第八話 嵐の夜
城の外へのピクニックからさらに二週間の月日が流れた。
俺とクラリスは相変わらず、本を読んだり、工作をしたり、ぼーっとしたり、隙を見てイチャコラしたりといった毎日を送っていた。
クラリスと仲良くなってからと言うもの、言語の理解が飛躍的に早くなったような気がする。
既に会話は全く問題ないレベルになり、読み書きの方も、城の難しい本を理解でき、簡単な手紙程度は書けるようになっていた。
これというのも、クラリスが出す問題に正確に答えられたら一キス、一〇問連続正解で濃厚なやつが頂けるという素晴らしい勉強方法を編み出したからだと確信する。
言葉の勉強をしながらちゅっちゅを繰り返すその様子は、傍から見ると完全にバカップルのそれであった。
季節は初夏
窓の外にあった鳥の巣の中では、ひな鳥達が大きく育ち、巣立ちの日を待つばかりとなっていた。
あの日からカサンドラはあまり顔を見せなくなった。
たまに夕方頃にクラリスの部屋に一〇分ほど立ち寄る程度で、色々と忙しいらしい。
「ひな鳥は大きくなりましたか?」
「うん、この調子ならあと数日もすれば巣立っていくんじゃないかな」
俺はクラリスに頼まれて窓の外に作られた鳥の巣を観察した。
巣の中では既に立派な羽になったひな鳥達が、時折羽をばたつかせながらウォーミングアップしている。
「早く飛んでいきなさい……早く」
クラリスはそう呟きながら何かを祈っているようだ。
ひな鳥のお母さんになった気分なのだろうか。
午後を回ると雲行きが怪しくなってきた。
窓の外を見ると、黒い雲が遠くに見える。
「これは一雨来るかもしれないな」
「嵐が来るのですか?」
俺のつぶやきに、クラリスは不安そうな声を上げる。
「嵐になるかどうかは分からないけど、南に黒い雲が広がってるからね」
「そんな……」
そう言いながらクラリスは真っ青な顔をしている。
鳥の巣は土で固定されているから風くらいじゃ飛ばされないよと伝えたが、クラリスの不安な顔は晴れなかった。
その日は夕刻から激しい嵐となった。
こちらの世界に来てから初めて遭遇する強い風雨、時折、雷が鳴っているのが分かる。
電気がないこの世界では、天候がすぐれないとすぐに周りが暗くなってしまう。
その為俺は少し早かったが自室に戻り、ベッドに横になっていた。
部屋に一本、ロウソクはあるのだが、マッチなどといったものは無いので、俺は火の付け方が分からない。
本も読むことができないので、何もすることがないから、こうなってしまっては寝るしか無いのだ。
とはいえ今は恐らく午後八時辺り、寝るには少しばかり早い。
俺は寝る前にトイレに行っておこうと思い部屋を出た。
ここロシュフォーンでのトイレは、基本的には共同トイレだ。
男用と女用に別れており、大は四角い石に丸く繰り抜いた穴が付いているだけの便器に座り用をたす。
小用便器は、溝が掘ってある部分がありその中には砂利が敷き詰められている、そこに向けて用をたす。
どちらも相手の見えてはいけない部分が隠れる程度の仕切りが設置されているのみで、他に人がいた場合、顔などは丸見えだ。
女用トイレは大便器のみ設置されているらしい、これはカサンドラに聞いたのだが、これを聞く際には変態を見るような目で見られたのを覚えている。
トイレの作りは、王宮も下町も大して変わりないらしい。
王宮は専用の掃除夫がいる為、下町の半ば放置してあるものよりも見た目がマシと言う程度のようだ。
排出された汚物は専用の下水道を通り、郊外へ抜けていく、郊外では汚物貯め専用の区画があり
農夫たちがそこからめいめいに糞尿を運び、肥料とするらしい。
この糞尿リサイクルシステムのおかげで、ロシュフォーン近郊の作物の収穫量はかなり高いようだ。
そしてこの仕組みを考案したのは今から五〇〇年前、ロシュフォーン王都を作ろうとした初代の王と設計に携わった一人の職人だというから驚きだ
都市の将来を見据え、拡張可能な下水網を初期の段階で作りこんだらしい、昔の人は偉大である。
