204:不完全な解放
探偵に連れられ、瀟洒なバーに辿り着いた。
信じ難い、なにをしたのかも判別できない。探偵は樽の塔の前で少しばかり耳を澄ますと、迷うことなくこの店の前に歩みを進めたのだ。気にかかる部分と言えば、耳の澄まし方が独特だったくらいだ。右耳を人差し指の先で塞いで、左耳だけを使っていた。
「なにをしたかは企業秘密だ。それとも、あなたの兵器について教えてくれますか?」
「情報の交換というわけで? それは等価交換か?」
「どうでしょうね。情報の価値は人それぞれでしょう? あなたが話してくれなければ、こちらとしては判断できかねる」
「それはこちらも同じことですね」
探偵と密売人は互いに覗き込むように睨み合った。そして探偵が先に目を逸らして、店の扉に目を向けた。
「みんなが見つかるまでに話してもらえると、うれしいですね」
コクスーリャは扉に手を掛け、そこで動きを止めた。
「と、その前に」
そう言ってコクスーリャはネゴードにフードを被らせた。
「なんだ?」
「念のためですよ。あなたは『夜霧』と繋がっていたのでね」
肩を竦めるネゴードを余所に、コクスーリャは店の扉を開けた。
「ゼィグラーシス」
チャチの耳に不意にセラの声が聞こえてきた。
「セラ?」
声に問い返した瞬間、チャチの頭の中は急激に明瞭さを取り戻した。
なにを揺れる必要があるのか。正直にすべてを話すに限るじゃないかと。罪を認め、みんなの協力を得なければこの問題に解決はないのだ。
「そうですよね、セラ!」
そう口に出した途端、彼女の視界は眩い光に包まれた。
「ゼィグラーシス」
「セラお姉ちゃん!」
イソラは山を駆け降りる足を止めた。
為されるままに走っていた自分に急激に怒りを覚えた。嫌な思い出に閉じ込められていたということすら忘れていた。
「ごめんセラお姉ちゃん! あたし、止まってた」
振り返った幼きイソラ。その向こうから剣士が迫っていた。
「ふっ」
身体は幼くも、動きは今のイソラだった。駿馬だ。
剣士は鬼の子が急に自分の懐に現れたように感じたことだろう。ひっ、と悲鳴を上げていた。
「はあああっ!」
掌底を突き上げた。それと共にイソラの視界は光に白んだ。
「ゼィグラーシス」
聞こえた声に、テムははっとした。
そんな記憶はないのに、迫る天涙を手で掴んで止めていた。そして刃を掴んだまま天涙を父の手からかっさらうと、自分自身で胸に傷をつけた。
「足、引っ張るなよ、親父。俺は前に進んだぞ!」
「っ!」
気圧される父カム・シグラの顔を最後に、テムの視界は光に覆われた。
「ゼィグラーシス」
真っ黒な空間にその声が響いた。瞳と髪の色だけ残したイソラは糸の塊から、糸を力強く引きちぎりながら脱した。はらりはらりと落ちていく糸の中には碧が一本だけ混じる。
イソラは手を伸ばし、その一本を掴み取った。
そして、手に力を込めた。
碧が黒く染まった。
鏡とガラスの箱が一斉に砕けた。
それを見届けると、キノセは汗だくの顔に笑みを浮かべて指揮を止めた。かと思うと、力が抜けて、膝から崩れていく。
その身体がさっと支えられた。ケン・セイだった。
「ご苦労、キノセ」
なにも答えられなかった。ただ肩で息をしながらケン・セイに五線の瞳を向ける。
「ゆっくり」
ケン・セイが言いながらキノセを座らせてくれる。
「テム、いる。ここ、出ること、任せろ…………いや、それ以前に」
急に険しい声色でキノセから視線を外したケン・セイ。彼が見た方をキノセがゆっくり見やると、そこにはセラの姿をしたイソラが佇んでいた。イソラとテム、それからオルガストルノーン・Ωの中で状況を把握しようとするチャチ。その三人とは明らかに様子が違った。なにより、髪と瞳を残して真っ黒だった。
「イソラ、テム、チャチ」ケン・セイは鋭く彼らを呼んだ。「キノセを」
キノセから離れていくケン・セイ。向かうのは黒いイソラの方だ。
彼と交代で駆け寄ってきた三人。テムがキノセを支えるように寄り添ってきて、疑問を口にしようとしたが、指揮者の様子を見て口を閉ざした。
「イソラがどうしてここに?」イソラが師と共生した半身に目を向けて訝しむ。「……もしかしてイソラが助けてくれたの? でも、あの姿は……!」
チャチがオルガの中から零す。「とても大きなエネルギー反応です……」
「ああ、だろうな」テムもキノセから対峙する二人に目を向けてた。「俺も実物ははじめて見るけど、半神の力だ」
そうだ。と、キノセは思った。『碧き舞い花』には記されていないが、あの姿は、セラが仲間内にだけ語ったガフドロの変容そのものだった。ただその目は虚ろで、殺気を見境なく振り撒いていた。見るからに制御できていない。