53:伝播
トラセークァス。
植木に咲く黄色く小さな花、アヤシモクセイのまろやかな匂いを風が運ぶ。
薫風は城の窓をくぐり、研究に勤しむネルフォーネの鼻腔を和ませる。
この匂いに合わせて逆鱗茶を飲むのが、彼女にとって研究の息抜き。
パリーンっ……。
目を向けずに取ろうとしたカップが、机から落ちて割れた。
「あら……もうっ」
ネルは割れたカップを鼻歌交じりに片付ける。風の匂いと相まって部屋に芳醇な香りを満たす、流れ出た紫の液体も拭き取り、研究に戻るため机に向かう。
最中、ふと棚に飾られた軟弱ガラスが目に入った。
割れた軟弱ガラス。元は小さな箱を成していて、中には没頭の護り石が入っていた。忌まわしさが際立つ記憶であるが、親友との大事な思い出の一つ。
無性に気になった。
いつしか、薫風は止んでいた。
右腕が急に脱力した。
滑り落ちたタェシェを左手ですくい上げ、敵を切り裂いた。
それで敵はすべて片付いた。
サパルが伏した敵たちを跨ぎながら駆け寄ってきた。「どうした、エァンダ」
「さてな」と納刀するエァンダ。
「さてなって。大丈夫なのか?」
「大丈夫だ。むしろ楽になった」エァンダは右手の開閉を繰り返す。「けど、いい感じでもない」
トゥウィントにグースを預けたゼィロスは、ホワッグマーラに戻っていた。
ズーデルとの戦闘を行わなくとも、この世界の助けにはなれる。異空連盟の前身、賢者評議会の頭であった身としては、スウィ・フォリクァ襲撃時の恩を返す意味もあった。
しかし恩を返すまでの活躍はできそうにないと、彼は悟った。
共に戦うのがホワッグマーラで一番の英雄ブレグ・マ・ダレだったからだ。
自分より若いとはいえ、彼も体力が落ちはじめてくる年齢だ。それでも、たゆまぬ鍛錬と戦いの場に身を置き続けてきた彼には、衰えなどという言葉は失礼極まりない。
さらにブレグほどの称賛はしないが、シューロという若き魔闘士も、素晴らしい働きぶりだった。
そしてもう一つ、荒野一帯には元白輝の将軍デラヴェス率いる軍勢も参戦していた。そのため、一人の活躍の量は自ずと減っていた。
ズーデルとの戦いが当然のごとく最重要戦線と見れば、この戦場は最大戦線として間違いないだろう。
「ゼィロス殿!」
ブレグと背中を合わせる場面が来た。足を捌き、二人で回りながら敵を相手する。そんな中、彼が告げる。
「ゼィロス殿は戦況が振るわなくなれば、外へ逃げてください」
「なにを。不利になったならば、余計に人手が減るのは得策じゃない」
「あなたは異空にとって重要な人物。なにかあってからでは遅い」
「もうすでに起きているんだ。それに俺はもう、そこまで重要ではないさ。世代は移りゆくものだ。『異空の賢者』はじきにセラになるさ」
口角を上げてそう宣言するゼィロスの胸元に白雲の剣が迫った。身を引いて攻撃を避けるが、『記憶の羅針盤』を括る紐が斬られた。
地面にちゃりんと落ちる。
ゼィロスは敵を蹴り飛ばし、『記憶の羅針盤』を拾う。
「ナパスの誇りに土をつけるとは」
服で三つの円を磨くゼィロス。見つめた金属光沢が、一瞬、涙のように閃くエメラルドに見えた。
「絶対に死なせないからね!」
ヒュエリ・ティーは禁書の魔導書館司書室で、涙を浮かべて、淡緑色の光に包まれる身体に縋る。
「ジュメニ!」
「ヒュエリ、大げさ。死ぬほどの怪我じゃない」ベッドのジュメニは呆れる。「それに、ユフォンくんを信じてないのか?」
「そんなっ! 信じてるよ! けどユフォンくんだって、何人も幽霊出してるんだよ、わたしの知る限り、今まで一番遅いよ、治るの!」
「でも治ってる、でしょ?」
「そ、そうだけどぉ~……」
不安げに正面に視線を注ぐと、かなりの集中を発揮する弟子ユフォンの姿がある。青年と呼ぶには小さな姿。
幽体化のマカはいくつもの分身を作り出すことができる。実力によるが、数人程度なら本人との違いは大きさと服装と透けくらいなもの。しかし、あまりに多量の幽体を生み出すと、実体に影響がでるのだ。
それが見た目の変化。実体までもが縮むというものだ。
「ふふ、妹と弟がいたらこんな感じかな?」
「え? なに急に」
「だって、二人ともそんな小さくなってさ。状況的に不謹慎かもしれないけど、面白くって」
「ジュメニ……死なないでっ」
「いや、最期の言葉じゃないからな、今の!」
顔を綻ばせながら怒るジュメニに、ヒュエリは笑う。
少しでも、気休めが欲しかった。
ドルンシャ帝による睡眠から覚めてから、ユフォンに事情を聞いた。あまりのことに動揺が冷静さになり、なにも考えずに帝令に従った。盲目となって幽体での避難活動をした。している。
それでも、全民間人の避難終了は果てしなく遠く感じられた。
次第に本当の冷静さが訪れて事態を把握していくと、悲観的な考えばかりが浮かんでしまう。
だからここでは笑っていたい。馬鹿を言っていたい。
あとどれくらい笑い合える時間が続くのだろう。
そんなしたくもない不安で胸がいっぱいになるヒュエリだった。