そうでなければ今頃は、中世ヨーロッパのような糞尿を窓からぶちまける世の中になっていたかもしれないのだから……
そんな本で読んだトイレの歴史にロマンを感じつつ、俺は借りている部屋の近くにある男用トイレに向かった。
夜の王宮は薄暗く、とても不気味だ。
重要区画は兵士が見回りをしているが、自分がいる場所は使用人用の宿泊施設なので見回りの兵士もほとんどいない
俺はそそくさとトイレの中に入り、素早く用を足す。
外は嵐で、城壁を打つ風の音が城内にこだましており、一層不気味さを引き立てている。
有り体に言えば、なにか出そうな雰囲気だ。
小用を終えると俺は逃げるようにトイレを出て部屋に向かおうとするが、トイレを出たところで固まってしまう。
廊下の向かい側の壁に、何か白い布のようなものが張り付いていたからだ。
さっきはあんなものは無かったはず……
よく見ると白い布はふらふらと揺らぐように動いている、見方によっては西洋風のゴーストにも見える、あのオバQみたいなやつだ。
恐る恐る様子を見ていると、その白い布はこちらに近づきだした。
まじかよ、やばい、逃げないと……
逃げようとするが、恐怖で足がうまく動かない
腰が抜けたというやつなのだろうか、足が小刻みに痙攣してしまっている。
近くに誰か……
辺りを見回すが、トイレに来そうな人もいないし、警備兵らしき人影もない
どうなってるんだこの城、警備がずさんなんじゃないかと腹を立ててみるがどうにもならない。
そうこうしているうちに、白い布は数メートル手前まで迫っていた、ここまで近くなると、ぼんやりと人の形が浮かんで見える。
「ひ」
情けない悲鳴を上げて俺は少し後ずさった。
「……様」
その時、白い人影から微かに声が聴こえる、あれ、この声は……
「……様。ノア様」
「く、クラリスか!?」
「ノア様!」
白い布の正体はクラリスだった。
クラリスは俺が声をかけると、一目散に胸に飛び込んできた。
突然のことで、受け損なってそのまま一緒に後ろに倒れこんでしまうが、クラリスはお構いなしに俺にしがみついていた。
「何でこんな時間に……」
震える肩をさすりながらクラリスに目を向ける
白地のワンピースのような服は、ところどころ汚れていて、ここに来るまでにあちこちにぶつかったのだろうという事が予想できた。
いくら城の中とはいえ、クラリスの部屋からここまではそれなりに距離もある上
クラリスは俺の部屋の位置を知らないはずだったからだ。
「と、とにかく部屋に戻ろう」
「嫌です、ノア様……どうかお側に、どうか……」
クラリスはとても怯えているようだった。
確かに外はひどい嵐で、雷も連続して落ちている。
女の子一人だけでは心細いのは当然だろう。
「分かった、俺の部屋に行こう」
俺は近くに誰も居ないことを確認し、クラリスを自分の部屋に入れる。
俺の使っている部屋は元が使用人用の仮眠室なので、狭い上に何もない。
しかたがないのでクラリスをベッドに座らせ、俺はその隣に座った。
そのまま彼女の肩を抱き、落ち着くまでじっと待つ。
「ノア様、ありがとうございました」
しばらくしてようやく落ち着いたのか、クラリスはそう言いって俺の胸に頭を寄せた。
肩の震えはもう止まっている。
「嵐が怖かったのか?」
「……それもありますが、その、小鳥の声が聞こえなくなってしまって、それで怖くなって
気がついたら部屋を飛び出して、ノア様を探しておりました」
巣が落ちたか? しかし普通はこういった天候の変化にも耐えられるように作られるはず。
「このくらいの嵐は初めてなのか?」
「……いえ、過去にも何度か……その時はカサンドラお姉さまが来てくださいました」
「そうか、今は何かと忙しいらしいからな」
「いえ、私ももう一四なのにこのような事でお手を煩わせる訳には……申し訳ございませんでしたノア様」
「俺はいいよ、これから寝るだけだったし……クラリスが怖がってることを気づけなくてごめんな」
「ノア様……」
クラリスは俺に体を委ねるようにしなだれかかっている。
外は相変わらずひどい嵐だ。
あれ、俺はこれからどうしたらいいんだ?
