101:浮遊人
「大丈夫、ですか?」
その呼び声に、くすんだ緑色の隻眼が露わになる。
地に伏していた。
開けたはいいがぼんやりとする視界。
ヌロゥ・ォキャは声の主を探すより先に、自身の状況を整理しはじめた。
『来光の師範代』との戦いで、『髑髏博士』に渡された試供品を使った。そこから記憶は飛び、現状。
人知の及ばない領域。
未だ謎の多い、異空。
その空気を纏った。
「あの、動けますか?」
また呼びかけられたところで、ヌロゥは無言で立ち上がる。身体は五体満足。痛みもない。
辺りを見回せば、霞の世界ではないことは歴然だった。風化した遺跡。儀式でもやるのか、遠くに祭壇がある。そしてそこには、光の球体が巨大な受け皿の上に浮かんでいた。
ヌロゥはちらりと空を一瞥する。黒にも白にも見えた。
漂流地。
どうやら異空の空気によって、世界から投げ出されたらしいと判断するヌロゥ。そんな彼に、おずおずとさっきからの声が尋ねる。
「あの、平気ですか? お怪我は、ありませんか?」
ようやくヌロゥは声の主に目を向ける。
真っ青な目の青年だった。
適当な世界を経由してから、故郷の世界に帰った。
警戒して一度の移動で戻らなかったが、ユフォン・ホイコントロを筆頭にした連盟の面々が追ってくる気配はない。
浮石の上に乗っかる板橋を鳴らしながら、家を目指す。
「あ、アレスだ!」
「帰ってきた!」
途中、浮家が密集する集落の前を通ると、雲の池で遊んでいた子どもたちがきゃっきゃ、きゃっきゃと、橋を揺らしながら駆け寄ってきた。
「悪者退治できた?」
「う~ん、今回は失敗。邪魔が入っちゃってさ」
「えー」
「残念……」
「新しいお話が聞けると思ったのにぃ……」
「まあ、また次があるさ。次はちゃんと倒してきて、そしたらまた、お前たちに面白い話をしてやるよ」
口元からバンダナをとり、子どもたちに笑顔を向ける。
「あ、そうだ、アレス」と一人の女の子が、彼女のズボンを引っ張った。
「ん、メラル、なんだ?」
「さっきね、ほんとアレスが帰ってくるちょっと前ね、アレスと同じような恰好の女の人がいきなり現れたの」
「え? おれと似た格好の? 『碧き舞い花』?」
「ああ、そうそう」男の子が楽しそうに続く。「雲の池がもわ~ってなって、そのあとぷか~って浮かんできたからみんなで助けたんだ! すごいでしょ!」
「あ、ああ、すごいじゃないか、デン」アレスは男の子に笑顔で言うと、急くままにメラルに聞く。「それで、その女の人はどこにいるんだ?」
「わたしの家で休んでもらってるよ」
「よし、行ってくる」
「もしかして悪者っ?」
アレスが子どもたちを置いて歩みを速めると、デンが走ってついてくる。
「そうかもしれないから、みんなと一緒にいてやってくれデン。みんなを護るのは兄貴の役目だぞ」
「おお、そっか。よし、任せとけ!」
デンは嬉しそうにしながら、橋を引き返していった。それを優しい笑みで見届けてから、アレスはバンダナで口元を隠し、メラルの家を目指した。
メラルの家は集落から少し離れた大きな浮石の上にある。メラルの父チャータは町医者をやっていて、患者の処置をするには揺れの少ない安定した場所が適しているためこの場所となった。
板張りの橋が幅を広げ、ついに大きな浮石の上の板に差し掛かるとぐっと安定感が増す。
集落から離れている点では同じだが、細かい浮石たちに支えられる自分の家とその周辺とは、全く別世界かといつ来ても思う。
診療所の入り口を潜り、中にいたチャータに現れた女の居場所を聞く。案内しようとする彼に、もしかしたら危ない人間かもしれないと告げ、寝ているという部屋を教えてもらい一人で向かう。
そうして入った部屋にはベッドが一つだけあり、その上に件の女と思われる人物が眠っていた。
その顔を見るや否や、アレスは目を瞠った。
アレスのサファイアの瞳には、ついさっき『案山子の牧場』で偽物と決めつけてしまい、襲い掛かってしまった尊敬の的であるセラの顔が映った。
こんな偶然があるのかと、アレスは昂揚する。
アレスより先に『案山子の牧場』を離れたセラ。そして自分が帰る少し前に現れたという彼女。
いやそれだけでは足りないかと、少し冷静になって、アレスはベッドに背を向け、脇の棚の上に置かれた女の持ち物を確認する。
まずはじめに自身が持つものより完璧な意匠が施されたフォルセスとウェィラの鞘が目に入る。それから『記憶の羅針盤』、真っ青な没頭の護り石のペンダント、行商人のバッグ、薬カバン、上着、ブーツ、袈裟懸けしている布。全てが小説や写真にあったものだ。
素材がわからず見た目だけの真似しかできなかった。
袈裟懸けしているものと腰と腿に巻いている布に関しては、なぜそれだけで剣や薬カバン、それから行商人のバッグを止められるのか理解が及ばず作ることすらできなった。
「へぇ、すごいな。引っ付くのか。んで、こうすると外れる……フックみたいな生地なのか? わかっても真似できそうにないねぇ……」
アレスは布にウェィラをくっつけたり離したりしながら、独り言ちる。そして布からウェィラを離したところでその手を止める。
視線を自身の腰に向ける。
ぽっかりと穴を空けた鞘がある。そこに収まるはずの短剣はセラが持って消えた。当のセラの腰の鞘にはウェィラがなかった。つまりとアレスは手に持ったウェィラを見つめる。ここに跳んできた時、セラ自身か子どもたち、もしくはチャータが空いていた鞘にアレスの短剣を収めたということだ。
これを抜けばなによりの証拠になるだろう。
ウェィラには『鋼鉄の森』のクラフォフの意匠があるが、アレスの短剣にはそれがない。
アレスが柄に手をかける。
「……あの」
「!」
後ろからのか細い呼びかけに、アレスは驚いて一気に短剣を抜いた。それを一瞬だけ見て、鞘に納めると、振り返りセラを見る。
「なんです、セラ様っ」
「ここは、どこですか? それに、その、わたしは……セラという名前、なんですか?」
「え?」