第106話:戴冠式 -その5-
橙色の灯りが、やさしくヴェルデの街を照らす。
沿道には警備の騎馬以外人気はなく、首都とは思えない静けさだ。
国民は、儀式の行われる夜は厳かにすごし、翌日のお披露目で大いに騒ぐという慣例に従っている。
しかし、既に街中至るところに緋色の花々が飾られ、新国王の誕生を祝う準備が整っていた。
風にのって、小さな花弁と共に甘い香りがふわりと馬車の中まで漂ってくる。
ジェード国で最も格式の高いヴェルデ大聖堂は、街の至る所から見えるように、小高い丘に建っている。国で最も位の高い第一神使が統治し、専用の祈祷台が設けられた国唯一の「大聖堂」は、王侯貴族御用達の扱いになっており、一般国民は大聖堂周囲の低い位置にある教会を利用するのが仕来りだ。だが、昨今の若い世代には大聖堂と教会の違いが浸透せず、建物の固有名詞としては区別しても、宗教上の意味合いでは両方を総称して「教会」と呼ぶ帰来もある。
約500年前に建てられたという大聖堂は、広大な公園をアプローチにしてそびえ立ち、豪奢な噴水を備えた池の水面に、その全景が映り込む。中央にドーム型の屋根、両脇に尖塔。石を頑丈に積み重ね、植物や天使の細かな彫刻を施した無数の柱が、古から続く栄華を物語っている。
金色の月明かりに導かれ、アンドリューが乗った白馬の馬車は階段の下で停車した。
レオン、アンドリュー、そしてヴェルデマールを抱いたハロルド伯爵が降り立ち、先に待ち構えていた3名の将軍の出迎えを通り抜け、ゆっくりと階段を昇り始める。
リディは、シンシアとジャックの助けを借りて馬車を降りた。
大理石の階段は、思った以上に急な傾斜だ。
「リディ。」
アランは、リディの左側に立って手を差し伸べた。
リディはその手に自分の手を重ね、互いに覚悟を示すように頷くと、一歩を踏み出した。
長いマントの裾は、後ろでシンシアが持ってくれる。
一段。一段。
思った以上にドレスの重さは痛んだ全身に響く。一歩踏みしめる度、足のどこを叩かれたのか如実にわかる。慎重と言えば聞こえはいはいが、余りにも歩みが進まない。堪らず見上げれば、既にアンドリューやハロルド伯爵の背中が頂上に近付いていた。片や、リディ達はまだ三分の一。横を見れば、アランの滑らかな金髪が白い額にはりついている。
リディはさりげなく自分の手を下に回し、アランの手が上にのるよう組み替えた。
「?」
驚いたアランだったが、リディは前だけを見据えて「あと、半分。」と言った。
手の平から体重を少しでも預ければ、アランの足の負担は軽くなる。が、アランは「そんなことはできない。」と言う代わりに、手の位置を元に戻そうとした。しかし、リディの意志は強く、手は動かない。
アランは、リディに少しだけ身を委ねて頂上を見上げた。
アンドリューの緋のマントが、月明かりに、はためく。
今宵のリディのエスコートはジャックにするつもりだと言ったアンドリューに、歯向かったのはアラン自身だ。この99段の途中で立ち止まったり、上りきれなかった者が出たりすると「国家安寧が停滞する」前兆とされるため、許されない事だと言われた。そんなアンドリューの厳しい説得に対し、アランは「絶対にやり遂げる」と言い張った。
リディも、アンドリューから同じ事を言い含められていた。例え足が折れようと、激しい動悸に襲われようと、倒れる事は許されないのだと。
階段を昇りきったアンドリューは、アランとリディの事が気掛かりで、振り向いて確認したい衝動にかられた。しかし、儀式上それは許されない。
二人を信じるしかない。
そして、信じている。
ここで信じられないなら、初めから任せるべきではない。
大聖堂へ真っ直ぐ続く緋色の絨毯を踏みしめ、アンドリューは神の領域へと足を進めた。
重厚な扉の向こうは、無数の蝋燭の灯に照らされた、広大な空間。
天井の高い石の壁に囲まれて、ひんやりとした空気が緊張感で張り詰める。
拝礼用の長椅子の列には主要都市の神使達が並び、讃美歌を合唱していた。
突き当りの祭壇に第一神使が立ち、アンドリューを出迎えた。
レオン達は、ここで待機となる。
ハロルドは、ヴェルデマールを第二神使に預けた。
祭壇の左手に設けられた鉄の扉の錠を、第三神使が開けた。
扉の先に細く暗い廊下があり、その先に儀式のための部屋がある。
アンドリューは突然開けた視界のまぶしさに、思わず眼を細めた。
外観から見える最も高い尖塔の下にあるその部屋は、吹き抜け天井の丸い窓から月明かりが差し込む。その真下の床に、ジェード国の紋章が組木細工で描かれ、中央には大理石でできた円形の洗礼盤が聖水を湛えている。
聖水には満月がはっきりと映り込み、儀式の成立を示していた。
第三神使は、リディが部屋の中に入るのを見届けて、扉を閉めた。
三人の神使、アンドリュー、ヴェルデマール、そしてリディ。
許された血筋の者だけが、ここに集った。