「ノア様、今日は……ここで寝かせて下さいませ」
クラリスをどうしようか考えていたところ、クラリスはここで寝たいと俺に懇願してくる。
しかしこのベッドは一人用でだいぶ狭い、無理やり二人で寝るとスーパー密着状態になってしまう
仕方ない、ここは俺が床に……
「ご一緒に、ノア様とご一緒に寝かせてください」
何という爆弾発言、それはまずいよクラリス君、ぼくが我慢できなくなったらどうするんだい
ぼくはこう見えてもヤリたい盛りをエロゲで過ごし、三二歳で童貞のキングオブチェリーだ、いわば触るもの皆傷つける危険なナイフ、それはまずい。
「大丈夫です、私はノア様のことを信じておりますので……」
そんなに簡単に男を信用しちゃあいけないよおおおおお、男は皆狼なんだよおおおおああああああああああ
それきりクラリスは黙ってしまったので、俺はできるだけ事務的にクラリスをベッドに寝かせ、毛布をかけ
自分はベッドの端ギリギリに陣取ってクラリスとは反対側を向いて寝ることにした。
こんないい娘に信用されちゃ仕方ない、ここは我慢するしかない。
お休みのキスくらいはしたかったが、恐らくそれをするともはや理性の決壊を止められなくなることは明白であるので我慢した。
途中、クラリスが俺の背中に抱きついて来たので、理性の最終防衛ラインが抜かれそうになったが
俺はすかさずオペレーション・メリーを開始し、事なきを得たのであった。
そんな果てしなき煩悩と戦っていた俺も、頭のなかでジャンプしている羊がいつのまにかカサンドラに変わった辺りで深い眠りに落ちていった。
――
目が覚めると、目の前にクラリスの顔がある。
「おはようございます、ノア様」
クラリスは優しく微笑んで、俺の頭を撫でた。
気持ちがいい……あれ、何でクラリスがここにいるんだ?
まだはっきりしない頭で状況を考える、そうだ、昨日の夜はクラリスが部屋に来たんだった。
「クラリス、昨日は良く眠れたか?」
「はい、ノア様のおかげでとても安らかに」
クラリスに疲れた様子はない、良かった
服を見ると所々汚れて擦り切れている、目の見えない中、這うように急いで移動してきたのだろう
「もうあんな無茶はするなよ、城の中とはいえ危ないものが置いてある事だってあるんだから」
「はい……申し訳ございませんでした」
「よし、部屋に戻ろう」
あまりここに長居して、誰かに見られるとまずい。
別に何もしていないのだが、クラリスは仮にも王族なのでそうは思わない人間だっているだろうしな。
部屋の外に出ると辺りはうっすらと明るくなっている。
相変わらず廊下には人気がないのでそのまま素早くクラリスの部屋に向かう
こういう時に人がいないのは助かるが、大丈夫なのかこの城……
クラリスの部屋に戻ると、クラリスはすぐに窓の外を気にしだした。
「ノア様、小鳥の様子は……」
クラリスに促され、窓の外を見てみる、そこに昨日まであった鳥の巣は無かった。
「……巣がない」
「そんな!」
クラリスはへなへなとその場に座り込んでしまう。
たかが鳥の巣とはいえ、この数週間ずっと楽しみに見守ってきたものだ、クラリスにとっては大切なものである事は違いない。
「落ちたのかもしれない、下を探してくる!」
俺はすぐに下の階に降り、ピクニックに出た時の使用人用の出入り口を通って外に出る。
本当ならば許可がいるのだろうが、今はそんな事を気にしている場合ではない。
城の壁をたどりながらクラリスのいる部屋を探す……あった。
クラリスの部屋は城の南東の角付近の三階だ、俺はすぐにクラリスの部屋の下を捜索する。
探していたものはすぐに見つかった。
一〇センチほどに生い茂っている芝生の上に落ちている見慣れた鳥の巣と、その付近にずぶ濡れになって横たわっている雛が三匹
ピクリとも動かず、死んでいることは容易に分かった。
「あそこから……」
巣が落ちたであろう箇所を確認する。
城壁からだいぶ離れている、風で強く弾き飛ばされたのだろうか、確かに昨日の嵐は酷かったからな。
