第105話:戴冠式 -その4-
その日は、午前中から宮殿の庭にきらびやかな馬車の長い列ができた。戴冠式に招かれた大陸全土の国の王族や貴族、神使などが一堂に会するからだ。
敷地の門から、ゆるやかな坂を上り詰め、客を迎え入れる王宮の正門まで途切れる事のない馬車の列。更に御者は、正面玄関前の車寄せで主人を降ろしては、王宮から遠く離れた場所に設けられた馬繋場まで移動せねばならない。
王宮では、王族や近い親戚筋が暮らす東の塔が最も格式が高く、次が西の塔、最後が北の塔となっている。東の塔の中でも、南に面する部屋が最も身分の高い者に許された部屋で、国王と王妃の居殿はその3階に配されていた。
今回、客はすべて西の塔にとおすことになっているが、正面玄関から入ることが許されない人々がいた。それは、宮殿の入り口で、正面玄関へ繋がる道ではなく、反対方向の裏手へ回るよう指示された、ジェードに統治された植民地の王族である。植民地であっても、プラテアードのように反乱など起こさなければ、王家の存続は認められているが、その扱いに於いては、他の国とは明確に区別される。彼らは北の塔―――、すなわち、リディと同じ建物で寝泊まりする。北の塔は、東の館と西の館から離れた、ほとんど日の当たらない場所で、1階と2階は物置や召使の部屋、3階は食堂や厨房、リネン室や家事室、そして4階が客間仕様となっている。他の棟とは、明らかに仕様が違う。
一方、ジェードの戴冠式に招かれなかった国もある。それは、ジェードが国と認めていない、国交を断絶している国で、処刑されたフィリグラーナの故国プリメールも、その一つだ。
アンドリューはフィリグラーナ処刑の通知と共に、同盟の破棄と、永久的な国交断絶をつきつけた。強国ジェードが国交を断絶したということは、プリメールに近付けば、ジェードを敵に回すことになる。ジェードを敵に回してまで手に入れる価値のないプリメールは、事実上の孤立状態。この大陸で、一切の国交を絶って健全な国家運営ができるはずもない。音をあげて白旗をあげてくるのを、アンドリューは待っている。その時には、プリメール王家をとりつぶした上で、植民地にしようと考えている。ジェードに吸収するという手もあるが、民族も慣習も違う者同士が同じ敷地に入っても対立を招くだけだと知っている。だから、国としては、明確に分けておく。
アンドリューは自室の窓から前庭を凝視しながら、ある国の紋章付の馬車の存在を認めると、すぐに部屋の呼び鈴を鳴らした。
呼び出されたレオンは、控えの間から現れた。
「側近を全員集めてくれ。打ち合わせをする。」
レオンは、少しだけ表情を曇らせた。
「この間言っていた話だが、本気なのか?裏でリディに護衛をつけるというのは?」
「俺が本気でない話をすると思っているのか?」
「嫌・・。だが、人手に余裕があるわけではないんだ。アランも伯爵夫人も武術は何もできないが、少なくともリディに何かあれば、知らせに来ることぐらいはできる。今、最も危険なのはアンドリューだ。プリメールの息のかかった輩が復讐に来るとか、アンドリューがいなければ国王の座についていた遠縁のウィリアム公爵が不穏な動きをしているとか、悪い情報が次から次へと入ってくる。王宮だけでも広すぎて監視が難しいのに、リディの事まで手を回さねばならない理由がわからない。」
アンドリューは、眉を顰めた。
「こういう事は言いたくないが、俺の命令に難癖をつける気か。」
「そうではない。リディは敵で、人質で、正直なところ、その命がなくなった方がいい存在だ。それに、今、ジェードの人質になっているリディを襲う輩がいるとは思えない。」
アンドリューが窓越しに確認したのは、アンテケルエラの紋章だった。とうとう、エストレマドゥラ王子がこの王宮に入ったのだ。しかし、エストレイがリディに何をしてきたか、真実は話せない。
「・・・わかった。もう、頼まない。」
アンドリューはレオンに背を向けた。
その拒絶の態度に、正論を言ったはずなのに後ろめたい気持ちになり、レオンは黙ってその場を下がった.
