ドロップス 幸せの飴 第三話01
「これは、魔法の飴さ。なめると元気が出るよ。」
ほんの、気まぐれに渡した缶を、玲子は32年もの間、大切にしていたと担当医は言う。
「ほんとうに、うれしかったの。」
「子供の私には、本当に不思議な魔法の飴だった。寂しくなると、缶を振るの。カランカランと中の飴が鳴って、あのお兄ちゃんが、元気出してって言ってくれてるみたいだった。」
「だって、いつも食べちゃうと無くなっちゃうじゃない。すごーく寂しい時だけ、そう、一年に一回くらい、中の飴を食べるの。」
「その飴が、買えないわけじゃないのよ。兄弟のいない私にとって、見ず知らずのそのお兄ちゃんを、自分のお兄ちゃんだと思いたかったのね。だから、特別な飴。大事に大事にしてきたの。」
「私、17歳の時、父ががんの闘病をすることになって高校を辞めたわ。父はやめるなって言ったけど、大丈夫よ。お父さんが良くなったら、復学するからって。」
「神様にお願いしたわ。お父さんまで連れて行かないでって。一人ぼっちにしないでって。」
「8歳だった私は、母に何もしてあげられなかったから、父には、出来ることなんでもやってあげたかったのよ。」
「それから2年、父を看取って、ついに父もなくして、途方に暮れていた時に、父の告別式に来てくれた、池沢の両親に、私たちの家族になりませんかって言われたの。うれしかった。けど、少し戸惑ったわ。」
「でも、『玲子ちゃん、貴女は医者には成れなかったけど、医者を育ててくれないかしら。貴女なら、きっとできるわ。』そう言われて、父が夢途中で終わらせてしまった地域医療への夢を受け継いでくれる人を、子供を、育てることができるのなら、頑張ってみようと思ったの。」
「笑ってください。もう少し大人で、もう少し世間を知っていたら、そんなおこがましいこと考えなかったと今の自分ならわかるのだけど、何か生きる希望がほしかったのね。そして、あたたかい家族も。」
「東京に来て、その相手は、あの飴をくれたお兄ちゃんだったと分かったとき、うれしいような恥ずかしいような。申し訳ないような。」
「夫は、最初から私を拒絶していたわ。当然だと分かっているけど、寂しかった。何度も、最後の1個になった飴をなめようかと思ったわ。でも、いつも、あと少し、あと少しって、缶を振って音を聞いていたの。皮肉よね。」
「池沢の母が、『玲子ちゃん、もう少し我慢して。あの子をわがままに育ててしまった私が悪いのよ。本当は、優しい子よ』って、慰めてくれて。本当の母のようにかわいがってくれたわ。池沢の母も医者だったから、忙しくしていたので、家事一切と息子たちの世話と、必死にやったわ。そして一番は、夫のこと。何が好きで、何が嫌いか。今日の体調はどうか、食欲は? どんどん、夫の好みや体調が判るようになってきて、夫をイライラさせないようになっていった。私は、影のように、夫の意識に入らないように、家に帰って来ても、彼の世界を壊さないように、それだけを考えるようになっていったの。」
「かわいそうな女なんて、思わないで。私は少しもかわいそうな人間ではなかったわ。息子たちが可愛くて、可愛くて。夫は、私に家族をくれたの。生きる希望をくれたの。そして、もっと小さい頃から、元気をくれていたの。そんな夫に、少しでも快適な生活を送らせてあげられるとしたら、どんなにか幸せだと思うようになっていったのよ。」
「私、彼を愛していたわ。」
「彼が、他の女性を愛しているからこそ、私が彼を愛することを負担だと思わせないように、存在を消していったの。」
「その女性のことを思うと、申し訳ないと分かっていたけど、次男が結婚するまではと、自分をだまして、ずるずるとしすぎたわね。去年、体調不良で病院へ行ったとき、ステージ4ですと言われ、覚悟が着いたの。神様に感謝した。そう、もう一度、自分の生き方を示してくれたように思えたの。」
「池沢の家を出てくるとき、玄関で池沢の両親にお詫びをしたわ。茂幸さんのことを最後までお世話することができなくなって申し訳ありません。でも、このままでは、茂幸さんのご迷惑になりますから、お許しくださいってね。」
「これ以上は、迷惑をかけられない。もう、足手まといにしかならないなら、私が池沢の家にいる意味が、無くなったと思ったから出てきたの。」
「それが、駅まで、一歩、一歩、踏みしめるように歩いていたら、なんだかうれしくなってきたの。おかしいでしょ。でも、本当なの。自分でも気づかなかったんだけど、それまでの32年間、自分のようで自分ではない人生を送っていたのよ。きっと。」
「うまく言えないけど、ここからは、自分だけの時間が始まるんだと思えたの。あと、どのくらい残されているか判らないけど、自分だけの時間を生きられると思ったら、ワクワクして来たわ。そうやって、ここへ来たの。そうしたら、32年前と同じ、青くて広い空があった。32年前と同じ、風にさわさわと揺れる白樺の木があった。」
「あー!北海道に帰ってこれた!」
「私、病気を一瞬忘れたわ。そして少女の頃のように、まっすぐに伸びた道を、どこまでもどこまでも走っていきたかった。でも、もう、走れなくなっているんだけどね。」
「わたし、幸せ。ほんとよ。母も父も待っていてくれる北海道へ帰ってこれたんだもの。」
そう言って、にっこり笑ったあと、窓の外の白い雲を目で追いながら、ぽつんとおっしゃったんですよ。」
「でも、先生、私がもう駄目だと思ったら、最後の飴を私になめさせてくれないかしら。」
「にっこり笑って、何でもないことのように仰るんですよ。」
「そうですね。まだ先だと思いますけど、覚えておきましょう。そう言って病室を出ました。辛すぎて、もう、お顔を見ていられませんでした。」
「判りませんでしたか。入院する直前は、相当しんどかったと思いますが。」
一瞬、玲子の担当医は、非難めいた目をして、私を見た。そう、私も医者なのだ。半年前のことを思い出そうとしても、思い出せない。半年どころか、結婚してからの32年間、妻との思い出は無いに等しいのだ。
「玲子さんは、旧姓の成見玲子で、死亡届を希望されていました。ただ、調べてみるとまだ、離婚されておらず、やはり夫である、池沢さんにご連絡するしかないだろうとなったのです。私たちも迷いました。玲子さんのご希望と違いますから。それで、ご連絡が遅くなってしまったのです。」
そう言って、死亡診断書を渡され、玲子の病室へ向った。窓の大きなその部屋は、日高山脈が良く見え、鳥のさえずりも聞こえてくる。澄んだ青空に、真っ白な雲がゆったりと行き過ぎていく様子まで見える。玲子の枕元には、ドロップスの缶があった。古びた缶は、角のところが少し錆びている。
いつも、この缶の音を聞いていたのかと思うと、涙があふれてきた。その缶を手に取り、振ってみる。
「そうだね。」
「もう、音を鳴らす必要がなくなったんだね。」
玲子は、幸せだったのでしょうか?
玲子をこの世に送り出した私でも、自信がありません。
でも、茂幸のせいでもないような気もします。
人は、やはり、悲しい生き物なのですね。