の猶予もならぬ。」
「これは、決定事項なのでございましょうか?アンドリュー様が御承諾されるとは思いませぬが。」
すると、アルティスは手に持った笏を強く床に打ちつけ、大声を上げた。
「分を弁えよ、ハロルド!そなたの役割は、私の話をアンドリューに伝えることだ。それ以上でも、それ以下でもない!」
ハロルドは、アルティスがヴェールの更に奥へ去っていく気配を見送りながら、拳を強く握りしめた。脳裏に浮かんだのがアンドリューではなくリディの横顔だったことに、殊更気が重くなる。
執務室で一心不乱に仕事をしているアンドリューに、ハロルドは遠慮がちに声をかけた。
幸い、アランは所用で不在だ。
「一休みされませんか。リビングにお茶の御用意をしてございます。」
アンドリューは書類に目を落としたまま
「後でいい。」
と答えた。
「・・・陛下に、急ぎお伝えせねばならぬことがございます。」
その固い声に、アンドリューは視線を上げた。
「何だ。ここで話をしてくれ。」
ハロルドは、寝室に続く扉に視線をやり、そこからシンシアが出てくる虞を匂わせた。アンドリューはリビングへ移動すると、すべての扉の鍵を閉めた。
「これでいいか?誰も入って来られない。」
「レオン殿が二日前から外国へお出かけになられた理由を御存知ですか?」
「外交と聞いている。それが、どうかしたのか?まさか、アンテケルエラが何か仕掛けて来たか!?」
「いえ!―――いえ・・・。」
ハロルドは髭の下の唇を何度か動かした後、思い切って話をした。
「アルティス様が、カタラネス王国の第二王女イサベル様を再び王宮へ御招きになりました。レオン殿は、お迎えのためにヴェルデを離れたのです。」
アンドリューは怪訝な表情を浮かべたが、すぐに息の詰まった険しい顔になった。
「まさか――― 」
「お察しの通りでございます。アルティス様は王妃時代から懇意にしている大臣達を遣って、アンドリュー様とイサベル様の婚約話を整え―――」
「一体いつ、そんな話になった!?俺が王宮を離れていた3日で成り立つ話ではあるまい!?その前か?その後か!?俺が仕事に感けていた間にか!?第一、レオンはなぜそのことを俺に告げずに出発した!?」
「舞踏会から帰国される時には、アルティス様とカタラネス国王の間で話はついていた様でございます。レオン殿は大臣達から密書を届けるよう頼まれただけですから、婚約の話は知らないのやも知れませぬ。」
アンドリューは、息詰まる唇を引き締めた。
アンドリューの周囲は、リディの事で精一杯だった。アルティスや大臣達の動きにまで気が回らなかったのは無理もない。
だが。
「アンテケルエラと戦争になることは、皇太后達にも知らせたはずだろう?」
「無論です。すると、調度いいとおっしゃるのです。カタラネス王国の援軍も得られて一石二鳥だと。ですから、カタラネスが気付かぬうちに婚約と同時に同盟を結んでしまいたいと。」
「そんなものが無くても、勝算はある。」
「アルティス様がリディ様の事をどこまで嗅ぎつけておられるかわかりませぬが、これ以上余計な噂がたたぬうちに身を固めさせたいという強い思いもおありのようです。」
アンドリューは、冷静な口調のハロルドを睨みあげた。
「皇太后に、『それどころではない』とはっきり伝えてきたのだろうな?」
「・・・私などが、物申す立場ではないと諌められました。ですが―――、」
ハロルドは、眉を顰めながらも告げた。
「このような話は、遅かれ早かれ周囲が決めてしまう事です。陛下御自身には選択権も決定権も無いというのが、慣例でございます。」
アンドリューは掠れた声で言った。
「今、どれ程深刻な事態に陥っているか、わかるだろう?」
「わかっております。ですが、例えリディ様の状況をお話ししたところで事態は変わりません。いえ、むしろ逆効果ともいえます。」