第一神使が紋章模様の脇に立ち、アンドリューへ手を差し伸べた。
アンドリューは神使の前へ進むと、跪いて両掌を胸の前で合わせた。
神使は、アンドリューの頭からティアラをそっと外した。その刹那、額から緋色の柔らかな光が零れ、月明かり一色の空間に、新たな色を落とした。
次は、リディの番だ。
アンドリューと同じ所作を繰り返し、ティアラを外されると、目の前に藍色の光がふわりと滲んだ。神使達は、思わず感嘆の息を漏らした。彼らがプラテアードの裏紋章を目にするのは初めてだったが、その複雑で妖しい模様は、蝶の繊細な模様を自然が創りだしたように、まさに神が与えた奇跡だと思えた。
最後に、第二神使が腕の中のヴェルデマールを第一神使に差出し、ティアラが外されると、小さな緋色の光が浮かび上がった。
これで、儀式の準備が整った。
まず初めに、ヴェルデマールの洗礼が行われる。
第二神使は、ヴェルデマールの後頭部を慎重に支えながら、聖水に浸した。
第一神使が呪文のような言葉を唱え始め、それに第二神使、第三神使が声を重ねていく。その間、アンドリューとリディは少し離れた場所で跪き、手を合わせて下を向いていた。
5分ほどで祝詞が終わり、第一神使がヴェルデマールを聖水から救い上げ、天へ向かって高く掲げた。額の紋章が、一際明るく緋色に輝く。
「ここに、マルテス・レイ・ヴェルデマール・ディア・ジェードを、正統な王位継承者として認める。」
リディは、赤ん坊に「ヴェルデマール」の名が入っていることに驚いた。自分が仮につけた名を使ってもらえるなど想像だにしていなかったが、純粋に、嬉しい。
第三神使が、机上に4枚の証書を広げた。
2枚が王族、もう2枚が神使用である。
アンドリューが初めに署名し、リディはその下に自分の名前を認めた。
アンドリューの名前と並んだ自分の名前を眺めながら、名前だけでも並ぶことができた事に感動してしまう。他人が聞いたら笑われそうな些細な事象が、リディの心を幸福で満たす。その度に国の事を想い、幸せをエネルギーにして身を粉にして働かねばならないと心に誓う。
続いて、アンドリューが部屋の中央へ進み、第一神使の足元に跪いた。
再び、祝詞の合唱が始まる。
古代の言葉は、何と言っているか殆ど聞き取れない。だが、この国の繁栄を願う文句であることは確かだ。
瞳を伏せ、神使の前で身じろぎもしないアンドリューの鋭利な横顔を見つめながら、リディが考えるのは「国家の繁栄」の意味だった。自国の繁栄とは、他国を糧にして得られるものなのか。糧にしなければ、得られないのか。だとすれば、プラテアードはどの国を糧にできると言うのだろう?いや、そもそも他国を食い物にしなければ得られないものを「繁栄」と呼べるのだろうか。
第一神使によって頭上に王冠を授けられ、アンドリューはその眼を見開いた。
「ここに、ジェード王国第25代国王、アンドリュー・プリフィカシオン・ディア・ジェードの即位を認める。」
すっくと立ち上がったアンドリューは、天を仰いだ。すると、額から緋色の光が真っ直ぐに月へ向かって伸び、流れ星のようにスッと消えた。
「御署名を。」
リディに、2枚の証書が差し出された。
アンドリューのための証書には、リディ一人だけがサインをする。
父が名づけた長く複雑な綴りを、間違わないように、慎重に書き進めた。
リディは静かにペンを置き、部屋の隅に下がった。
神使の署名も終わり、すべての証書が丁寧に丸められ箱に納められると、突然、鐘の音が響きだした。
新国王即位の儀式が無事終えた事を告げる、鐘の音だ。
荘厳な音色は、ヴェルデ中の教会から教会へと伝わり、やがては国中の教会の音が鳴り出す。
祝いの音色に導かれる様に、アンドリューは大聖堂から外へ出た。
視界の先に広がる、大都市ヴェルデの夜景。
99段の階段にずらりと並ぶ近衛兵が一斉に敬礼する。
アンドリューの背後から現れた第一神使が、前へ出て叫んだ。
「ジェード第25代国王、アンドリュー・プリフィカシオン陛下に、神の御加護を!」
「神の御加護を!」
「御加護を!」
その場に居合わせた者全員が合唱し、即位を祝った。
祝福の声に応えるように第一神使が先立って歩き出し、アンドリュー、そして第二神使に抱かれたヴェルデマールが続いた。そこにレオンやハロルド、将軍達が付き従う。
「さあ、王女様も続いて下さい。」
第三神使が手を差し伸べたが、リディは首を振った。
「いいえ。私は、この花道を通ることはできません。」
「それは、しかし・・・。」
「この花道は、ジェードの国王と王子のためのものです。私は逆に石を投げつけられる身分の者。・・・儀式は無事、終わりました。神使様は、どうぞお進みください。」
第三神使は迷いながらも、リディに何を言うこともできず、第二神使の後に続いた。
リディは、祝いの声が遠ざかり、人々の列が崩れるのをぼんやりと見つめていた。
何という違いだろう?
