266:Before Zero Point 1
『彼』によって、『それら』が生み出された――――。
『それら』よって、時の流れの中に天地人が造られた――――。
眩い朝日がその部屋に差し込み、白髪の男の顔をくすぐる。眩さに青い瞳が細く開けられる。
今日も幸福に満ちた朝が来た。
ヴェィル・レイ=インフィ・ガゾンはベッドから抜けると、窓に向かい、開け放つ。優しい風が入ってくる。
「フェル、今日もいい朝だぞ」
彼の隣のベッドで柔和な寝顔を見せる妹フェル。その目がゆっくりと開いて、彼と同じ青き瞳が露わになる。
「おはよう、兄さん」
「さ、いつも通り『想い送り』の準備だ。みんなを待たせちゃいけないよ」
言いながらヴェィルは着替えをはじめる。
「わかってるよ」起き上がってベッドから足を降ろして伸びをするフェル。「でも、今日もノージェとモェラが遅れるみたいだけど」
ヴェィルは朗らかに笑いながら、衣から頭を出す。
「それは予見を視るまでもなく俺にだってわかってるさ。だからって総代の俺たちが遅れていい理由にはならないだろ?」
「そうだけど。別にわたしだってサボりたいって思ってるんじゃないよ? 三権のおかげで毎日幸せでいられるんだから、お祈りはするのが当然だもん。でも兄さんだって知ってるでしょ? 最近、三権を大事に思わなくなってきてる人たちがいるのは」
「……ああ。だからさ、俺たちがちゃんとしなきゃいけないだろ?」着替えを終えたヴェィルは、フェルの隣に腰かける。「どうしたんだ、フェル。嫌な予見でも視たのか? なんなら、『彼』に相談しに行こう」
「ううん」フェルは立ち上がった。「大丈夫。『彼』を煩わせるほどじゃないよ」
「そうか? お前がそういうならいいけど」
ヴェィルも立ち上がり、扉へ向かう。
「じゃあ先に行ってるから。遅れるなよ」
「大丈夫だってば」
笑い交じりの妹の言葉を背に、ヴェィルは部屋を出た。
『想い送り』は中央で三権が漂い輝く、光の広場で毎朝行われる。
祈りの装束に身を包んだヴェィルとフェルを先頭に、民全員が三権を囲んで祈りを捧げる。そうして日々の恩恵を賜るのだ。
祈りを終えると、民はそれぞれに生活をはじめる。広場から去っていく人々の中で、三権への敬意が薄らいでいると思われる民の集団をヴェィルは目で追っていた。
ちゃんと参加している。
それでもフェルだけに留まらず、多くの民が彼らのことを三権を大事に思わなくなっていると感じている。理由は明白だった。だからヴェィルも知っている。
彼らに共通しているのは、外界への旅の経験者ということ。
光あふれる母なる地のほかにも世界があることは、生まれ存在しはじめた時から誰もが知っていることだ。それらの場所へ旅行することも、誰にも禁止されていない。だから咎めるべきことではない。
ヴェィルも旅行から帰った友から、外の世界の話を聞くことは多々あった。嫌ではなかった。そして今からまた聞くことになるだろうと思いながら、ヴェィルは騒がしい足音を振り返る。
「おーい、ヴェィルー!」
前髪を括り上げた男が、布袋を抱えながら快活に駆けてきた。ザァトだ。
彼はよく旅行に行く。最初は姉のフュレイに連れられて、いやいやという感じだったのをヴェィルは覚えている。だが今では一人で数多の地を巡っては、土産話をヴェィルに聞かせてくれるのだ。
旅に行く者全員が三権への敬意が薄らいでいるわけではないのだと、ヴェィルは思っている。その理由がザァトだった。彼は民の中でも多く外界に出ている存在だ。それでも彼は、旅行ができるのは三権のおかげだと、旅に行く前にも『想い送り』とは別に三権に祈るのだ。
「聞いてくれよ。昨日さ、おもしれえ場所見つけてよ!」
荷物を抱えながら肩を組んでくるザァトに、ヴェィルは苦笑する。
「着替えるから待ってくれ、ザァト」
「そのままでいいじゃん。どうせ明日も祈るんだからよ」
「汚れるだろ」
「すぐきれいにできるじゃん」
「……ザァト、そういうことじゃないだろ。想いの問題だ」
言いながらヴェィルは思う。やはり、ザァトも三権を軽んじているのだろうかと。
フェルは『想い送り』を終えると、円陣の最後尾へ向かった。帰らずに腰掛に並ぶ困り眉の女性と、眠気眼も男性に声をかけた。
「モェラ、ノージェ」
「あ、フェル。おはよう」
「おふぁ~う」
「もう、ノージェったら、ちゃんと挨拶しなきゃ駄目でしょ」モェラはノージェを咎めてから、フェルに小さく頭を下げた。「ごめんね、フェル。今日も遅刻しちゃって。ほら、ノージェも謝って」
「あ~……悪かったな、フェル。明日は頑張る」
フェルは一瞬右上を見て、それから苦笑する。「うん、頑張ってノージェ」
「……あぁ」モェラも苦笑する。「明日も遅刻なんだね。ごめん」
「うふふ、いいよ全然。想いは必ずしも行動で示さなきゃいけないわけじゃないんだし」フェルはモェラの隣に腰かける。「ところでさ、今日、二人は外に行くよね?」
「うん」モェラは頷き、その困り眉をさらに困らせて、少々バツの悪そうな顔をした。「やっぱり、やめた方がいい、かな?」
「ううん」
フェルは両手を振って否定する。
「そうじゃないの。旅行楽しんできてって言いに来ただけ」
ノージェが訝った。「わざわざ? なんか悪い未来でも視たの?」
「ううん、それも違うよ。視えることにも限度があるもん、そんなになんでも視えないよ。だから本当に、二人には楽しんできてほしいなって思っただけ」
言い終えると、フェルは僅かに俯いてもう一度口を開いた。
「ごめん。やっぱり、少しは釘を刺しに……。三権への想い、忘れないでね」
懇願するように見つめるフェルに、モェラは笑顔で頷いてくれた。ノージェは「大丈夫だろ」と伸びをした。