第9話:藍の秘密
レオン・プリトビッチェは、29歳の新聞記者である。
大学進学を機にヴェルデへ来たが、貧乏で学費以上の金は無かったためエンバハダハウスに入居し、それ以来、1階の3号室に住んでいる。職業がら出退勤は不規則で、帰宅できない日もよくある。
そんな男のメッセンジャーボーイ・・というより、雑用係になったリディは(これはかなり過酷な仕事だ。)と3日目にして確信していた。
レオンは暴動専門のつもりだが、紛争がめっきり少なくなった昨今は、政治から文芸まで何でも取材する。リディは読み書きできるため、レオンが口で言うことを代筆することもあれば、食事を買いに行くことも、重いカメラの運び屋になることもある。レオンは気を遣って大抵は早めに帰宅させてくれるが、仕事が立て込んできてどうにもならなくなると、リディを会社に泊めて仕事をさせる。
しかし、リディがこんなに手伝っているにも関わらず、レオンは相変わらず忙しい。
(俺の働きが足りないんだろうか。)
そんなリディの心配も全く介せず、レオンは休みなく働き続けている。
そんなある日のことだった。
ランチを買ってくるように頼まれたリディは、レオンが好きなスモークターキーのサンドイッチを買おうと、少し遠いパン屋へ走った。
作りたてのサンドイッチを抱えて新聞社への帰路を急いでいたリディは、あと少しというところで、ふと狭い路地に目を留めた。
そこで目にした思いがけない光景に、リディは息をするのも忘れて見入ってしまった。
その光景をどうしても誰かに話したくて、エンバハダハウスに戻ったリディは、夜中にも関わらずアンドリューの部屋のドアを叩いていた。
レオンの仕事を手伝って1ヶ月。
リディの時間感覚は完全におかしくなってきている。
この時間、もう皆が眠っているだなんて常識さえ忘れている。
アンドリューはその時、ちょうどベッドに入ろうとした矢先だった。
「アンドリュー!」
ドア越しの大きな声の主がリディだと気付き、アンドリューは(また何かあったのか?)と不安になって、すぐにドアを開けた。
「どうした。」
リディは興奮した様子で、一息にまくしたてた。
「あのね、今日レオンが女の人と一緒にいたんだよ!」
「・・・は?」
「金髪で背が高くって、すっごい綺麗な人!アンドリュー、知ってた?」
「・・・なんでそんなどうでもいいことを、今言いに来た?」
「どうでもいいこと?」
「そうだろう?今、何時だと思ってんだ?夜中の12時!俺は眠いのを堪えてお前を心配してドアを開けた。それが何だよ?」
リディはアンドリューが興味を持って喜んでくれると思って来たのに、不愉快な顔で怒鳴られたため、すっかり意気消沈してしまった。
がっくりと肩を落とすリディに、アンドリューは少しだけ可哀想な気持ちになった。
「・・・その女って、こう・・肩ぐらいの巻き髪だったか?」
リディはハッとなって、アンドリューを見上げると頷いた。
「そう!そうだよ。アンドリュー、知ってたの?」
「まあな。」
「何だ・・。じゃあ、その女がレオンの恋人かどうかも知ってる?」
「それは・・・俺の口からはちょっと言えない・・かな。」
そう言いながらアンドリューはリディを何気なくみつめ、ハッとした。
(・・・?)
驚いた。
リディの額は、いつも濃い栗色の前髪に覆われている。その前髪の奥が、なぜか光って見えるのだ。
月明かりで栗色の毛が光っているのではない。確かに、髪の奥から銀色というか青白いというか、とにかく光り輝くのが見えるのだ。
「リディ、お前の額・・・。」
アンドリューは思わず、リディの額に手をのばした。
と、その途端、リディは驚いて飛び上がり、後ずさった。
「な・・なに?」
壁の影になったためか、もうリディの額は光っていない。
「どうしたの?」
「いや、今、お前の額が光ってたような気がして・・。」
「おでこが?」
「・・・ああ。」
リディは自分の右手で、額にかかっている前髪を持ち上げて見せた。
「どう?光ってる?」
「いや、今は・・・光ってない。あのさ、月明かりの下に・・・。」
「びっくりさせないでくれよ。俺、もう行くから。夜遅くに、ごめん。」
リディはそういうと、慌ただしく階段を上っていった。
わざわざレオンの話をしに来たというのに、去り際は素早かった。
(なんだったんだ、さっきのは・・・?)
