77:師弟の出会い
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一番古い記憶から、ケン・セイと出会うまでの間は、記憶がぼんやりとして、その大半はぽっかりと抜け落ちていた。
イソラ・イチ。
時折頭の中で誰かが呼ぶ、その名前だけを知っていて、それが自分の名なのだと気付いて、そして彼女はいつの間にかヒィズルという世界にいた。
その頃はもう赤子ではなかった。
獣のような幼子だった。
記憶にあるものとは違う山の中、廃れた神社に住みついて、虚ろに生きていた。
なにをするわけではなくぼーっとして、喉が渇けば川で水を飲み、腹が減れば人里に下りて食べ物を盗み、寒さを感じれば人から衣服を奪った。
そんな動物じみた彼女のことを麓の人々が放っておくわけがなく、町への大きな被害が出る前にと、ある時、麓の町の男たちが山に入ってきた。
大挙する大人たちに怯えたイソラは、彼らに襲い掛かった。闘技を学ぶ前とはいえ、山での獣暮らしが彼女の基礎体力を作っていた。俊敏な動きに圧倒され、男たち山を下りて行った。
だがイソラはこの時、保護されるべきだった。
この出来事をきっかけに、麓の町ではイソラを山に住みつく鬼の子どもと呼ぶようになった。そして大人たちは町の道場の剣士たちに依頼し、野蛮な鬼の子を討伐するよう依頼したのだ。
それは雨の降る日の夜だった。
いつにも増して冷える身体を丸め、イソラが神社の隅で丸くなって寝ているところに剣士たちが押し寄せた。挨拶はもちろん、意思のやり取りも試みようともせずイソラに襲い掛かった。
町の男たちと違い戦闘の訓練を受けている剣士たちに、イソラが歯向かうことは許されず、彼女は彼らの隙を見て雨に濡れ、泥を跳ねながら、山道を逃げ出した。
この雨はイソラにとって幸運だった。
山での生活に慣れた彼女の方が、山での雨に慣れていた。ぬかるみに足を取られながらの剣士たちに、彼女は一度も追いつかれることなく走り続けられた。追手も雨もやまないまま、朝が来て、イソラは町とは反対側の麓に下りていた。
獣道から草木をかき分け、イソラは小さな滝のある岩場に出た。追手の音も近くにはないので、彼女はその滝から続く川に口をつけ、喉を潤した。それから近くにあったせり出した岩の下で、雨を凌ぐことにした。濡れて、震えて、剣士たちに怯えながら、身体を丸めていると、彼女はそのうちに眠ってしまった。
「おい」
イソラは突然の呼びかけに跳び起きた。
彼女を覗き込むのは浅黒い肌の黒髪の男。だらりとした左袖の内側に、イソラは刀を見た。歯をむき出しにし、男を威嚇する。
「がぁ!」
一人なら逃げ出せるだろうと思い、イソラは男に飛び掛かった。
男はイソラを避けることなく、衝撃なく片腕で受け止めた。イソラは暴れるが、たった一本の腕から抜け出せない。
「修行の邪魔。家、帰れ」
「ぐぁう! だーぐぁ、ぐぅう゛……」
「言葉、知らないか」
実際はこの頃のイソラは言葉をしっかりと理解していた。人々が生活で使うそれらを耳にして覚えていた。しかしその使い方を知らなかった。会話を知らなかった。
「獣だな」
男は呆れたようにイソラを投げ離した。着地したイソラは不思議に思いながらも、男を睨む。そして叫ぶ。
「イソラ! イソラ!」
「名か?」
「イソラ! イソラ!」
「それしか、知らないか。話にならない」男は振り返り、川の下流へと歩き出す。「帰る。お前も帰れ。イソラ」
襲われるものだと思っていたイソラはキョトンとして、それからくしゃみをした。
その音を聞いたか、それ以前のイソラの叫びを聞いたか。そのとき、川辺に追手の剣士たちが顔を出した。もっといたはずだが、そこに現れたのは五人だった。
「いたぞ!」
「見つけた!」
イソラはすぐさま駆け出そうとしたが、疲労は幼き体に蓄積されていた。足を滑らせ転び、身体を強かに打った。
「もう逃げられないな」
「とっとやっちまおう」
「ああ、帰って朝飯だ」
イソラに五人の剣士が白刃を雨に濡らしながら迫る。寒さと恐怖に震え、もう立ち上がることができないイソラ。虚しく、剣士たちに吠える。
そこへ帰ろうとしていた男が、戻って来た。「おい」
剣士の一人が男を振り返る。「ん? なんだこんな時間に人がいたのか。悪いが、今からそこの獣を討つんだ、あまりいいもんじゃないから、見たくないなら帰りな」
「子ども。殺すのか?」
「子どもだが、鬼の子だ。あんたこっちの麓の町だから知らないんだろうけど、向こうの町じゃみんな迷惑してる。だから罰せられる。ってよく見たら、あんたも剣士か。なら別に殺しを見ても平気か」
「ああ」男は小さく頷いた。そして鋭く剣士を見つめる。「だが。ここ、俺の修行の場。汚すな」
「雨で流れるだろ、少しぐらい我慢してく――」
男の拳が剣士の頬を打った。数本の歯が抜け、剣士は倒れた。
「おいっ!」
四人の剣士たちが一斉に男に標的を変えた。
「貴様、なにをする!」
男、淡と。「殴った」
「おい、こいつ隻腕だぞ! 隣町の邪道じゃないか!?」
「邪道ケン・セイかっ!」
「邪道なら斬っても文句言われねぇだろ、こいつもやっちまうぞ」
「楽しめるとは思えん」
男、ケン・セイは無気力にも見える表情で、労することなく、剣士たちを片付けた。
「つまらん。帰る」
あっという間の出来事にイソラは呆然として、どこか身体が温まっていくのを感じながら、去っていく男の背を見送るのだった。
「けん、せい……」
その一言と、くしゃみを添えて。
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