95:師範代
ぐこぉ、ぐこぉ、ぐこぉと蛙が長閑に鳴く、甘酸っぱい匂いの霞漂う湿地。
「不快極まりない。消えろ」
唯一開いた右のくすんだ緑で、怯えた白髪の老婆を睨むのはヌロゥ・ォキャだ。
女はヌロゥに背を向け、躓きながら離れていく。
「下劣な足音だ」ヌロゥはその場で女に向かって腕を振るった。「黙せ」
どちゃ……。
老婆の身体が上下に真っ二つに分かれ、湿った地面と真っ赤な音を立てた。
「その音色だけは称賛に値するな、っくくく」
ぬらっと冷酷に笑んで、彼は闇の穴を出現させる。そうしてそこに足を踏み入れようとした時、彼は強い気配、それも舞い花に通ずる者たちの気配を感じ、踵を返した。
「求血姫でなくて、すまないな。『来光の剣士』たち」
「ヌロゥ・ォキャっ」
テムが天涙を構えた。
彼の隣でイソラは刀を抜かずに身構える。「お前もセラお姉ちゃんを探してるの!」
「見当違いだ。俺は待っている。この眼前に麗しき花が舞うことを」
「じゃあその人は」テムが無念そうに言う。「どうして殺した。放っておけばいいだろ」
「俺の見る世界を汚したからだ。塵芥があれば払うだろ、お前たちだって」
イソラはヌロゥに跳びかかる。「人の命をなんだと思ってんの!」
「他人の命だと思っている」ヌロゥはその身に空気を纏うと、触れることなくイソラを止めた。「この問答をお前に理解できるか? 両の眼を奪われし、我が近似者」
「っく……動かない……」
「半分とはいえ、俺も光を失った同類。きっとそこには絆がある。どうだ? お前も舞い花よろしく、俺を楽しませてみるか?」
「お前との戦いなんて、絶対っ楽しくないっ!」
「俺もいることを忘れるなよっ!」
イソラが吠えるに合わせ、テムが空気に固められた彼女の傍らから天涙を振り下ろす。
「くくっ、その名、俺の記憶に刻んでみろ!」
空気がヌロゥを中心に大きく膨れ上がった。急激にイソラの鼻孔の甘酸っぱさが増した。そして、彼女の身体は大きく吹き飛ばされる。それはテムも同じで、空気に押され晴れていく霞を追いかけていく。
「動けるっ!」
吹き飛ばされることで拘束が解かれ、イソラは着地と同時にぬかるんだ大地をしっかりと蹴った。大地の状態などさほど関係ない。普段と変わらぬ駿馬で、今度こそ敵の懐に入り込んだ。
蹴りを繰り出すと、ヌロゥは腕でそれを防いだ。その感触は柔らかく、まるで天馬をしているような感じだった。空気の鎧だ。
空いた手に歪んだ剣を出すヌロゥ。それが振り下ろされるのを感じると、イソラは敵の手首を掴んでそれを止める。そうしてその腕を巻き込むようにしながら、自分の背をヌロゥの身体に密着させた。
「テムっ!」
イソラがその場で地面を蹴って身体を持ち上げると、その下にテムが入り込み、ヌロゥの腹に脛をめり込ませた。
空気にヒビが入る。
「んっ?」
ヌロゥが異常を感じ取り、右目を瞠ったが遅い。すでにヒビ割れ止まった。
「ぶっ飛べ」
言いながら脚を振り抜くテムに合わせ、ヌロゥから身体を離すイソラ。間髪入れずに、ヌロゥの身体はぬかるんだ地面を後ろに滑っていった。
「ぐふぅううっ……んんぁっ」
ゆっくりと速度を落としていき、ヌロゥは耐えた。
それを見たテムは、肩を小さく竦めた。
「さすがとしか言いようがないな、耐えるかよ」
イソラは彼の隣に降りて言う。「後ろと上から、空気で身体を押さえつけたみたい。飛ばないように。それにしてもまだわかんないっ、闘牛。もっと見せてよ、テム」
「ただの闘気の迸りではなさそうだ……」腹に手を当て、口から血を吐き捨てるヌロゥ。「楽しめそうだ」
持っていた剣を宙に放り、さらに指輪から八本を出して周囲に浮かせるヌロゥ。その剣をそのままに、自らの身体で二人に向かってくる。
その最中、ヌロゥはその手に中身の入っていない瓶を出現させ、握り割った。
びゅぉぉぉ――。
イソラはその音と肌感覚に訝しむ。「冷たい……?」
「吹雪っ……あの瓶、空気か!」
テムの気付きの声を聞いた時には、ヌロゥの身体は荒れ狂う豪雪を纏っていた。その雪が彼の腕を覆い固めていく。かと思えば、反対の手にまた別の瓶を出して割るヌロゥ。
今度はなんだとイソラが思っていると、彼女に向かってヌロゥの九本の剣が迫ってきた。
ヌロゥが言う。「お前はあとの楽しみだ」
どうやら二人同時に戦う気がないらしい。イソラはキッと、敵を睨んでから鍔のない刀を抜いた。そうはさせるかと動き出そうとすると、テムの声で制止する。
「イソラ、よく見てろよ」
「なん……」なんでと言いかけて、イソラは笑う。「わかった」
彼女がテムから離れると、剣が追ってくる。
そしてすぐに、ヌロゥの固められた氷の拳をテムが天涙で受け止めた。
「イソラは見学するから手は出さない。お前も俺との戦いに集中しろよ」
「くくくっ、片手間でも充分だが、いいだろう」
イソラを追う剣が、全て消えた。
「模範試合、乗らせてもらおう。師範代」