第一話 知らない天井
首が痛い、頭がガンガンする。
一〇分休むつもりで居眠りをしたら数時間爆睡していた、そんな経験はいくらでもある。
今回のこれも間違いなく数時間コースだ、目を開けたら外は真っ暗に違いない、また休日を無駄に過ごしてしまった……
毎度のことにうんざりしながら、重くなったまぶたを強引に開いていく、思った通り薄暗い。
「くそ、またやっちまった、夕方くらいか?」
苛立ちをごまかすようにつぶやき、体を起こそうとする。
居眠りから覚めた直後なので体が思うように動かない、気を抜くともう一度寝てしまいそうになる。
ここで寝てしまったら次に目を覚ますのは真夜中になるだろう。
それだけは避けねばと、体を起こすために両腕に力を込める。
ワシャっという音とともに、手には紙くずを握りつぶした時のような感覚が残った。
なんだ? ごみ箱でもひっくり返しちまったか?
貴重な休日の最後に部屋の掃除など冗談じゃない、俺は顔を天井に向け、重くなっていたまぶたを強引に開いた。
……そこに見えたのは知らない天井だった。
目に飛び込んできたのはログハウスのような木と木を簡単に組んで作った天井
かなり雑な造りらしく、隙間だらけで所々から外の日の光のようなものが見えている。
当然、そんなものが見える場所で寝た記憶などない。
急いで周囲を確認する。
体の下には乾燥した草が積んである……藁のようだ。
周囲はこれまた雑に木の板を重ねただけの壁で覆われている、全体を見ると四帖程度の広さの掘っ立て小屋といった感じだ。
起き上がった前方には小屋の入り口があり、外の景色が見える、ずいぶん田舎臭い自然に満ちあふれた風景が見えた。
俺はしばらくそこに立ち尽くして呆然とする。
頭の中はこれ以上ないくらい混乱している、だって俺の家は三軒茶屋のごみごみとした住宅地の隅にある安アパートのはずだ。
間違っても遠くに山々がそびえてたり、見渡す限りの草原が広がっていたりするはずがない。
南アルプスの天然水
全く関係ないとは思うが、そんな単語が頭に浮かんだ。
『お父さん!また納屋の扉開けっ放し、もう!』
小屋の入り口に付近に立って呆然としている俺の耳に、誰かの声が聞こえてきた。
誰かがいる?小屋があるんだからそりゃ当たり前か・・・しかしその声の主は何と言っているのか全く聞き取れなかった。
『夕立が来たらわらが湿っちゃうじゃない!』
やはり何と言っているのか分からない声らしきものが聞こえ、目の前の入り口が閉まり始める。
横にスライドするタイプのドアが付いており、誰かが小屋の外から戸を閉めようとしているようだ。
「ち、ちょっとまって!」
俺は思わず叫んで小屋の外に飛び出た、と同時に、小屋の外にいた一四、五歳の少女と目が合う
栗色の髪が肩までかかった可愛らしい女の子だ、貫頭衣に少し飾りをつけたような服を着ている。
『え、だ、誰!?』
少女は俺を見ると一瞬固まった後、小さく悲鳴を上げて後ろに下がった。
『誰、この村の人じゃない!?』
何か話しているようだが、言葉がさっぱり分からない、方言とかそういうレベルじゃない、聞いたことのない言葉だ。
「ええと……ここはどこだ? 俺は家で寝ていたと思うんだけど、まだ夢の中か?」
たまに夢の中でこれは夢なのだと気づく瞬間がある、これもその類の現象だろうか……それにしてはやけにリアルだが。
『……き』
冷静に考えれば、相手が知らない言葉を話しているのだから、こちらの言葉が理解されるはずがない。
俺がその考えに至る前に、目の前の少女はひと際大きな悲鳴を上げた。
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いえのなかにいる
目の前で数人の男達が話をしている、一番年上っぽくてリーダーだと思われる四〇歳くらいの男を中心に三〇代くらいの男が四人
自分の両脇にはいい筋肉をしている浅黒い二〇代くらいの男が二人いる。
さらに遠巻きに、この家の住人と思われる女性達がこちらを見ている。
大人の女が一人と中高生程度の女の子が二人、そのうち一人は先ほど小屋の外で悲鳴を上げた女の子だ
相変わらず話している内容は分からないが、何のことについて話してるかは分かる。
俺はというと、縄で両腕を縛られ、いい筋肉をした男二人に見張られながら部屋の中央に座らされている。
三〇分くらい経過すると、男達が何かうなずき家の外に出て行った。
四〇代男性はこの家の家長だろうか。
四〇代男性が俺に近づき、何かを探るように全身を見回す。
『あなたはどこから来たのですか?』
何となく何かを聞いているような気がするが、内容が分からない。
分からない事を示すように、首を傾げた後、話しかけてくれた事だしとりあえず自己紹介をしてみる事にする。
「俺の名前は紫藤野明です、自分の家で寝ていたが気が付いたらここにいました、何が起きたのかは全く分かりません」
『オルハシェドゥーア?』
「違う違う、シドウノア、シドウ、 ノ ア !」
俺は縛られた腕で自分の顔を指し、ノア、ノアと繰り返した。
『ノア?』
俺が頷くと、どうやらそれが俺の名前だと判断してくれたらしい、恐らく家族であろう人々を指さして、名前のようなものを伝えてくる。
『ノトス、シクラ』
自分を差してノトス、後ろにいる大人の女性を差してシクラ
俺の両脇にいるいい筋肉を差して、オーベル、ザイン
シクラの隣にいる少女を差して、コトナ、ユミナ
自己紹介は一通り終わった、そしてこの事から、この家の序列と俺に対して敵意がないという事がおぼろげながら分かる。
まず家長のノトス、恐らくその妻のシクラ。
オーベルは恐らく長男なのだろう、ザインは次男か?
