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第101話:雲の色

 その日の空は、濃いブルーグレイだった。

 正午過ぎ。

 国王崩御を告げる教会の鐘の音が、首都ヴェルデに鳴り響いた。

 この音は、間もなくジェード国内の至るところで、言霊のように響き合う。

 王室御用達の薬局は、鐘の音と共に店を閉めた。

  

 日が暮れた頃、ジャックがこっそり薬局にやってきた。

 マチオの部屋に皆で集まり、報告に耳を澄ます。

「王妃は、5メートルぐらいの高さの矢倉の上に張り付けにされている。黒い服を着て、黒い布で目隠しをされているから、国民には本物か偽物か区別はできないだろう。」

「偽物の可能性もあると?」

「いや、本物だ。本物でなければ―――、困る。」

 リディは、目隠しをしているかしていないかで、屈辱を感じる度合いは明らかに違うと思った。が、見えないからこその恐怖も足元から感じているはずだ。

「まあ、周囲はぐるりと近衛兵が囲んでいるから、相当な暴動でもない限り、民衆に襲われるようなことはない。同時に、王妃が下手な事を口走ることもできない。」

「王妃様は、その後、そのまま・・・?」

 マチオの問いに、ジャックは頷いた。

「2日後の正午、銃殺される。」

 リディは、思わず身体を強張らせた。

 リディの脳裏に浮かぶのは、10年前に見た、大輪の薔薇のようなフィリグラーナの美貌。真珠のような肌、まばゆいブロンドの巻き髪。残り香はいつも薔薇だった。それが、今はその面影さえないというのか。

 リディの落ち着かない横顔に、ジャックが声をかけた。

「ちゃんと見てきて、報告するから。・・・だから、絶対に外に出るなよ。」

 リディは、頷くように視線を落として、格子戸の向こうの景色に想いを馳せた。

 