リディは走って自分の部屋に戻ると、胸元を押さえて、逸る鼓動を沈めようと深呼吸を繰り返した。
迂闊だった。
前髪で隠していれば大丈夫とか、満月でなければ安心とか、気が緩んでいたとしか思えない。
額の秘密が、ばれそうになるなんて。
リディはまだ治まらない動悸に、床に腰をおろして足を投げ出した。
後頭部を壁におっつけるようにして、くもの巣の張る天井を見上げた。
満月に照らされると、リディの白い額には、紋章のような藍色の模様が浮かび上がる。
その事実を絶対に他人に知られてはならないと、父から厳しく言われて育ってきた。いつも前髪は長く伸ばし、満月の夜は人前に出ない。しかし、昼夜逆転のような生活を送るようになったせいか、今が「夜」であることさえ頭になかった。
本名、ルヴィリデュリュシアン・ヴァルフィ・コン・シュゼッタデュヴィリィエ。
現在名乗っているリディ・バーンズとは、「リディ」が愛称で、「バーンズ」は偽名だ。
このうんざりするほど長い名前は、リディの父、アドルフォの家柄による。
アドルフォこそ、プラテアード国で「独立運動の王」と呼ばれていた革命家だった。
ジェードとの戦争で敗けるまで、アドルフォの家は代々、騎士の称号を有していたらしく、王立軍では准将の地位にあった。敗戦後は生き残った部下をつれて山奥へ逃げ、土を食んで生き延び、しばらくして独立を求めて動き出した。やがて独立運動の王と呼ばれるまでになり、大勢の同志を連れて戦いを挑んできた。
だが、ジェードの支配下で資金も武器も不足し続けた結果多くの犠牲を払い、とうとう3年前。ジェード国による鎮圧に負け、アドルフォは銃弾に倒れてしまった。
アドルフォの同志にひきとられたリディは、父の跡継ぎとして再びプラテアード独立の立役者になるため、知力、体力、武術の特訓を受けることになった。
ジェード国の手から逃れるように山から海、河、洞窟などを転々とし・・・。
そして、17歳の春。
リディはある情報を確かめるために、このエンバハダハウスに潜入したのだ。
リディは一息つくと、額を覆う太さに折りたたんだ布を頭に巻いた。
満月の夜はできるだけ外に出ないようにしているが、そうもいかない日だってある。この青い布は父の形見の一つ。それを額に巻いても、誰も不思議には思わない。
額が完全に隠れたことを鏡で確認したリディは、肩幅くらいしかない天窓をゆっくりと開け、そこから顔を出した。
赤い西洋瓦の畝が、月明かりで鮮明に見える。
ほどなくして、足音一つ立てずにその屋根を伝って一人の男がやってきた。
男はリディの前で膝をつき、頭を垂れた。
「・・・リディ様。ご報告の前に、お願いがございます。」
「お願い?」
「この屋根の骨組みをこっそり修理させてください。屋根裏部屋はリディ様以外使われておりませんから、気付かれるおそれはありません。」
「修理現場は気付かれなくても、修理後みんなが気付くと思うが?」
「このハウスの人間は、建物のことは眼中にありません。お願いです。このままでは、私は屋根を伝う度にいつ壊れるかびくびくし続けねばなりません。」
「じゃあ、キールが歩くところだけ直すのは?それくらいなら大丈夫だろう。」
「ありがとうございます。」
キール
それは、リディがアンドリューと共に渓谷の濁流を彷徨い続けているところを救った猟師の一人だ。しかしその実、キールはバッツと共に、リディの教育係り兼側近だったのである。
実際、リディがクラブ・ローザから浚われたのは、キール達の大失態だった。
幸い、王宮からエンバハダハウスへ一旦戻ったアンドリューを追うことでリディの居場所に辿り着き、全員の救出に成功したのだ。つまりあの場に居合わせたのは偶然ではなく、居合わせるべくして居合わせたのだった。
救出後、アンドリュー達が眠っている間にリディはキールやバッツと内輪の話をしており、キール達を信頼できないとアンドリューに言ったのも、芝居の一つだった。
「それにしても、」
キールは、大きなため息をついた。
「このエンバハダハウスに来て以来、リディ様は災難続きです。無論、我々が不甲斐無いのもいけないのですが、アンドリュー殿共々、命の危険に曝されすぎです。どうか暫らくは、大人しくなさっていてください。」
「でも、時間が惜しい。できるだけ早く真相を確かめたいんだ。本当にこのエンバハダハウスに、・・・ジェード王の隠し子が住んでいるのかどうか。」
