56:正しい選択
とある世界。
ウッドデッキで欄干に腕を乗せ、夜空を望む女がいた。
気にならないと思っていたが、故郷が無くなったという事実は心に来るものがあった。
なにも言わずにその元を去った男の顔が浮かぶ。
喧嘩っ早いところがあったが、真摯に鍛錬に励む姿には心から惚れていたのだと思う。楽しい日々だった。自身が盗みの道に足を踏み入れる前に出会えていたら、きっとその日々は今も続いていたのかもしれない。もしもあの時、眠った彼の横から抜け出さずベッドで温もりを感じることに素直になれたのなら。
感傷を小さく一笑する。
「さよなら、ラスドール」
あの時言わなかった、届くことのない言葉を、女は湿っぽく呟いた。
建物の中に入ろうと、振り返った彼女の前に螺旋頭の男が立っていた。
気配を全く感じなかった。女、ナギュラ・ク・スラーは、黒みを帯びた赤紫の髪を耳にかけながら男を呼ぶ。
「ソルーシャ」
「ナギュラ」
無機質に名前を呼び返してきたソルーシャ。数度この男と言葉を交わす機会があったが、どうにも感情が見えず、ナギュラは人と接しているように思えなかった。今もそうだ。
「……あなたが新世界へのお迎え?」
その問いに不穏な無言が返ってきた。夜に映える螺旋頭の発光が不気味に見えてくる。
ナギュラはちらりと自身が腰につける魔素タンクを一瞥した。
「安心しろ、これから行くところにそれは必要ない」
「気前よく魔素も用意してくれるの、覇王様は。ま、ボリジャーク帝たちもいるから当然といえば、当然ね」
「いいや、お前がこれから行くのはズーデルの造り出す世界じゃない。俺はお前を死の世界へ送りに来た」
ナギュラは次の瞬間には動きはじめた。魔素を足に流し込み、走り出そうと。
だがそれは叶わなかった。「っん゛!」
突然、背後から押さえ込められたのだ。無理やり視線を上げると、彼女の上に乗っているのもソルーシャだった。
「分身……っ」
最初からいたソルーシャが言う。「『知恵の鍵』だけ離さなかったのに真理を得ないことを言うんだな、コソ泥女」
どん、ともう一人のソルーシャがナギュラの目の前に拳を落とした。そして指の付け根を見せつけるように開く。
「お前の前でもこれを外したことはなかったぞ」
夜の闇にも溶けない漆黒の指輪がナギュラの瞳に反射する。
「自分もつけていたから安心したか? 浅はかだな。なんのための鍵だ。使えこなせないなら、早々に差し出して死ね」
「さっさと死の世界に送れば?」
目的のものを出さなければ、どれだけ痛めつけられようが命は保障されている。ナギュラは下手に出ることをよしとしなかった。
ソルーシャが彼女の髪を乱暴に掴んで凄む。「殺されないとでも思ってるのか?」
「知ってたよ」
「?」
「わたしは知ってたって言ってるの。ソルーシャ、お前が『夜霧』だってことを」
「ほう、そうか。なら、身を隠さなかったのは愚かな選択だったな」
「どうかしらね? 身を隠さなければ生き残れる可能性が高いとわかっていれば、正しい選択でしょ?」
ばたん、とウッドデッキを打つ音がした。それにナギュラを押さえるソルーシャが顔を向ける。
正面だ。
もう一人のソルーシャが伏していた。そしてその後ろに爽やかな笑みを浮かべた男が立っていた。
「コクスーリャ・ベンギャ……!」
「ご名答」探偵は冷たくソルーシャを見据える。「はじめましてなのによく知ってる。さすがは機脳生命体だ」
「俺らの存在に気づかないのは、量産型だからか? それとも欠陥品か?」
「はっ?」
ソルーシャの首筋に黒き刃が添えられた。
「それとも『存在の鍵』使ってるか、サパル?」
「ひどい冗談だぞ、エァンダ」
「エァンダ・フィリィ・イクスィア、サパル・メリグス……」
「紹介ありがとう、貝頭くん。レィオゥ」
ナギュラにかかる力が、ふっと軽くなった。