王宮に入った客達は、西の塔に準備されたそれぞれの客間にとおされ、まずは準正装に身を包む。
そして、「薔薇の間」という広間を訪れ、皇太后に新国王即位の祝いを述べる。
アンドリューは、王室の慣例で、教会での戴冠式を終えるまで、客の前に顔は出さない。
出迎えの接待は皇太后アルティスの役目だった。周囲はアルティスの精神状態を憂いていたが、玉座に座り、各国の王侯貴族から恭しく祝辞をのべられるのはまんざらでもないらしく、始終、ご機嫌だった。
挨拶の列の中に、エストレイの姿もあった。侍従長と3名の屈強な御付を従えて、颯爽と薔薇色の絨毯を歩く姿は、諸外国の若い王女や貴族の令嬢の視線を集めていた。そんな周囲の熱い視線を大いに感じながら、エストレイはアルティスの前に跪いた。
アルティスの後ろに控えていたハロルド伯爵は、これが、アンドリューが拒絶していた王子なのかと、注意深く観察していた。非常に賢そうな面持ちで、均整のとれた美しい身体の持ち主。吊り上がった黒目がちの瞳に、強い意志を感じる。
エストレイは、一通りの決まりきった祝意を述べると、最後にこう言った。
「新国王陛下は、皇太后陛下と同じ髪の色をされているのですね。大変美しく、うらやましい限りでございます。」
アルティスは、扇で口元を隠しながら、微かに眉を顰めた。
不愉快さを示すその仕草に、エストレイはすぐに引き下がった。
ハロルドは、白いマントを翻して立ち去るエストレイの後ろ姿を見送りながら、小首を傾げた。
(アンテケルエラの王子は、アンドリュー様とどこで関わりを持たれたのだろう?)
だが、そんな思いを抱くには忙しすぎた。
ハロルドは否応なく、次の謁見へと意識を移した。
夕日が空を茜色に染める頃、客の入りも、皇太后への挨拶の行列も、落ち着きをみせていた。
午後8時から皇太后主催の晩さん会が開かれるが、出席できるのは王族に限られ、他の貴族や神使達は、それぞれの客間で食事をとる。それは、リディも同じだ。
リディは一足早く午後5時には夕食をすませ、シンシアに髪を梳いてもらっていた。
「出発まで何時間もあるのに、準備が早すぎませんか?」
「女性の支度には、古の時代から時間がかかるものです。お化粧だけで2時間かかる御令嬢もざらですからね。」
「2時間?この小さな顔の中を、2時間も何をすることがあります?」
驚いてシンシアの方を振り返った時だった。
短いノックの音と同時に、扉が開いた。返事を待たずに扉を開ける事が許されるのは、国王ぐらいなものだろうが―――
リディは思わず立ち上がり、スカートを両手で握りしめた。
実のところ、リディは今日一日、ずっとアンドリューの事を待っていた。
アンドリューが戴冠式を控えてどれ程忙しいかわかっていながら、今夜の打ち合わせをするために、何らかの接触はあると期待せずにはいられなかった。直接でなくても、手紙でもいいと思っていた。言伝でもいいと思っていた。関わりをもてる可能性があるなら、どんな些細な事にでも縋ってしまう。
アンドリューは、出迎えたシンシアに、二言、三言小声で話しをした。
シンシアは、「かしこまりました」と軽く膝を曲げると、すぐに客間の金庫から青いビロードに入った四角い箱を取り出した。
アンドリューは箱の中を確認し、シンシアを部屋の外へ出した。
リディがゆっくり歩み寄ると、アンドリューは、箱の中身を見せた。
