80:玉の緒の神
「どうしてっ! ザァト! イソラでしょ!」
ハツカは涙を散らし、ザァトに詰め寄った。しかしザァトはそれを腕一本で押し退ける。
「静かにしろ、ハツカ。イソラが起きちまうだろ」
「なに言って……あんた、今、この子を! イソラを、殺そうとしてるくせにっ! その角、おっかいてやる!」
「ヴェィル、急いでくれ。済んじまえば、このうるさい口も閉じるだろうから」
「……」
ヴェィルは三人をすっと見回した。イソラはその様子を、ただ見守ることしかできない。ただ一つだけわかっていることがあるとすれば、それは彼女自身が生きているということだ。
――あたしはここでは死なない。
どういう経緯でそうなるのか、イソラには見当もつかなかった。
赤ん坊の自分を見つめる。自分の身になにかが起ころうとしているのに、未だに可愛らしい寝顔のままだ。
「では、妻に祝いをかける」
ヴェィルがハツカに手を伸ばす。
「いやっ! ふざけないで!」ハツカは迫る手を払った。「あたしもこの子の親よ! 選ぶ権利があったっていいじゃ…………」
ハツカの口の端から、言葉の代わりに血が噴き出した。
「うそっ……!?」イソラは触れられないとわかっていながら手を出していた。虚しく、黒き刃をすり抜ける。
ハツカを貫く刃。その元をたどれば当然ヴェィルの手に行きつくのだが、問題はその間だった。彼の手から伸びた剣は、ハツカを貫く前に、赤ん坊のイソラを通過していた。
「うあぁあああ! ヴェィル! なんっでだっ! 選んだだろ、俺はっ……!」
「選ばないのなら、すべて失うと言ったはずだ」
「ふざけるなっ!」
剣が抜かれ、母娘は大地に伏した。
「ハツカぁ! イソラぁあ! あ、ああああ……」
ザァトは目を見開いて泣き叫んだ。
「俺がなにも知らないとでも思っていたか。玉の緒の神ザァト」
「……っ!?」
ザァトはまさかと言わんばかりに、ヴェィルの顔に悲愴を向けた。
「お前は魂を繋ぐ力を持つ神になった。母親に祝いをかければ、その血を受け継いだ娘にも繋げることができる。そうだろ、ザァト」
「……」
「残念だ。本当に一方を選べば、救ったものを……。家族諸共、消えろ」
「おぎゃぁ、おぎゃぁああ!」
ヴェィルがその手に黒き靄を醸し出す力の塊を現出させると、母の下敷きになったイソラが突然に泣き出した。
「心臓を貫いたはずだが……神の生命力か」
ヴェィルはその手から黒を消した。そしてザァトに青を向ける。
「ザァト、この娘の幸運に賭けさせてやる」
呆然自失といった顔はヴェィルには向かず、ただ口だけを動かしたザァト。「な、に……?」
「すでに負った傷には意味はないが、祝い施そう。世界崩壊の寸前まで生きながらえるのなら、回復もしてやる。生命力が尽きるのが先か、世界が滅ぶのが先かだ。これが、友への最後の譲歩だ」
言い終えると、ザァトの返答も待たずにヴェイルは赤子に対して不思議な言語を短く唱えた。すると泣き喚く赤ん坊の身体が一瞬白んだ。
それを見届けると、彼は今度こそ黒き力を世界に放った。
鈍い轟音と共に世界が揺れはじめる。
赤ん坊の泣き声と、世界崩壊の音。
その中でイソラは小さな自分に声援を送る。
「頑張れ、あたし! 大丈夫だよ! だってあたし生きてるから!」
「イソラ…‥生きてくれ……」
ザァトは涙と血でぐちゃぐちゃな顔を笑みで歪めた。しかしそれも数秒のこと。彼は世界崩壊を前に、息絶え、力なく土に抱えられた。
「うそっ! 駄目だよ! お父さん! お父さん! だって、この後あたしを抱いて、赤い鳥居の山を……」
イソラが言っている最中に、泣き声が途絶えた。
「え、だって……そんな…………」
「さらばだ、ザァト」
ヴェィルはそれを餞別の言葉にして、静かに消えていった。
そして、世界も消えた。
真っ暗だ。
暗闇に、戻って来た。
イソラは見えなくなった目を閉じ、瞼の裏に最初の記憶を映し出す。
赤い鳥居の記憶。
それはちゃんと彼女の中にあった。
それなのに、今見た走馬灯はその記憶に至らなかった。
走馬灯がユールによって見せられた幻覚だったのかもしれない。しかしそれにしても、どうしてユールはイソラ本人も知らない思い出を見せることができたのだろうか。曖昧な解答と、新しく浮かんでくる疑問。
判然としない思考だが、それを整理しようとはイソラは思えなかった。見せられたものが幻覚であっても、走馬灯を見るような状況には変わりないのだ。
受け入れたくない。
抗わなければ。でも、どうやって。
もう怖さも、寒さも感じない。
自分が暗闇になってしまっているようなこの状況から、どうやって脱すればいい。
「みんなぁ! わたしを見てぇーっ!」
暗闇に、耳に刺さらんばかりの声が響いた。