004:いせかいこわい
そして。
アルカナがおすすめしてくれた理髪店に向かい始めて、5分が経過した頃。
「……ここ、どこ?」
俺は意外と早歩きなアルカナを見失い、見事に迷子になっていた。
「お、おーい、アルカナ……アルカナさーん……て、天使様ぁー……」
ぼそぼそと、誰にも聞こえない声量で喉を震わせた。
大声を出そうにも、こんな人混みの中で子供のように無遠慮に叫ぶのは恥ずかしさ極まりない。思わず声が縮こまってしまう。
というか、17歳にもなって迷子になったとか誰にも言えない。方向音痴でニート有望とかマジで救いようがないし。
周りを見渡すと、行き交う種族の豊富さに感嘆するよりも先に、果てしない絶望感が俺に襲いかかった。
他の場所との景色の違いがわからない。
どれもこれもが石造りの中世ヨーロッパ風の建物で、この街完全初見の俺からすれば模様の違いを見つけ出すことすらままならなかった。
肩がすくむ。
挙動不審に陥る。
ここはどこなのか、見当がつかない。
虚勢を張って粋がるクセに臆病――そんな酷い性分を持つ俺は、いざというときに頭が真っ白になるのだ。
加えて、ここは異世界。
どこに何があるのかも把握できていないこの現状が重なり、俺の心臓の鼓動は現在、不規則に波打っている。
「そもそも、ここって何の街なんだよ……それすらまだ聞いてねぇってのに」
あちらこちらにある凡庸な街なのか、それとも王都だったりするのか、そんな知識すら頭の中にない。
道の隅っこで流れる人々を眺めながら、できることを見つけられない俺はひたすら呆然としていた。
「……けど、ずっとこうしてても何も始まらないよな。どっか、喫茶店みたいな場所は……」
狭い歩幅で自信なく歩きながら、俺はそれらしき建物がないかを探す。
RPGの基本である、NPCからの情報収集。
ここが異世界である以上、今の俺はゲームの主人公とほぼ同一の立場と言っていいだろう。
この世界に関する知識がほぼ何もない現状、周囲の環境の適応性を見極めて物事を進めていくしかないのである。
と、早速。
野菜のようなものが看板に描かれている建物を発見した。字は読めないが、おそらく喫茶店的な建物だろうと推測できる。
「うし、まずはここで情報を集めるか」
俺は遠慮なく扉を開け、その中に入っていった。
――十数人のゴリゴリの筋肉男たちが全裸で踊っていたため、俺は全力で扉を閉じた。
俺の本能が「逃げろ」と訴えてくる。
それに従った俺は額に汗を垂らしながらその場から立ち去り、ニート生活が始まって以来初めての全力疾走をした――
――異世界ヤバい。マジでヤバい。
唐突な肉体の酷使によって呼吸と気分を乱しながらも、足を止めた俺は店から離れた路地の壁にもたれかかってどうにか正常を取り戻そうとする。
「……何だったんだ、今の筋肉祭り」
しかし、あの一瞬の光景がいまだに目に焼き付いて離れてくれない。
上半身にも下半身にも何も付けていない筋骨隆々のおっさんたちが、口にニンジンらしきものを咥えて、俺の世界で言うバレエのようなものを踊ってハイになっていて……。
……えっと、本当にどう反応すればいいのかが分からないんだけど。
建物の看板にはオレンジ色の野菜の絵が描かれており、実際それはある意味正解ではある。そのニンジンの使用方法が問題なだけであって、確かに看板に偽りはなかった。
なかったけど……。
本当に、あのおっさんたちと目が合う前に逃げ出せてよかったと心の底から思う。
ここは何が起きるのかが依然として不明瞭な異世界。こんなところで厄介ごとに巻き込まれるなんて死んでもごめんだ。
「けど、ここで怖気付いたら今度こそ何も始まんねぇ。次だ次」
パン、と両頬を叩いて気合いを入れ直す。
こんなニートらしくない動きをしたのは、セーブ不可なのに攻略に8時間以上を要するダンジョンに挑んだとき以来である。