 未明から、小さな雨粒が宙を舞い始めた。

 音も無く、静かに振り続ける雨は、昼になると徐々に激しさを増していった。

 夕方になり、ハロルド伯爵は突然、アルティス皇太后に呼び出された。

 アルティスは雨粒が打ち付ける窓ガラスを見つめていた。

「ハロルド。馬車を出してほしい。ただし、王家の馬車ではなく、そなたの家の馬車でな。」

「私の家の馬車は、皇太后様のお気に召すような乗り心地では―――」

「そんなことは、どうでもよい。早くしてくれ。」

「風も出てきました。嵐になるかもしれません。一体、どちらへ?」

「中央広場へ。」

「それは―――。」

「腕の良い御者がいれば十分だ。供は要らぬ。」

 これ以上の疑問を口にするなど許されず、ハロルドはレオンにだけ外出することを伝え、外に出た。

 ハロルドが王宮の裏口に馬車をつけると、黒い毛皮のケープを纏ったアルティスが素早く一人で出てきた。ハロルドが扉を開けると同時に、優雅に中へ滑り込む。

 同時に鞭の音が鳴り響き、水で重くなった車輪が音をたてて動き出した。

 緩やかなカーブをいくつか抜け、深い濠に架かる小さな橋を渡れば、ヴェルデの街がはじまる。

 しかし、国民が喪に服しているためか、雨の夜のためか、首都でありながら出歩く人影は皆無だった。規則正しく並ぶ街灯の光が、闇に滲んで中央広場まで馬車を誘う。

 アルティスは一言も口をきかず、黙って窓の外を見つめていた。

 雨粒が天井を打ち付ける音が、増々強くなってくる。

 そう時間を要さず、中央広場に到着した。

 広場の周りには、近衛兵が隙なく銃を構えて立っている。鍛え抜かれた優秀な兵士達は、激しい雨の中でも微動だにしない。

 その奥にそびえたつ矢倉。

 太い丸太に縛り付けられた王妃、フィリグラーナ。

 その細いシルエットが、街灯のあかりで闇夜に浮かび上がる。

 自由の効かない身体からは力が抜け、首も横に垂れている。

 黒い布で目隠しをされているため、起きているのか眠っているのかはわからない。

 下たる雨で景色がぼやけてしまうため、アルティスは扉をあけた。

 途端、冷気と共に飛沫がアルティスの頬を打った。

 ハロルドは慌てて、扉を閉めようと手を伸ばす、が、アルティスはそれを振り払った。

「これは、私の責務だ。私の責任の下で処刑される者の姿を、しかとこの目に焼き付けておかねばなるまい。」

 額にかかる銀色の細い髪が、風に乱れ、ほつれていく。

 ハロルドは外に出ると、扉の脇から傘を差し伸べ、アルティスに雨粒があたらないよう気を遣った。

 アルティスは、扉から見える景色を、食い入るように凝視した。

 そこには、ハロルドには計り知れない皇太后の胸中があった。


 半時ほど経った頃、遠くで雷鳴が轟きはじめた。

 音が段々と鮮明になると同時に、稲妻が天から地へといびつな線を描く。

 地を這うような低い音から数秒遅れて、闇を裂くような金色の光が地へ走った。

 その刹那、縛り付けられているフィリグラーナの身体が、大きく震えた。

 雷を怖れているのだろうか。

 この広場で最も高いところにいるフィリグラーナのところへ、いつ雷が落ちても不思議はない。

 フィリグラーナの身体が動くや否や、騎馬の男が矢倉の下へ近づき、何か叫んだ。

 それを聞いたフィリグラーナの身体は、再び死んだように動かなくなった。

 ハロルドは、黙ったままの皇太后に、「様子を聞いて参りましょうか?」と尋ねた。

「・・・そうだな。」

「私が離れる間は、用心のため、扉を閉めさせていただきます。」

 ハロルドは、コートの襟を正すと、石畳の隙間に溜まる雨水の上を、水飛沫を上げることなく進んだ。

 ハロルドの姿をとらえた隊長は、馬から降りて、近づいてきた。

「これは、ハロルド伯爵。・・・馬車でわざわざ?」

「皇太后様が、中におられます。王妃様の御様子を見に来られたのです。」

「さようでございますか。こちらは特に異常はございません。」

「先程、王妃様へ何かおっしゃっていたようですが?」

「雷に怯えていたようでしたので・・・。」

 隊長は、そこで言葉を濁した。

 騎馬の男は、フィリグラーナに対し、「どうせ明日は銃殺の身。雷に打たれるか、銃に撃たれるか、その違いだけだ。」という趣旨の話をした。それを聞いたフィリグラーナは、凍りついたように動かなくなった。だが、それを皇太后の耳に入れる事は流石に躊躇われた。

 ハロルドは、「異常がなければいいのです。」と言って、立ち去ろうとした。

 そこへ

「あの、実は・・・。」

 隊長は、顔だけ後ろを向いた。ハロルドがその視線の先を追うと、広場周辺に植樹された大木の下に、馬に乗った人影があった。その人は、マントを羽織ってフードをかぶっているため、顔を確かめる事はできない。だが、その出で立ちは明らかに軍人ではない。

「あれは、アンドリュー様です。」

「・・・何と・・!?」

 近衛隊の隊長は、既に時期国王アンドリューの事を承知している。

「お一人で、一時間ほど前からお見えになっているのです。」

「一人で?レオンは・・・レオンは、王宮にいましたが?」

「大切なお身体ですから、私が身辺をお守りしたいと申し上げたのですが、『一人にしてほしい』とおっしゃって。やむなく、遠目に見守らせていただいております。」

 アンドリューの視線の先には、フィリグラーナがいる。

 目隠しをされ、何も見えないフィリグラーナは、まさかアンドリューと皇太后の視線を注がれているなどと露程も思わず、ただ雨と雷と風の音だけを聞いているのだろう。

 ハロルドは、隊長に頭を下げた。

「アンドリュー様を、お願いします。王宮にお戻りになる時は、遠巻きにでも兵をつけてください。」

「そのつもりです。この雨と寒さで、風邪など召さなければよいと存じますが・・・。」

「先に戻って、部屋を暖めておきましょう。」

「それがよろしいでしょう。明日の処刑にも立ち会われるのですから、身体をお休めにならないと。」

 アンドリューがここへ来た理由は、聞かずともわかる気がする。

 おそらく、それは・・・・。

 ハロルドは馬車に戻ると、アルティスに言った。

「特に異常は無い様です。そろそろ、城へお戻りになりませんか。」

「・・・。」

 アルティスは、開いた扉の隙間から、再びフィリグラーナの様子を窺った。

 ハロルドは黙って傘を差出し、アルティスの気が済むまで立ち続けた。

 アンドリューの存在は、隠したままで。

 

 木立に身を潜めていたアンドリューは、2時間ほど広場の様子を眺めた後、踵を返した。

 王妃フィリグラーナの最期の様子を見ておきたいと、レオンの目を盗んで抜け出したというのに、その実態は、想像と違ってあまりにも凡庸でつまらないものだった。

 アンドリューとしては、王妃の威厳を損なわず、一睡もせず、景色は見えずとも前を見据え、毅然としている姿を期待していた。そうであれば、明日の処刑前に民衆の前で最期の言葉を述べる事を許可しようと考えていた。しかし―――

 雨で濡れた黒のドレスは、フィリグラーナの身体に貼りつき、彫像さながらの美しいラインを描いている。しかし、そこからは王族の威厳や気品といったものが一切失われていた。

(所詮、その程度だったのか――― )

 アンドリューは雫に濡れた睫毛を伏せると、鐙を蹴って走り出した。

 元々、王妃の資質に欠けていたのか、それともジェード国家の重圧が、フィリグラーナを骨抜きにしてしまったのか。

(まさか本当に、俺と再婚できるなどと思って、マリティムを殺ったわけではあるまい―――)