どうしたものか、しばらく考えこんだが、これを城内に持ち込むのはためらわれる。
仕方がないのでクラリスの部屋の真下に木の枝で小さく穴を掘り、鳥の雛を埋葬した。
巣を土の中に埋め、その上に枝を刺し、即席の墓標を作る。
誰かに見つかれば片付けられてしまうのだろうが、この場所は庭師くらいしか通らないようだし、しばらくは大丈夫だろう。
調理用の水を汲む井戸で手を洗い、俺ははクラリスの部屋へ戻った。
空は相変わらず厚い雲に覆われており、朝だというのに辺りは薄暗かった。
「……そう……ですか」
部屋に戻り、巣が落ちていたことと、小鳥を埋葬したことをクラリスに伝えると、彼女は顔を真っ青にしてうなだれた。
そのままふらふらと窓辺に歩いて行くので急いで引き止める。
「大丈夫です、少しだけ外を……」
俺はクラリスを支えながら窓辺に向かう。
「……ごめんなさい……ごめんなさい、私のせいで……」
クラリスは窓の外に顔を向けたまま、そんな事を口走っている。
助けられなかった自分を責めているのだろうか。
「クラリスのせいじゃない、たまたま巣が耐えられない程の嵐が来た、それだけだよ」
巣を部屋に入れたとしても、巣を見失った親鳥が雛を放棄してしまうかもしれない
結局、自然のものは自然に任せる以外にないのだ。
「……違うのです」
「違う?」
クラリスは力なく首を振りながら、それ以上は何も言わず、悲しそうに空を眺めていた。
――
その日も夕方から激しい嵐になった。
雨風が城の壁を打ち、雷鳴が鳴り響く。
「昨日より酷いんじゃないかこれ」
昨晩のことや今朝の事もあり、俺はクラリスの部屋に残ることにした。
自分の部屋から毛布だけは持ってきたので、クラリスのベッドの脇で寝ていればよいだろう。
男が王女の部屋で寝泊まりする事に関しては……今更だ、どうせ誰も来ないし、誰か来たら文句を言ってやろう
ずっとクラリスを放っておいて何を言っていやがるんだと。
クラリスは目に見えて元気がない、昨日、今日と心労が重なったからだろう
今日は悶々とする間もなく早めに寝かせよう、今日の俺はナイトだ、クラリスを守る騎士になるんだ。
「クラリス、今日はもう休もう」
恐らく昨日と同じく時間にして八時を回ったくらいだろう、時計など無いので正確な時間は分からないが
食事を下げたメイドが去ってからだいぶ経過している。
「……ノア様、私のお話を聞いていただけるでしょうか」
ふとクラリスを見ると、見えないはずの目を開き、じっとこちらを見ている
一ヶ月程度一緒にいるから分かる、これは大切な話だ。
「いいよ」
「ありがとうございます、それではこちらに……」
クラリスに促されベッドの上に座る、クラリスは俺の目の前に来て正座した。
正座は俺が教えた座り方だが、クラリスとカサンドラは非常に気に入っていた
この城は石で出来ているため、床に正座する事は難しい、それをする際は自然とベッドの上などになってしまうのだ。
俺も慌てて正座し直す、なんだかこれから叱られる子供のような気分だ。
「ノア様が私のところに来られてから一ヶ月程……以前にもお伝えしましたが
この一ヶ月は私にとってとても楽しくて、本当に夢の様な時間でした。
ノア様はもう少しすれば、ここを出ていってしまわれます。
それは本来あるべき事でありますので、私にお止めする権利などありません。
私は……恐らくもう、この城から出ることは叶わないと思います。
このような身ですので嫁ぎ先も無いでしょうし、何より……」
そこで一旦言葉を切る、どう伝えたら良いものかという思案の表情が伺える。
「私は……私は、貴方様のことをお慕い申し上げております
ノア様にとってはこのような女は重荷だと重々承知しております、ですが、私には分かるのです
ノア様は私を救ってくださる方なのだと、出会ったその時より、私にはそれが分かるのです」
……大事な話があると思って聞いていたら告白されていたでござる
何を言っているのかわからねーと思うが……いやこの流れなら普通にありえるな、相手が俺じゃなければな!
