149:危機的状況
シァンの意識はまだある。
荒療治になるが、痛みで元に戻るかもしれない。
「よし、ってことはだ、シァン。このままいくぞ」ズィードは頼りがいのある声で宣言すると、風に自分を押させながらシァンに詰め寄った。「ちゃんと起きろよ!」
「グルァウ!」
大きく腕を振り上げたシァンの懐に潜り込み、ズィードは鋭い蹴りを見舞った。紅いヴェールが迸る中、腕を振ってスヴァニをシァンの背後に回し投げた。その直後にはズィードはシァンの背中に両足を乗せていた。脚に力を込めて伸ばすと、シァンを鏡のような岩肌に叩きつけた。
「グガッ……」
「あ、気絶でもいいぞ! 自分で戻ってこれなくても、俺たちが必ず連れ戻してやるからな!」
言いながらハヤブサに空気を集め、それを伏した竜人に放った。
「爆風斬!」
『斬』と銘打つには大雑把な空気の塊が、滝のようにシァンに降り注いだ。反動でズィードの身体は大きく上空に昇る。
「グ……ガガ、グァア!」
シァンは抗い立ち上がると、空気をかき消した。そのまま跳躍すると、ズィードの腹に爪を突き刺した。
「イデっ……!」
爪が肉に食い込んだままシァンは手を閉じはじめた。
「イデデデデっ! いってーよっ!!」
ズィードは柄の尻でシァンの頭を殴った。彼女の額には血が滲んだが、それでも離れない。ついにはズィードの肩に噛みついた。
「うぐっ……ぐぁああ゛あぁ…………」
理性的にか、野性的にか、その噛みつきは剣を握っていた側の肩をしっかりと仕留めた。力が抜けたズィードの手からスヴァニが零れ落ちる。
ズィードはよしと思った。思ったままに、垂直に下降するスヴァニの元へ跳んだ。空気を操りながら体勢を変え、上方のシァンに目を向ける。言うことのきく残った一本の腕で、スヴァニを差し向ける。そんな中、視界の端に自分とは別に落ちていくものが目に入った。
鱗。
自分が攻撃したことで剥がれたものだと、一瞬思った。
だが違うのだと、彼は気づく。
量が明らかに、多かった。
彼が散らした紅の光より、多かった。
曇っていなければ、太陽に照らされてもっとはっきりと煌びやかに見えただろう。
まずい。急がないと。
彼のその考えはポンッという軽やかな音と共に、消し飛んだ。
ズィードは背中を打ち付けた。その衝撃でも、岩床にはヒビ一つ入っていないようだ。
不意にスヴァニを握る手に、生暖かいものが触れた。それがシァンの血だと気付くのに時間はいらなかった。彼女が彼に重なっているのだから。
シァンは空中からもの凄い速さで、ズィードに向かってきた。それは攻撃にも見て取れたが、違った。
違った。
シァンは無防備にその心臓をさらけ出し、ハヤブサに貫かせたのだ。
「なに、やって――」
「イタ、イヨ……」ズィードを遮ったがさついた声。「ズィー、ド……」
「そりゃ、だって……」
その声は言葉尻に向けて、シァン本来のものへと戻っていった。そしてそこからはシァンの言葉だった。
「……ごめんね、ズィード、ごめん。ゲフッ」
口から吐き出された鮮血が、ズィードの頬にへばりつく。
「みんなにも、謝り、たいけ、ど……だめ…………み、たい……だか、らお願い、ズィ」
「……ぉぃ、シァン? なぁ、シァン。ちょ、おい、そこまでする必要ねえぇだろぉ、おい! なんとか言えって………………シァン」
その呼びかけに答える声はない。ズィードの身体の上で、竜の身体が縮んでいく。わずかに鱗を残しながらも、シァンの身体は元に戻ったのだ。
シァンはシァンとして、自分で命を――。
次第に感じ取れなくなっていくシァンの気配。
「こんな……終わり…………」ズィードは顔中を力んで、嗚咽した。「なにが、俺に任せろだっ……‥…!」
紅や黄色の花が湯気立つ川を流れていく。『湯気に覆われし泉』の止血の泉から続く河原。今ここには、白い湯気以外のものもユフォンの周囲に漂ていた。
「この場は俺に任せ、逃げるんだ二人とも!」
背筋の伸びた筋骨隆々。牙のようで角のようにピンと逆立つ髭。
濁った煙を辺りに散らし、若い肉体を戻したヅォイァが、ユフォンとモァルズに叫んだ。せっかく皺の無くなった顔に深い溝を刻み込んで。
危機的状況。
『血の羅針盤』がノア以外の反応を見せた先にセラはいなかった。
しかし反応しているのだから、セラ、もといノアの血縁者がそこにはいた。誰、などという疑問は露ほども浮かばない。
ユフォンたち三人の前には、ヅォイァが発生させた濁った煙がかわいく見えるほどの禍々しさを持った黒き靄を従わせる見目麗しい男が佇んでいた。気だるげで、おぼろげな印象を受けるが、その迫力はユフォンの肌をピリピリと刺激する。
黒の靄に映える真っ白な髪と青い瞳。
名を聞くまでもなく、それがヴェィル・レイ=インフィ・ガゾンだということがわかった。
セラの面影が重なる。