 アンドリューは、フィリグラーナと出会った時から、良い印象を抱いたことがない。

 だが、その実、フィリグラーナの事をどれほど知っていたというのか。

 フィリグラーナとて、アンドリューが義弟と知ったのは、だいぶ後だったはずだ。

 高慢な態度の裏で、何を考え、何を思って行動していたのか。

 常に冷たくあしらってきたが、それが正しかったとは言い切れない。

 王宮の門を潜ると、アンドリューは被っていたフードを外し、天を仰いだ。

 額を打ちつける雨が、まなじりへ、首筋へと落ち、肩から腕へと染みていく。

 アンドリューはそのまま、馬上で雨に打たれ続けた。

 フィリグラーナの痛み・・・紋章付の子を産めずに10年も苦しんできたというのに、何も知らない敵国の平民の女が、あっさりその願いを叶えてしまった・・・それが、どれほどフィリグラーナを打ちのめし、プライドの全てを引き裂いた事か。

 マリティムを殺したことに対しては一寸の情も示すつもりはないが、子供の事だけは、同情を禁じ得ない。その気持ちを曝すように、アンドリューは明け方まで、雨に打たれ続けた。



 処刑の日。

 雨は止んだが、空の雲は厚く、灰色のままだった。

 石畳の歪みにできた水溜りを、無数の靴が通り過ぎる音で、フィリグラーナは目を覚ました。眠っていたというより、恐怖で気が遠くなっていた、と言う方が正確かもしれない。

 人の足跡、衣擦れの音、そして人のさざめき。

 耳を掠める冷たい風に混ざって、様々な音がフィリグラーナの意識を呼び覚ます。

 午前9時過ぎには、軍隊と、民衆の波で、広場は埋め尽くされた。とはいえ、フィリグラーナが括られた矢倉の半径5メートル以内には入ることができないよう、簡易的な柵が設けられている。

 フィリグラーナが近くに感じるのは軍靴の重い音、微かな硝煙の匂い。馬の嘶き、蹄の固い音。

 一刻一刻、その時が近づいてくることが、わかる。

 アンドリューは、近衛隊長率いる小隊と共に、広場に入った。まだ次期国王であることは公表できないため、軍服を纏い、目立たない様、かつらも被って来た。

 処刑を取り仕切るのは、将軍である。午前11時に、あらゆる勲章を身に付け、正装で現れた。重いマントを揺らしながら、中央の矢倉に近付く。

 将軍は矢倉の横に設けられた階段を、ゆっくり上った。

 フィリグラーナの後方には、煉瓦を積み重ねた分厚い壁が設置されている。矢倉の上には、10名の軍人が処刑の準備をするために待機していた。

 将軍が片手を挙げると、フィリグラーナの身体が、丸太から解放された。後ろ手に縛りつけられたままではあるが、両足は床に着いた。しかし、ずっと縛られ、吊り下げられた状態の足は、力を入れることができない。フィリグラーナは、すぐに膝から崩れた。

 軍人達は、フィリグラーナを後ろから抱えるようにして、煉瓦の壁へと引きずった。

「立て。」

 将軍が、フィリグラーナに命ずる。

 だが、力が入らないものは、入らない。蹴られても叩かれても、足がいうことを聞かないのだ。

 仕方なく、将軍は木の椅子を用意し、そこにフィリグラーナを座らせた。椅子から落ちないように、身体を椅子に括り付ける。

 将軍は、矢倉の下からこちらを見上げているアンドリューを見つけ、眼で合図した。アンドリューは、黙って頷く。予定通りの決行だ。

 フィリグラーナは、傍に気配を感じた軍人に、言った。

「目隠しを・・・とってください。」

「え?」

「目隠しを・・・。」

 軍人は判断できず、将軍に耳打ちした。

 将軍は、自らフィリグラーナに近づいた。

「目隠しを、とって良いのですか?恐怖が増すだけです。」

「とってください。最期に・・・ジェードの空の色を見ておきたいのです。」

「今日は曇っていて、空の色は見えません。」

「では、雲の色を。・・・どうか。」

 将軍は、フィリグラーナの瞼を覆っていた黒い布を、解いた。

 フィリグラーナは、長い睫毛をゆっくりと上下させた。

 眼が慣れるまで、少し時間が必要だった。

 隣で、一人の男が、フィリグラーナの罪状を読み上げ始めた。

 その長い文章の間には、その眼にはっきりと、景色を捉える事ができた。

 瞳を開けたフィリグラーナに、国民がかつて見た「ジェードの薔薇」の面影は殆ど残っていなかった。そこにいるのは、国家の存亡を揺るがす重罪を犯した、憎むべき女だけ。

 やがて、フィリグラーナに向けて、10人の軍人が銃を構えた。

 間違っても民衆に流れ弾が当たらない様、腕に覚えのある10人が、フィリグラーナの身体のあらゆるところに狂いなく照準を合わせる。


 フィリグラーナの視線は、ずっと、宙の雲を捉えていた。


 正午を告げる鐘の音と共に、将軍が片手を大きく挙げた。


 「――― 撃て!」



 紅蓮の血飛沫が灰色の雲に散ると同時、

    民衆の歓声と悲鳴と怒号と・・・

       広場には、様々な感情が渦巻いた。


 処刑の瞬間まで瞳を閉じなかったフィリグラーナに、アンドリューは最期の意地を見た気がした。

 

 元ジェードの薔薇は、花びらのように散る事さえ赦されず、黒の塊のまま、故国プリメールへ送り返された。

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