不測の事態に備え、膨大な人と金が動き始めている。アルティスの言う「こんな時だからこそ味方を増やす」という考え方は確かに利に敵っている。ジェードにとっても、カタラネスにとっても、願っても無い同盟関係なのかもしれない。イサベルは第二王女である故、同盟の道具としてどこへ嫁いでもいい身だった。しかも類稀な美貌の持ち主とくれば、最高の条件の国へ嫁がせたいとカタラネス国王は手薬煉引いて待っていたに違いない。
「・・・皇太后と話をしてくる。伯爵はここで待て。」
アンドリューは、リビングの扉を乱暴に閉めた。
「困ります!・・・いくら国王陛下とはいえ、皇太后陛下のお許しなくして、中へ入ることはなりませぬ!」
アルティスの部屋の扉の前で、侍女達が数人でアンドリューの入室を必死で拒む。
アンドリューは、女の白い腕を払いのけながら言った。
「火急の用件だ。いかに皇太后といえど、国王の謁見を断る事などできぬはず!」
押し問答を暫く続けていると、突然扉が開き、中から高齢の貴婦人が現れた。
それは、アンドリューがいなければ国王の座についていた、王家の遠縁にあたるウィリアム公爵の夫人だった。アルティスが皇太子妃の時から「話し相手」として近しくしているという。
公爵夫人は、アンドリューを冷たい目で見つめた。
「国王陛下といえど、突然押しかけるのは御遠慮願いたいものです。」
「中に召使いはいるのか?人払いをしてくれ。」
「急なお越しは御遠慮願いたいと申し上げているのです。」
「こちらも、できることなら会いたくないし、言い合う時間も惜しい身だ。許しがなくても入らせてもらう。」
アンドリューが強引に中に進もうとすると、公爵夫人は「仕方がない」というような溜息をわざと吐き、「どうぞ、お入り下さいませ。」と扉を開けた。
公爵夫人はアンドリューを白いヴェールの前まで案内すると、「くれぐれも皇太后陛下を興奮させないでください。」と釘を刺してから、召使たちを従えて部屋を出て行った。
二人きりになると、白いヴェールの近くに黒い影ができた。アルティスがベッドから出て、近くまで歩み寄った証拠だ。
アンドリューは、いつもどおりその場に跪いた。
「先程、ハロルド伯爵から話は聞きました。―――カタラネス王国の王女との縁組は、延期してください。」
ヴェールの奥からは、息遣いさえ聞こえない。
「アンテケルエラとの戦争は、一度始まれば長期に渡ると思われます。婚約後すぐに戦火が勃発しては、都合の悪い事を隠していたと、印象を悪くしかねません。」
アルティスは、まだ何も言わない。
「それに、カタラネス国王は都合の悪い事から逃げる傾向があると聞いております。早急に婚約を整え、同盟を結んだからといって、本当に援軍をよこすとお思いですか?」
すると、ヴェールが僅かに開き、アルティスの体の一部だけが覗いた。
「言いたい事は、それだけか?」
低い声で、アルティスは続けた。
「あの国王にとって、娘は国家安寧のための道具に過ぎぬ。それに同盟の締結書には相応の契約が含まれる以上、逃げることはできぬはず。正式な結婚はマリティムの喪が明けてからになるが、その時期はもはや問題ではない。」
アルティスは、めずらしく饒舌だった。
「ところで、アンテケルエラの目的は何だ?エストレマドゥラ王子がプラテアードの小娘に御執心の様子だったが、それが狙いか?」
アンドリューは、唇を引き締めた。
「おっしゃるとおり、プラテアードを巡る争いです。」
すると、アルティスの息遣いが変わった。
「お前は、国王の寝室の隠し金庫に仕舞われた書物に目をとおしたか?」
「存在は確認しましたが、まだ殆ど読んでおりません。」
「ではマリティムから、プラテアードを支配下から手放せぬ理由を聞いたか?」
「いえ。・・・古から隣国同士因縁があったということぐらいです。」
「そう・・・か。」
アルティスは軽く息を吐くと、ヴェールの隙間から手を出してアンドリューを招いた。
「中へ入れ。今となっては、私がお前に伝えるしかないようだ。」