「クラリス……俺はもうすぐいなくなるんだぞ、お前を好きでいたって、もう何もしてやれなくなるんだ」
「存じております」
「俺は三二歳だ、オヤジだぞ、それにチビだしブサイクだ、女にモテた事なんて一度もない」
「お年は存じております、その他は問題にもなりません」
「本気で言っているのか?」
「はい、偽りのない本心でございます
本当であれば、もっと時間をかけて……ノア様の事を知り尽くしたかった、ですがもう、時間が無いのです」
気が付くとクラリスの光が通わない目からは大粒の涙がこぼれていた。
「ずっとお側にとも申しません、お子が欲しいとも申しません、ただ……
ただこれから先にある、長い闇の中を耐えられる温もりを、どうか……どうか……」
クラリスの話を聞きながら俺は、常識とか、責任とか、覚悟とか、そういった取り留めのない事を考えていた。
あんなに欲しがっていたものなのに、いざ目の前に置かれるとそこから逃げるための言い訳を探し出そうとしてしまう、そう、俺はどうしようもない臆病者なのだ
この時ほどその事実を実感させられた事は無かった。
目の前の少女が、文句のつけようがない美少女が、この先二度と現れないであろう女が抱いてくれと言っているのに、俺の体は動かない。
そんな馬鹿なと思うだろう、あるのだこれが。
人並み以上に何かを欲するくせに、人並み以上を羨むくせに、いざ手元に来るとそれを手にする覚悟がない、俺はそういう人間なのだ。
俺は何も言えずに、そのまま時間だけが過ぎていく……
「……分かっております」
クラリスはするりとワンピース型の服を脱いでいく、そのまま俺の側に移動し、俺の頭をその胸に抱きしめる
「その……弱さも、そしてその強さも、私は分かっております、分かるのですよ」
クラリスの控えめな胸が鼻の先に当たる、やわらかくて気持ちいい、なんだか落ち着く。
「どうかご自分を隠さずに、そして私のことも、ほんの少しで結構ですので、理解してくださいませ
体は離れてしまっても、心は永遠に、永遠に貴方様と共にありたいのです」
気が付けば俺も涙を流していた。
何故かなんて分からない、悲しい訳じゃない、ただ、そう、ただ安心したのだ。
俺は顔を上げると、涙を流しながら微笑むクラリスと長い長い口吻を交わし、そして……一つになった。
情事が終わり、クラリスは俺の隣に横たわっている。
焦点の合わない、しかし美しい目でこちらを見ている。
「ノア様……お情けを、ありがとうございました、これで私は、これからも生きて行けます」
「クラリスは、大丈夫だったのかその……初めてで」
「はい、ノア様の優しさで包まれておりましたので、この上ない幸せの中におりました」
気を利かせて無理をしている……というわけではないだろう、クラリスはとても穏やかで、満ち足りた表情をしているのだから。
「これから、いつまで一緒にいられるか分からないけど、明日からもよろしくな」
「……はい」
クラリスが俺の顔に手を添える
「これが、ノア様のお顔なのですね……忘れません、ずっと」
「顔なんていつでも触れるさ」
「そうですね」
外の嵐は少し弱くなってきたようだ、明日は晴れるといいな。
そんな事を考えていると、だんだん眠くなってきた。
「クラリス、今日はもう寝ようか」
「……ノア様」
クラリスはいつも通り慈愛に満ちた、でも少し悲しそうな顔をして話しだした
「ノア様は、これからとても大変な道を歩まなければなりません……ですが決して諦めないで下さい
何が起きたとしても、決して希望を捨てずに、前に進んで下さい」
帰った後のことを言っているのだろうか、しかしなぜ今そんな事を。
「自分のお心を信じて、愛するものに手を差し伸べてあげて下さい」
クラリスは続けているが、俺はどんどん眠くなっていく
もう少し人生初のピロートークを楽しみたいのに。
「そしていつの日か……私を、そして貴方様の小さな婚約者の方を、救ってあげて下さいませ」
婚約者……そうだ、ユミナには悪いことをしてしまったな、完全に浮気じゃないか
謝って……許してくれるかな。
「私はいつでも、貴方様と共にあります、どうか……いつの日か……」
ついに眠気が限界に達し、俺はそのまま深い眠りに落ちた
明日は何をしようか。
元の世界に帰ることになるその日まで、クラリスとたくさん思い出を作ろう。