コトナとユミナは長女と次女という事だろう、この少子化のご時世にずいぶんと子沢山な事だ。
そして敵意を持った相手に家族を紹介することなどまずない、つまり、危害を加えるつもりはないという意思表示なのだろうと少しだけ安心する。
とはいえこのままふんぞり返っているとあらぬ誤解を受けるかもしれない。
「よろしく」
ダメ押しに俺は座ったまま頭を深く下げた。
それを見たノトスが何か指示を出すと、俺を縛っていた縄が外される、ある程度警戒は解けたという事だろうか。
まだ何も分からないが、とりあえずこのまま殺されるような事にはならなさそうだ。
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次の日から俺の近くにはコトナとユミナが付くようになった。
絵本を取り出したり、外を連れ回したりしながら簡単な言葉を俺に教えようとする。
さすがに三〇過ぎのオヤジの周りに少女だけでは心配なようで、オーベルとザインが交代でさりげなく近くに待機している。
七日間滞在にして分かった事は、この村はコリーン村というらしく、二〇軒ほどの民家で構成されている農村のようだ。
主な作物は麦、実際には何という作物なのか分からないが、俺が知っている麦にとてもよく似ているので麦と考えることにする。
食事として出されるものは、パンとスープ、パンは俺の知っているパンとはだいぶ違い、見た目は黒っぽいフランスパンのようだが、俺の知るフランスパンの三倍くらい固い
固くて分厚いパンを皆でちぎって塩味の薄い野菜が少しだけ入っているスープに付けて食べるというのが主な食事だ、しかも一日二回、朝と夕方だけである。
俺が初めに寝ていた小屋は、わら置き場のようだ、このわらを肥料にするために貯めておいているらしい。
馬や家畜の類は見当たらない。
村は全体的に見ると、歴史資料館なんかで見たことのある昭和初期の農村といった感じだ
電機機器や機械類のようなものは一切見当たらない、農具なども金属はほとんど使われておらず、重要な部分以外は木や石でできている
周りの状況はある程度理解できたが、何故自分がここにいるのかは全く分からないままだ。
自分の持ち物は寝ていた時に着ていた服、Tシャツとジーンズとベルト、あとは下着くらいのもので、スマホも何も持っていなかった
自分の身分を証明するものは何もない、もっとも、この状況で免許証などがあったところで役に立つとも思えないが。
俺のお付になっている二人の娘はやはりノトスの娘だった。
長女のコトナは今年で一五歳になる、しっかり者の姉といった感じで、ほぼ常に俺の側におり、村の人々に俺を紹介しながら言葉やモノの名前などを教えてくれる。
当然一度で覚えることなどできないが、時間が許す限り何度も何度も根気よく教えてくれる。
見た目も純朴な田舎の少女といった感じで可愛らしい。
次女のユミナは今年で一二歳、さすがに姉妹だけあって顔立ちはコトナと似ているが、こちらは常にあちこち飛び回っているような元気娘だ
俺がまだろくに言葉も話せない事などお構いなしにあれこれ話しかけて来ては、返答に困っている俺を見て一人で納得して笑っている。
そしてよく俺に抱きつく、ダッシュして飛びつき、待ち伏せして飛びつき、その度にコトナに怒られていた。
俺はと言うと、ユミナに飛びつかれる度にドキドキしてしまい、取り繕うのが大変だった。
――
村に来て一四日目、簡単な単語類なら覚えてきて、カタコトではあるが会話も通じるようになってきた。
ただしまだ聞き取りの方は苦手だ。
今日は村に行商人が来ていた、リヤカーのようなものを馬に引かせ、その中に商品を入れて来ているらしい
コトナの話では、一〇日に一回程度来るようだ。
内容物は生活必需品の類が九割、他はちらほらと装飾品のようなものや、茶色い紙のようなものなどの雑貨が置いてあった。
取引は茶色の貨幣、恐らく銅貨であろうものを使用して行っている。。
行商人の貨幣入れをちらっと覗いたところ、銀貨のようなものも確認できた、この調子であれば金貨もあるのかもしれない
価値基準が分からないので相場などはさっぱりだが……
村人の中には動物の皮と食料を交換している者もいた、物々交換も普通に行われているらしい。
――
「ノア! こっち!」
「右だ! よけろ!」
「ボールこっち、はやく、はやく」
村の子供たちの声が響き渡る。
村に着て二〇日目、いい加減大人たちが働きまわる様子を眺める仕事にも飽きてきたので、わらと獣の皮を丸めて縛ったボールを作り