そこには、純銀のティアラが入っていた。頭にのせるのではなく、額を頂点に緩いVの字を描く型。満月の夜には、額に紋章が有る無しに関わらず、すべての王族がこの形のティアラを身に付ける。額の部分に親指の大きさ程のブルーアンバーが艶めく。最低限の装飾に留めたのは、今の状況を自他共に知らしめるため・・・か。
「日が暮れる前に身に付けるか、カーテンを厳重に閉めておかないと。」
アンドリューの額には、すでにティアラがはめられている。一際大きな楕円形の薔薇翡翠が金の装飾に縁どられていた。
リディは箱ごと受け取り、しっかりと頷いた。
「では、今宵の流れを説明しておく。」
アンドリューは立ったまま、一切の無駄なく、段取りを一気に告げた。
リディは瞬きも忘れ、息をするのも忘れ、一言も漏らすまいとじっとアンドリューの口元を見つめていた。
すべて話し終えるや否やアンドリューはすぐに部屋を出、入れ替わりで、シンシアが部屋に戻る。
シンシアはアンドリューに命じられたのか、すぐにすべてのカーテンを閉めた。
「さあ、まずは御髪を結い上げますよ。」
リディはドレッサーの前へ誘われ、否応なしに自分の顔と向き合った。
ここにいるのは、アドルフォの娘ではない。
もはや何の力もない、没落した王家の末裔だ。
初めて見るような道具を手際よく手に取って作業をするシンシアを、鏡越しに眺めながら、リディは昔の事に想いを馳せた。
10年前、アンドリューがリディの額の秘密を明かしてくれた夜に言った言葉を思い出す。
――― 俺が国王になった時には、這い上がってでも俺の処に辿り着け。待ってる ―――
あの時は、まさかこのような日を迎えるとは夢にも思わなかった。
アンドリューが国王になる可能性は低く、リディが王女であることが全大陸に知れ渡るなど考えてもみなかった。
運命が動き出したのは、アンドリューとプラテアードで再会し、頬を撃たれてから。
ある時は自分の意志で、ある時は抗い難い運命の力で、今日という日まで辿り着いた。だが、それは、首長として国王に交渉に来たというシチュエーションではない。「人質」として、捕らわれているだけだ。
アンドリューが国王になっても、プラテアードの独立が叶うわけではない。アンドリューが恩赦に乗じて人質から解放してくれるのも、リディに人質の価値が無いからだと言う。アンドリューはリディを首長と見なして交渉をもちかけてくれるが、リディは未熟すぎて「交渉」というより「提案」に乗っているにすぎない。
ふと下を見ると、太腿の上で握ろうとした指が震えている。
(私ったら、自分の戴冠式でもないというのに、なぜ・・・。)
緊張しているのか。
歴史の大きな転換点に立っていることに、慄いているのか。
「さあ、これをお履き下さいませ。」
気付けば、すべての支度が整っていた。
シンシアに差し出された銀の靴は、小さい頃読んだおとぎ話の挿絵のように美しい。
リディの足は、まだ腫れが完全に引いているわけではない。以前ためし履きをした時より、きつく感じる。しかし、そんな事は言っていられない。
立ち上がると、ドレスがずしっと重く肩と二の足にのしかかった。青いオーガンジーを何層にも重ねた、首から胸元を覆う大きな襟元には、小さいダイヤモンドや真珠が散りばめられている。首には細いながらも純銀のネックレス、額のティアラも、その僅かな重さの積み重ねが足首を震わせる。
それだけではない。最後の一押しのように、毛皮のマントが肩にかけられた。
これで、どれだけの距離を歩けと言うのか?