「よし、ここだ」
続けて、何も装飾が施されていない向かいの建物に入っていく。
――十数人のゴリゴリのドワーフたちが全裸で踊っていたため、俺は全力で扉を閉じた。
異世界ヤバい。ヤバいを通り越して狂ってる。
再び全力疾走で道を駆け抜けた。行き交う通行人をするすると避けていくその運動神経の良さは、我ながらちょっと爽やかだと思う。
――そんなことは心底どうでもよくてだな。
先ほどよりもさらに細い路地に入って立ち止まり、ぜーはーと息を切らす俺の口から、恐怖心という名の本音が漏れた。
「ダメだ、異世界こわい」
壁にもたれかかり、俯いた。
もう疲れた。
学舎とか身嗜みとかどうでもいいから早く帰りたい。
さっそく生きる気力を失いかけた俺は、さっきまでそばに居てくれたアルカナの存在がどれだけありがたかったのかを実感する。
異世界に連れてこられたのは不本意だったが、アルカナは課せられた使命に従っただけであり、あいつ自身は何も悪いことをしていない。もし再会したら無礼を働いたことを謝っておこう。
悪魔の皮を被った天使様と褒め称えてあげよう。
そんなふうに、穢れたニート心をらしくもなく浄化していると。
「あなた……もしかして、日本人?」
壁にもたれて顔を下げていた俺に、一人の少女の声が届いた。
しょぼくれた表情のまま正面に顔を向けると、眼前に立っていたのは一組の男女ペアだった。一人は異世界という世界観に背反した黒髪ポニーテールの少女で、もう一人は……何故か立ったまま寝ている青年だ。
「……こいつのことは気にしないで」
「えっと……気にならないって言ったら嘘になるけど、まあそうしとく」
俺が言うと、少女はこくりと頷いた。
青年がどうやって寝ながら歩いているのかは気になるが、ここは異世界だからとこじつけ半分に納得しておくことにした。
しかしこの女の子、どう見ても日本人だな。
身長は低いが、見た感じの年齢は俺よりも少し上だろうか。眠そうな目の下には夜型の象徴であるクマが張り付いていて、西洋人のようにスッとした顔立ちではなく、少し童顔が混じっている明らかな東洋人だ。
身につけている服装も半袖Tシャツにジーパンという日本人にありがちな、それもどちらかといえば男子寄りになるであろう身なりだった。
と、よく見ると。
髪留めから髪の毛がはみ出していて、なんだか全体的にどんよりとした雰囲気を醸し出している。
別の言い方をすれば、暗い。
つまりこの子は、女子力が抜け落ちたニートの女の子。俺はそう推測し、改めて少女の瞳に目を向けた。
「……ねえ、ニートを侮蔑するかのような目で私を見ないでほしいんだけど」
「いや、生まれ持ったこの死にかけの目つきが誤解を招いてるだけだと思うから、見逃してくれ」
「むぅ……それならいいんだけど」
彼女がニートであることをさり気なく自分で認めていた気がするが、俺のそんな懸念は彼女の言葉によってどこかに飛んでいった。
「それより私、あなたを迷子だと断定してるんだけど……それで正解かしら?」
と、早速バレた。
「えっと……まあ、そんなところ」
「でしょうね。異世界にやって来た日本人がそんな初期装備でこんな場所をうろついているはずがないもの。しかもなんか全力疾走してたし、嫌でも目立つわよあんなの」
「バカにされてる気がしなくもないけど、実際パーカーとジャージだからな。否定はできんよ」
とても異世界での会話内容とは思えないが、今の俺の装備といえば完膚なきまでのニートシリーズ。スライムにすらけちょんけちょんにされかねない防具なので彼女に反論する術はないに等しい。
そんな俺を、鋭いというか暗いというか、どこかはっきりとしない曖昧な目つきで見ている。
と――直後に頬を軽く緩ませた彼女が提案してきた。
「暇してるのなら……ちょっと話さない? 向こうに喫茶店があるから、そこでジュースでも飲みながら、ね」