350:ヴェィルの子
「やっと……殺せるっ!」
エァンダを放り出し、男はセラに向かってきた。セラはエァンダのことを気にしなかった。そこまで気にする必要がなかった。あれは分化体だ。本体への影響は疲労くらいなもの。
『俺のことはいい』
トラセークァスにいるエァンダからの念話だった。セラはそれに「わかってる」と返し、男の攻撃を受け止めると同時に、周囲に花を開かせた。
跳んだのは自分たちではない。命の心配をしなければならない人物が無機質な部屋には二人いた。ノアとムェイだ。部屋は血で汚れているが、それらはきっと二人のものが大半だろう。今、瀕死の状態で倒れたいた二人をトラセークァスへと跳ばすと、部屋にはセラと男の二人だけとなった。
「粒子を止められるのか。さすがは姉さまだ」
「どう見てもあなたの方が年上なんだけど?」
セラは理解したうえで、皮肉った。
剣を交えながら、改めて男を観察し、感じ取る。セラを姉と呼ぶが、壮年の男。確かに若々しいが、大目に見ても三十は超えている。しかしこれはセラが新世界という時の流れの違う場所にいたことを考えれば、大した問題ではない。年上の弟がいてもおかしくない状況に、セラは置かれている。
では目の前の男の親は誰なのか。
それすらも今の彼女にはわかっていた。
当然父親はヴェィルだ。そして母親は、求血姫ルルフォーラ。
二人の気配に近いものがあった。
「意地悪言うなよ。わかってんだろ」
「そうね。でも、あなたは家族じゃない」
その言葉に、男は一瞬身体を強張らせた。セラがその隙をついてフォルセスを押し込むと、男は飛び退いた。
「そうだ……お前は家族じゃない」男はどこか遠い目をしていったかと思うと、憎々しげにセラを睨んだ。「なのに! なぜ父上はお前ばかり見ている! なぜ母上は、父上ばかり見てる! お前の存在が邪魔だっ!」
「……母親の方はわたしに言われても仕方ないと思うけど」
「知るか! お前が邪魔なんだ! 俺には価値がある! お前を殺せば二人も俺を見てくれる! 認めてもらうんだ!」
年上だが、本当に弟のようだ。セラは心内でそう思った。行動理念は子どものようだ。
「八つ当たりもいいとこ」
セラは言いながら男の背後に現れた。体勢を低くし、フォルセスを突き上げる。この男がどこまで粒子を使えるのかはまだわからない。だから粒子も波も攻撃に含む。仮にバーゼィやィエドゥのように攻撃を透過することができたとしても、逃がさない。
「八つ当たりかどうか、俺の憎しみを知れ、セラフィ!」
激情している割に頭は冷静らしい。男が青に交じって黒を躍らせた瞳で振り返った。そして、黒きヴェールが膨らんだ。
憎しみの大きさが故に、この男は侮れない。
セラは敵に合わせ、ヴェールを纏った。
フォルセスの切っ先が男の頬に触れる。男は構わず頬を裂きながら身を沈め、セラの頬に拳を向ける。セラは寸前にナパードで男の後方へ出た。すぐに身を翻し、フォルセスを振り上げる。しかし彼女が斬ったのは、黒い靄だった。想造の民は閃光だけ。ナパスはそれに加えて花を散らす。ナパスの民の血を引いているわけではない男の移動は、花を散らさない代わりに靄を噴出するらしい。
くだんの男はどこに行ったかといえば、セラの真上だった。
繰り出していた拳をそのままに、彼女の首を狙った。
セラはまた跳ぼうとして、異変に気付く。呪いにかかっていた。原因は靄に触れたことだろう。彼女がエメラルド漂う瞳で靄を見つめていると、男の拳が首筋を打った。
粒子を集め、気膜を分厚く張ってその力を軽減する。それでも彼女の身体は床を突き抜け、そもそもヲーンの地下である『糸杉の箱庭』が作った施設のさらに下にまで突き抜けた。
見えたのは地底湖というべきか。そもそもセラの記憶にあるヲーンの地上は水没した都市だった。きっとその水が遥か地下まで流れ込んでできた空間なのだろう。光の届かないその場所を、彼女の碧が明るく照らす。
そして彼女は力に流されるまま、水に叩きつけられた。水の中を沈み、泡に包まれようやく止まる。かなり深い。
水面を目指そうとセラは上を見ようとしたが、それよりも早く上から迫る殺意に、水に邪魔されながらもフォルセスを振り上げた。その折、フォルセスに靄が纏わりついていないことを確認する。思惟放斬が水泡と共にせり上がり、降ってきた粒子による斬撃を迎え撃つ。
水中で二人の力がぶつかり、弾ける。
生まれた水流に押されるセラ。それでも体勢を整えると、花を散らした。やはり呪いは靄に触れている間だけのものだ。
男の気配を頼りに彼女が現れたのは水面だった。正面に粒子を足場にする男を捉え、セラはすぐに床の術式で足場を作り、濡れたブーツとステンドグラスを鳴らしながら、剣を振るう。
しかし彼女の手首を掴むものがあった。黒い粒子の手だ。敵の足元から伸びて、彼女の背後を取っていた。後ろ手になり懐を晒したセラの腹に男の粒子の剣が迫る。それを止めたのは、碧き花びらたちだ。
二人は碧と黒の中で視線をぶつけ合う。
「ねえ、お姉ちゃんに名前、教えてよ? わたしだけ知らないのはおかしいでしょ」
「俺に、名などない。俺はヴェィルの子だ! それ以外の何者でもない!」