美しいドレスに銀のアクセサリー、ティアラ。何もかも所詮借り物だ。
アンドリューと並んだ署名は、対等の証でも何でもない。強国に抗えない小国の印だったのだ。
実は、階段を昇る途中。署名をする途中。リディは何度か(もし、ここで私が失敗したら)と考えていた。階段の途中で立ち止まったら。サインを書き損じたら。儀式を放り出して逃げ出したら。
だが。
リディは、すぐに諦めて肩を落としていた。
なぜなら、ここで何をしても、ジェードという国は動じないからだ。
逆にリディが失敗すれば、「工場3つ」の契約が破棄される。
(そうか。)
アンドリューは、リディがおかしな気を起こさないように大きな餌を与えておいたのだ。餌が上等であればあるほど、リディは逃げられなくなる。取引には、対等に見せかけて相手を縛り付ける効果がある。
だが、アンドリューの思惑がどうあれ、リディにとっての意義は、敵国の戴冠式に立ち会う正当な理由ができたことだ。国に戻ってキール達に説明する時も「プラテアードの利益のために引き受けた。」と言えば体裁がつく。実際、リディは取引を大義名分にして自らを正当化している。アンドリューは、初めから全て承知の上だったのかもしれない。
(アンドリューには敵わない。だからプラテアードは、ジェードに敵わないのだ。)
やがて、いつまでたっても階段を降りてこないリディ達を心配してジャックが迎えに来た。
アンドリュー達の馬車は王宮に戻るまで儀式が続いているが、異国の立会人に過ぎないリディに、もはや制約はなかった。
リディはシンシアに、アランはジャックに手を借りて、階段をゆっくりと降りて行った。
眼下に広がる水面を、噴水の水飛沫が叩きつけている。池に映り込んだ満月を砕き、まるで金の粒が宙に舞っているようだ。
リディは、この公園の事も、大聖堂の事も、10年前に知っていた。
新聞記者をしていたレオンのお使いで、近くの郵便局へ何度も通った。
だが、あの時は何を見ていたのだろう?噴水を初めて目にして、呑気に感動でもしていただろうか。
王子を探すという名目の裏で、本当はもっと見ておかなければならないことがあったのではないか。
首長として未熟だったから等、言い訳にもならない。
なぜなら、ジェードの総督府一つ陥落しても、プラテアード国民の暮らしは少しも変わらないからだ。それどころか、武力に資金を注ぎ込み過ぎて生活に困窮する家庭が増えた。ジェードからの税の取り立ても厳しくなった。
自由を手に入れるために、どれ程の犠牲を払わねばならないのか。
自由とは、金のある者だけに許される特権だというのか。
違う、と思う。
しかし、現実はまさに今、自分が目にしている通りだ。
リディは、そのまばゆい光景を瞼の裏に閉じ込めた。
王家の馬車を護衛する近衛隊の末端に隠れるようにして、ジャックは馬車をゆっくり走らせた。
流石にこの行列から離れる事は、安全上からも儀式上からも許されない事だった。
緊張から解放された身体に疲れと心地よい揺れが加わり、アランはいつの間にか眠りに落ちていた。
アランの額には、まだ汗が滲んでいる。
リディは、自分のハンドバッグからハンカチを取り出し、額をそっと拭ってやった。
大聖堂の中でもアランは立ちっぱなしだった。支えもなく、微動だにできず、約1時間。どれ程大変だったか、想像に難くない。
「リディ様も、お疲れでしょう。戻ったら、もう一度おみ足に薬を塗りますからね。」
シンシアの囁くような優しい言葉に、リディ自身も気づかなかった緊張が解けたのか、思わず涙腺が緩んだ。本当は色々話したいことがあったが、声を発すると涙がこぼれそうで、今宵一番伝えたい一言だけ、口にした。
「ありがとう、・・・伯爵夫人。」