「私も昼間ずっと見張っていますが、まだ住民すべてを把握できてはいません。まともな職を持っているのは記者のレオン殿だけで、あとは日雇いや酒場、ごみ集め、博打屋など、ろくに金にならない職を転々としている住民ばかりです。」
「管理人といわれるアンドリューのお爺さんというのは?」
「実は・・・、そういう存在をまだ一度も目にしていないのです。」
「一度も?だって、もう1ヶ月以上ではないか?」
「はい。でも買い物などはすべてアンドリュー殿がやっている様子なので、外へ出る必要がないのかもしれません。窓は一日中カーテンが閉められていて、中は確認できません。」
「・・・お爺さんの存在自体ダミーってことはないか?」
「それはどうでしょう?アンドリュー殿の食料の買出しは、とても一人分とは思えません。だれかと同居しているとは、思うのです。その同居人が誰かということが気になりますが・・私はやはり、アンドリュー殿が王の隠し子という気がします。」
リディは、睫毛を伏せて首を振った。
「それは・・・ないと思う。」
「どうしてです?あの行動力、体力、知力、勇気、どれをとっても非の打ち所がないではありませんか。」
「そうだ。だが、アンドリューが王宮を訪れたときの言葉・・・あれが心に掛かる。」
― 金とか権力で人間を動かせると思っているのは、特権階級の思い上がりですよ ―
― 王室など、二度と・・・関わりたくもない! ―
キールは、俯いたリディの肩を支えた。
「とにかく監視を続けます。リディ様は、このままハウスの住人として普通に生活してください。」
「バッツは・・どうしてる?」
「働いています、元気に。我々も自分の食い扶持は何とかしませんと。」
「すまない。私が不甲斐無いばかりに・・苦労をかける。」
「また、そういうことをおっしゃる。リディ様は、13歳の少年のふりをするだけで大変なのですから、余計なことは心配なさらないでください。」
「声変わりしていない限界が、13歳だ。本当は17歳の女だということを隠す限界、ということだな。」
リディはそう言って苦笑すると、一つに束ねられたキールの長い髪の先をつかんだ。
「私がキールみたいに長い髪のままだと、どうしても女にしか見えないからな。」
「・・・暫らくの、ご辛抱です。」
「うん。それにもう大分慣れてきた。大丈夫。」
リディは辺りを見回すと、キールに手を振った。
「もう行け。そして、ゆっくり休んでくれ。」
「はい、リディ様。」
本当はキールの姿が見えなくなるまで見送りたかったが、どこで誰が見ているかわからないため、リディはすぐに窓を閉めてベッドにもぐった。
最近、ふと忘れてしまう時がある。
自分がプラテアード国の人間で、その独立が自分の手にかかっていることを。
キールやバッツだけでなく、何千という運動家が次の指導者を待っている。アドルフォは未だに伝説の革命家であり、その娘のリディが一人前になって指揮をとる日を今か今かと待っている。
ジェード王国から送り込まれた総督の暴君に耐えながら、少しずつ金を蓄え、力を蓄えて・・・。その苦労を知っているから、リディは父の跡を継ぐ決心をした。
父の側近や部下達の強い思い、強い意思。それを集結させ、最も有効に活かし、プラテアードの独立を実現させること。それが、自分の使命だということを・・リディは時々、忘れてしまう。
レオンの傍で働き、アンドリューとほぼ毎日のように顔を合わせる。
人並みに働き、食べ、眠る。決して豊かでなくても、両親がいなくても、今の生活は幸せだ。だから、このまま・・・このまま、ここで暮らしていけたらどんなにいいだろう?
(いや、駄目だ・・。こんなこと、考えるだけでも反逆だ。私が生かされている理由を考えろ。私の命は、私のものではない。多くの仲間を犠牲にして生かされたものだ。それを無駄にしてはならない。)
こんな夜は、父を思い出す。
母の思い出は、まったく無い。
母の顔すら知らない。
父は一切何も話さなかった。臨終の床でさえ、だ。
だから、父の遺言はただ一つ。いつも繰り返していた言葉だけ。
― 額の秘密を、絶対に知られるな。どんな側近に対しても、知られるな。例え将来、お前の夫となる男にでさえ、知られてはならない ―
満月の光の下でのみ白い額に浮かび上がる、藍の紋章。
これが何を意味するのか、それは謎のままだ。
だが、リディは覚悟していた。
その意味を知った時が、次の運命の始まりであるということを。
そしてそれは、決して幸せの始まりではないということを。