292:特別とは普遍
ヌロゥは吹雪く空気を纏う手で、身体をひと撫でした。傷口が凍り付き、塞がる。そして吹雪を払い去った。
「特別とは普遍だ」
瓶を握る手にゆっくりと力を込めるヌロゥ。
「お前たちの力もさぞ特異なものだろうが、どうってことはない。誰にでも起こりうる事象にすぎない」
ぴしっと、瓶に亀裂が走る。
「誰もが皆、万物の一片。他愛もない存在だ。どれだけ足搔こうとも」
亀裂が全体に広がる。
「ならば万物の意思に従うのが定石」
パリンッ――。
「だが俺は――」
明暗が身体を纏う。
異なる空の気を服従させる。
「――万物を従える!」
「うん、見事な口上だ」
白と黒を纏ったヌロゥに、ィエドゥが拍手をした。
「『夜霧』で会えていたら演者の話で盛り上がれたかもしれないな、君とは」
「演者? 興行か……確かにな」
「だが」
会話の途中でヌロゥの姿が消えた。ユフォンが探そうと視線を巡らせる間もなく、次の瞬間には、彼はィエドゥの背後に立っていた。
「もしもの話には興味がない」
ィエドゥは目を瞠って驚いていた。手品師にもヌロゥの動きが読めなかったらしい。
「……さっきまでお前らの動きを感じなかったが、今は感じる。異空に関わる力か」
ヌロゥは一人で納得したように呟くと、その手に歪んだ剣を出現させ、ィエドゥに斬りかかった。だがその一撃は彼の身体に触れることなく、すり抜けるに終わった。
「すり抜ける原理は未だ謎のままか。まずはそこから紐解いていくとしよう」
いくら凍らせて塞いだとはいえ、怪我をしているというのに、どうにも余裕な歪んだ笑みを見せるヌロゥ。追ってきたィエドゥの方が、彼から距離を取る始末だ。
「どうした、余裕が消えたぞ」
ィエドゥがヌロゥに向かって掌を向けた。次の瞬間、ヌロゥの身体が吹き飛んだ。すぐに空気を操り空中で留まると、ヌロゥはまだまだ余裕の表情でィエドゥを見下ろした。
「くくくっ、無敵ではないんだろう? すべてがすり抜けるのなら、俺からの攻撃に警戒する必要はない。容易に想像できるのは、攻撃に転じるときにはすり抜けることができないということ。反撃を恐れている」
「どうだろうな」
床に立っていたィエドゥが、ヌロゥの背後にいきなり移動した。反応して動こうとしたヌロゥが、なにかに縛られたように体を縮こまらせた。ユフォンはィエドゥの袖口から細い糸が伸びているのを辛うじて捉えた。きっとあれがヌロゥの身体を縛っているのだろう。
「ヌロゥ!」
ユフォンはその糸を切ろうと、鋭利に形作った魔素の衝撃波を放った。邪魔をするなと言われたが、身体が勝手に動いた。
「余計なことを」
その声がユフォンに届くころには、ヌロゥは自力で束縛を解き放ち、ィエドゥに掴みかかっていた。しかし彼の身体はィエドゥをすり抜けていく。
そしてそこにユフォンが放った魔素が到達する。これもすり抜けるのだろうと思ったユフォンだったが、映った光景に目を瞠った。
ヌロゥのことをすり抜けている最中だというのに、ィエドゥは身体を大きくよじり、ユフォンの魔素を躱したのだ。
その様子をヌロゥも訝し気に見つめていた。そしてィエドゥを通り過ぎると、すかさず白黒入り混じる空気の塊を放った。ィエドゥはそれを一瞥するも、躱すことなく透過させ、悠々と床に降り立った。すると当然に、ユフォンの方へ、ヌロゥの空気がやってくることになり、ユフォンは横へ跳び退いてそれを回避した。
「わっ」
床に当たった空気の塊は四散し、黒と白は変色を続ける壁に溶け入って消えた。
「魔素はすり抜けられない」ヌロゥが床に降りてきた。「いや……そう結論付けるのは早計か」
くすんだ緑がユフォンを見た。
「筆師。機を見てもう一度やれ」
「それはいいけど……今のを聞かれている以上、ィエドゥは僕のマカを躱し続けるはずだ。意地でもすり抜けをしないよ」
「ユフォン・ホイコントロの言う通りだ」ィエドゥが肩を竦めた。「だが、君はわざと手の内を晒したんだろう。ヌロゥ・ォキャ。俺が魔素の攻撃を透過させない状況を作り出し、そのうえで躱せないほどの魔素で攻めればいいと考えたか」
「それは魔素も本来ならすり抜けられる、ということでいいのか? ならさっきはどうして躱したのか、新たな疑問が生まれる」
ヌロゥが鋭く口角を上げた。
「言葉の応酬で結論が見えないのなら、実際に試せばいいだけのことだ。少しずつ、お前の余白を奪ってやる」