363:天才は解放を待つ
故郷の空気がじりじりと肺に染み入る。エレ・ナパス、リョスカ山の頂。開けたそこから景観を楽しみながら弁当を食べる。ナパスの誰しもの家族との思い出が集まる場所。それももう過去のものか。
「本来なら、化身であるお前をこの地に呼ぶことなどしない。だが、ヴェィルは俺に仕返しの機会をくれた」
呼吸が苦しい。汗がひどい。胸の痛みも治まらない。膝をついたまま、それでもエァンダは仇敵を射殺さんばかりに睨んでいた。
真っ赤な瞳、金髪、褐色の肌。
三十年余り前、右腕一本と引き換えに、師ゼィロスの仇を討った。実感はあった。ケルバの協力もあり、転生の可能性も潰した。全てを果たしたのだ。
それでも目の前に恨めしい顔があるのは、ヴェィルの力に他ならないだろう。
「ロゥリカ」
「偽りとはいえ二度も俺を殺した男を、この手で葬り去る機会――」
ロゥリカがその手に、剣を作り出した。
「――存分に、味わうとしよう」
「……っぅ、タェシェ!」
エァンダは苦痛に耐えながら、悪魔の義手を横に伸ばすと、群青の花を散らし背中のカラスをその手に収めた。震えながら彼が立ち上がると、ロゥリカが鋭い顔で駆け出した。
「今度は腕だけじゃなく、命を奪ってやるよ!」
『エァン、逃げるべきよ!』
「逃がしてくれるわけないだろ。タェシェ……もう一度だ」
『……わかったわよ。できる女は男の無茶に付き合うものだわ』
ロゥリカの剣が振り下ろされた。タェシェに力を添えられながら、エァンダは腕を振り上げた。ロゥリカの剣を打ち返し、反撃の一振り。しかしそれよりも早く腹にロゥリカの蹴りを受け、後退り膝をつくこととなった。
「ぐぅ……はぁ、あぁ、はっ……」
『エァン!』
「どうした、ブァルシュの時の俺より若いだろ?」
わざとらしく首を傾げるロゥリカ。それから鼻で笑って続ける。
「この地との縁切りがここまで効果があるものとはな。そのおかげでここで戦えるとはいえ、張り合いがなくてつまらない」
ロゥリカが今度はゆっくりと近づいてくる。
「味気ない仕返しだったな」
ぐらつく視界にロゥリカの足が入る。
ナパスの地で命を落とせるのなら、本望か。はじまった場所で終わりを迎える。自由なる子と呼ばれたこともあったが、どこにも自由はなかったようにエァンダは思う。ずっと縛られていた。影に、故郷に。
苦ではなかった。
だがもう、解放されてもいいのかもしれない。
セラがいるなら大丈夫だろう。今も気配は感じないが、妹弟子ならどんな苦境も乗り越えるだろう。だから、大丈夫だ。
エァンダは思念によってタェシェに話しかける。
――タェシェ。
『話してる場合? 早く動いて!』
――前に話しただろ。俺がいなくなったら、セラのところに行けって。
『いなくなる予定はないんでしょ!』
――ふっ。
『なによそれ。なにか言いなさいよ!』
――じゃあな、タェシェ。
『なっ、そんなこと聞きたいんじゃ――』
エァンダは死を受け入れた。穏やかな顔でロゥリカを見返す。せめて笑顔で死んでやるのが、一矢報いるというものだろう。
「っち、ほんとつまんねえなっ!」
剣が振り下ろされた。
「剛鉄鋼門、閉門」
重々しい門扉がエァンダの視界を遮った。
「おい、二人ともなにやってんだよ。お前たちの故郷が危なかった時、俺、助けたよな。別に恩を売ったとは思ってないけど、さすがにこの状況には口出すぞ、俺だって」
その声を聴いてはじめて、顔を上げた。紅い花が舞っていたことにユフォンはようやく気が付いた。壁に背を付け、膝を抱えていた自分自身の行動に記憶がなかった。どれくらい時間が経ったのか、わからない。目の前の彼に聞けばわかるだろうか。
「ズィー」
「おっ、ユフォン、やっと応えた。ずっと無視しやがって、なんなんだよ」
「ズィー」
「てかフェズ、そろそろそれやめろよ。いつまでぼけーっと浮かんでんだよ」
「ズィー」
「なあ、セラいないのか? ユフォ――」
「ズィー!」
「なんだよ!」
「いろいろと、起き過ぎててもう……僕はどれくらいここで、項垂れていたんだい」
「いや、知らねえけど」
「なんでさ、ずっと無視してって言ってたじゃないか? ずっとそこにいたんじゃないのかい?」
「いたような、いなかったような……って感じ?」
「……ズィー、だね、ははっ。よしわかった。わからないかけどわかったよ。ありがとうズィー」
「ん? なんもしてないぞ、俺は」
「いや、君がそこに出てきてくれたことに意味があるのさ。落ち着けるというか、僕が冷静でなきゃいけないし、なにより勇気が湧いてくる」
「そっか。よくわかんねえけど、よかった。で、セラは?」
「わからない。嫌な感じなんだ、今は。けど、僕は信じてるよ」
「俺だって信じてるし。けどよ、俺が出てきたのって、エレ・ナパスの状況のせいだけじゃないと思うんだ。どう思う、ユフォン」
ユフォンは身体に力を込めて立ち上がる。
「確かに、君の想いが向いてるのはいつだってセラの方だ、僕と同じでね。だから彼女になにかよくないことが起きてるのは間違いないと思う」
ユフォンはフェズに歩み寄る。まるで彫刻のように固まったまま浮かんでいる。
「けど、それを僕らは知りえない。だから今はできることをしよう。頼りっ切りになっちゃうけど、やっぱりフェズならどうにかしてくれると思うから、そのフェズをどうにかして助けないと」
「……俺にできることあるか、それ?」
難しい顔をして首をかしげる古き友にユフォンはははっと笑う。
「そこにいてくれればいいよ」
ユフォンはまずフェズをくまなく観察しはじめた。天才を動かす糸口は必ずある。