アンドリューの話では、大聖堂は99段の階段の上にあるという。
リディは、そろりそろりと歩いてみた。
ふくらんだスカートの一揺れ一揺れが、神経に触るようだ。
そこへ、扉をノックする音がした。
シンシアが扉を開けると、正装をしたアランがたっていた。
アランはリディを見るなり「なんて綺麗なんだろう!」と感嘆の声をあげて近寄ってきた。
「アラン、杖は?」
「痺れを我慢できるよう、マチオさんに薬を打ってもらったんです。今日は、杖を使う事も、足を引きずる事もできないので。ゆっくりではありますが、どこも悪くないようにみえるでしょう?効き目は数時間しか持たないんですけどね。」
「アランも、99段の階段を上がるの?」
「もちろん。リディの手をとってエスコートするのは、僕の役目です。」
薬がどれ程の効き目かわからないが、アランが相当の痛みや痺れに耐える事には変わりがないだろう。それに比べたら、自分の痛みなど何だろう?靴擦れができようと、痣が疼こうと、涼しい顔で毅然と歩くことができないなんて、甘えるにも程がある。
リディは背筋を伸ばして前を向くと、窓を覆っていた分厚いカーテンを一気に引き開けた。
目の前に広がったのは、落ちてきそうなほど大きな金色の月。
月の光を浴びる事ができない場合、儀式は中止だと言われた。
だが、宙には雲一つない。
神が、今日の儀式を祝福している証拠だ。
「では、行きましょう。」
シンシアも、リディの支度の合間合間に自分の支度も整えていた。ジェードの正装には、やはりシンボルカラーの緋色がメインになる。リディの藍色との対比は美しくもあり、決して混じる事のない関係でもあった。
アランは、白い絹の手袋をはめたリディの手をとり、恭しくお辞儀をした。
「お供させていただきます。ルヴィリデュリュシアン・ヴァルフィ・ディア・プラテアード様。」
正面玄関には、大聖堂へ行く限られた要人と御付、警備の近衛兵達で溢れていた。
リディは「4台目の馬車に乗れ」と言われているが、どの馬車が4台目なのか、数えるための隙間もない。
「私が確認して参ります。」
シンシアが前へ出ようとした途端、突然、周囲が水を打ったように静かになった。
何事だろうと振り返ると、そこに現れたのは正装したアンドリューと、レオン、ハロルド伯爵、さらに3名の将軍だった。
ハロルド伯爵は、腕の中にヴェルデマールを抱いている。
その場にいた誰もが壁際に寄り、花道をつくって深く頭を垂れた。
後ろの方にいたリディは、アンドリュー達の姿をまともに見る間もなく、周囲に習って深くお辞儀をした。
「シンシア」
ハロルド伯爵が、妻の姿を見つけて小さく名を呼び、後ろへついてくるよう促した。そうすれば、国王の乗る3台目の次に、自ずと4台目に乗れるというわけだ。
アンドリュー達の後ろには、まだ崩れずに花道が残っている。そこを通るということに、リディは一瞬たじろいだ。そんなリディの手を、アランが力強く引っ張った。
「もっと堂々としてください。儀式に参列する一員なのですから、自信を持って。」
リディは、アランに小さく微笑み、胸をはって前を向いた。
そう。
人質である事も、革命家として賞金首であったことも、今は関係がない。
これは、れっきとした取引なのだ。
有益な工場をプラテアードのものにするため、与えられた役割を完璧に勤め上げねばならない。
玄関を出ると、馬車が待つ道まで、緩やかな螺旋階段が優雅な曲線を描いている。
リディはアランに手をとられ ―――その実、手を軽く添えただけだが――、一段一段ゆっくりと下った。
4台目の馬車は、アンドリューが乗った豪華な馬車に比べると、かなり質素なつくりだった。しかし御者台にはジャックが乗っていて、リディを見ると小さく目くばせしてくれた。
アランが初めに中へ入り、後ろからはシンシアが手伝い、リディは長さも襞もたっぷりとしたドレスの裾とマントを馬車の中にたたみこむようにして馬車の座席に収まった。
3人が乗り込むのを確認して、ジャックは優しく鞭を振るった。
馬車は滑るように、街中へと走り出した。
涼やかな風が、リディの頬で柔らかにカールした髪を揺らす。
何もかもが、特別な夜。
今宵の事を、これからの人生の中できっと何度も思い返す。
その時、一体、どんな気持ちになるのだろうか。
それは、リディがプラテアードの未来をどうしていくかによって、違うだろう。
敵国を知る程に強くなる、自国への思い。
今、リディの中で一つの決意が形作られようとしていた。
その秘めた情熱が、リディの瞳を金色に縁取った。