145:ナパスの化身
彼方の稜線たちは、静かにその場を去るようにそろっと薄らぎを取り戻していく。今起きていることに対して見ないふりをするように。
身体の至る所を血に汚すルファは、拳を強く握って青筋を見せる。何度も、何度も、何度も。
「……バケモノめ」
そう弱々しく見上げてきたルファの顔は、どこか嬉しそうにエァンダには見えた。
静かに言うエァンダ。「ナパスのためならバケモノでも、死神でも悪魔でも、なんだってなってやるさ」
「ははっ、誇らしいぜ。お前は俺の最高傑作だ、エァンダ。こんなことにならなきゃ、もっと、色々教えてやれたんだろうな。俺がもっと落ち着いて教えてやれれば、フェースと一緒に史上最強の影になってたんだろうな……」
「最期だからってそんなしんみりしたのはいらない。あんたに対して慈悲はないから」
「酷い弟子だ」
「俺の師だったルファさんはとっくの昔に死んだよ」
「蜃気楼も『 』も教えてやったのに」
「? なんだって? 今なんて言った」
それはルファが音を消したのではなく、確かに発したものだった。それなのに、今の言葉にはエァンダにはまったく理解できない言語が含まれていた。
「そうだな俺たちの言葉なら『時空間の記憶』……ナパードみたいに一つの術として短く言うなら……『記録する者』、いやこれだとその人を現してるから違うか。俺はピャストロンの家系じゃないから詳しくねえが……ナパスがナパードだから、この場合は記録術ってところか」
「なにを言ってるんだ」
「自分の終わりならわかってんだ。……よぉ、どうせ殺すならその前に情報を引き出すべきだと思わねえか。俺もナパスの端くれで影の一員でもあるんだ……あとよ、元師匠として、強くなったお前にご褒美だ」
「だから――」
「黙って聞け!」
ルファの叫びがエァンダの背筋を悪寒となって走る。あとはその命を奪うだけだという、この状況でも気圧されるたことにエァンダも驚くばかりだった。
押し黙ったエァンダにルファが続ける。
「他の数多の技術は、お前なら異空を渡ってりゃ身に着けられんだろう。お前を見てきた師として保証する。だがヴィクードは、仮に、いやきっと覚える機会が来るだろうが……俺がそうしたかったが、覚える前にお前は殺されるだろうな。さすがにこればっかりは師としても、お前に偏った見方はできねえ。だから今俺が教える。そうすりゃ、あいつらと剣を交える日が来ても、お前は対処できるはずだ。いいか、エァンダ。鍵束を叩いてみろ。お前が反始点にしたのはそこだろ。反始点を作っただけじゃ完成じゃねえ、ほら、使ってみろヴィクード」
「……」
エァンダの頭にはいろいろなことが渦巻いていた。ルファが語る技術やその技術を使うと思われる存在。そしてなにより、ルファはエァンダが時が戻ることを打ち破るためにやったことを知っていた。それなのに自分で新しく、彼の言う反始点というものを作らなかった。わざと今の状況にしたのだ。
いや、とエァンダは自身の考えを否定する。作らなかったのではなく、作れなかったのだと考えるのが妥当だろう。ルファにはその力が残されていなかったというだけのことだろう。
なかなか動こうとしないエァンダに、ルファが自嘲気味に笑って言う。
「安心しろ、お前が相当なバケモノじゃなきゃ、戻っても俺の疲労は残る。そもそもヴィクードは実際に時軸を遡ってはいない。任意の動作を反始点にしたその時空間と自身の状態を記録し、反始点を合図に、その動作を体感していた者も含めてその記録を再現してるに過ぎない。もちろん使用者の力量で色んな差が出てくる。反始点が効果を持ち続ける時間、効力を及ぼす範囲や人数、それからやろうと思えば自分以外の状態も反始点の記録にある状態に戻せんだぜ。あとは、お前がものにしながら確認しろ。おお、ちんたらしてねえで、やってみろよ」
「……ああ」
エァンダは言われたまま、自身の腰、鍵束を叩いた。
じゃらん――。
その音と共に、エァンダは移動していた。離れた場所には朗らかに笑うルファがいた。
「っは、上出来だ」
「……俺を殺すんじゃなかったのかよ」
「誰が大事な弟子を殺すかよ、チビ公。ずっと言ってただろ。ほんとはよ、一緒に旅したかったんだぜ? だがお前は重要な場面で二度も断ったからな、やり方を変えた。だがそれでも、俺の存在がお前を強くすることに変わりはねえ。そうだ、エァンダお前、ナパスの影だけど影名ないんだろ。俺がつけてやるよ、これも師匠からの贈り物だ」
「そんなのはいい。あんたの言うあいつらのことを教えてもらった方が有益だ。話さないっていうなら、終わりだ」
エァンダはゆっくりとルファに向かっていく。
「しょうがねえな。俺もヴィクードの技術を盗むのがやっとで、ほとんどなにも知らねえってのに」
「そっか、じゃあここまでだな、ルファ」
「最後の最後に師匠としての愛を見せてやったってのに、揺るがねえな全く」
「フェースの親を殺してなかったら、見逃してたかもな」
「嘘つけ、思念が揺れすぎだ。……っは、ナパスのため、か。そうだ、いい影名を思いついた」
「……」
ルファの言葉にエァンダは僅かに目を細めた。
その細められたエメラルドには大地に爪の剣を突き立て、諸手を広げるルファの姿が映った。
「さあ、ナパスの敵を殺せ! 『ナパスの化身』エァンダ・フィリィ・イクスィア!」
エァンダは唇を噛んで、タェシェを構えて、ルファに突進した。
「ふんっ、ぐふぅ……」
ルファの懐に身を埋めるエァンダに、熱い吐息が吹きかかる。二人の身体は大地に向かって倒れていく。その最中、ルファが告げる。
「ブァルシュ……赤橙のナパードをするジジイを、んがっふ、覚えているか? あいつは、生きてる。あと、ゼィロスに伝えておけ、弟弟子からの警告だ。歴史の研究はほどほどに、しろ、メィズァ先生の二の前に……なるぞってな……っぐぁ」
どさっと音を立てて、二人は地面に到達した。
「…………はぁー…………結局、最後にお前への言葉が出ねえなんてよぉ…‥師匠、失格だったな、俺は」
命が消えた。エァンダの下で、ナパスの命が一つ終わった。
立ち上がって、遺体からタェシェを引き抜き、血を払い飛ばす。すぐには鞘に納めずに、エァンダは佇んだ。
じゃらん――。
鍵束を、叩いた。
彼は一人、場所を変えた。
じゃらん――。
その場でまた、鍵束が鳴いた。
じゃらん――。
じゃらん――……。
じゃらん――…………。
鍵束はそのあとも何度か、鳴いた。