仕事の手伝いを早めに終えた村の子供達を集めてドッジボールを行ってみたところ、これが大好評となった。
ちなみになぜドッジボールなのかというと、即席で作ったボールは耐久性が低く、蹴るとすぐにボールがバラバラになってしまうためだ。
投げならばある程度は持つ。
夕方になり大人達が仕事から上がって来ると一転して大人達の熱い戦いが始まった。
オーベルとザインが息の合ったコンビネーションで子供たちを一掃した後に、新たに参戦した他の大人達を次々と退場させていく……なんて大人げない連中だ。
結局、大人達のドッジボール大会は日が暮れるまで続いた。
その夜、村の青年たちがドッジボールを行った広場に集まり、即席の宴会が行われた。
何だか良くわからなかったが皆上機嫌で、しきりに酒を勧めて来るので俺もそれなりに飲むことになった。
初めて飲むこの村の酒は、蜂蜜を発酵させて作る、いわゆるミードと呼ばれる酒だ。
白ワインを甘くしたような味がして、酒類があまり得意でない俺も無理なく飲める味だった。
隣でコトナとユミナはハチミツを薄めた水をクピクピ飲んでいる、さすがに子供に酒は飲ませられないという事か。
コトナとユミナに、こういう宴会をよくやるのかと聞いてみる。
「普段は滅多に行いません、今日のボール遊びが楽しかったのでその流れででしょうか、それと、ノアさんを歓迎する意味もあるんだと思います」
日常的に娯楽に飢えているという事なのだろう、そういえばこの村の人間が遊んでいる姿というのは殆ど見かけない。
自分の常識ではただの子供の遊びでも、ここでは初めて見るエンターテイメントだったわけだ。
その興奮が冷めず、宴会に発展したという事らしい。
その日は久しぶりに気分が良くなり、コトナとユミナ以外の村人とも言葉を交わし笑いあった。
ただ人と話すことがこんなにも楽しいと感じたのは、子供の頃以来だった。
「じゃあ後で他の遊びも教えてやるよ」
単語を繋げただけの、通じてるかどうかも分からない言葉だったが
コトナはこちらを見るとにっこり笑った。
――
村に着て三〇日目
ドッジボールを初めて教えたあの日以来、村人の俺に対する反応はとても良くなった。
以前は珍しいものを見るような目で遠巻きに見ていた人々も、今では俺を見かけると気軽に挨拶をしてくれるようになった。
言葉もそれなりに理解できるようになり、日常会話程度なら何とかこなせるようになっていた。
俺は勉強ができるほうではなかった、学生時代、英語の授業など最初から最後までちんぷんかんぷんで、赤点常習者だったものだが
やはり人間、必要に迫られれば普段以上の力が出せるという事なのだろうか。
「ノアさん、今日は丘のほうに行きましょう」
「私も行きたい!」
「いいわ、一緒に行きましょう」
今日はコトナの提案で、村から二キロメートルほど離れた場所にある小高い丘に行くことになった。
村からでも見える丘の頂上には、大きな木が生えている。
コトナとユミナが……丘で食べるのだろうか、パンを一口大に切って布に包んでいる。
この村に来てから、俺の近くにはほとんどコトナがいて、生活のサポートをしてくれていた。
ユミナもよく近くに来て俺にあれこれ話しかけてくる。
家長のノトスから、二人で俺の世話をするように言われているらしい。
当初、俺の監視を行っていたオーベルとザインは既に監視の役を終えて、畑仕事に戻っている。
ある程度は信用されたという事だろうか。
ちなみにオーベルもザインも自分の家庭を持っている
オーベルはノトスの家の隣に自分の家があり、ザインは村の、家長が亡くなり女子しかいなくなってしまった家に婿入りしているようだ。
これまでの生活の中で、ノトスはこの村の村長である事が分かっている。
確かにこの家はほかの家と比べて少し大きい、とは言っても、何部屋もあるような豪邸ではなく
他の家と同じくわらぶき屋根の木造平屋であることは変わりない。
普通の家は二〇畳程度の間取で、個別の部屋などは無く、食事をする場所も寝所も区別がない造りになっている
この村長宅は一般家庭の倍くらいの大きさがあり、壁で区切ってある四畳程度の個室が二つある。
そのうち一部屋は村長夫妻の寝室だ、俺はもう一部屋のほうに寝泊まりしている、こちらは恐らく客間という扱いだろう。
客人のプライバシーを尊重することで持て成しの意味を持たせると同時に、家の外に出る際にはまず個室の出入り口を通らねばならず
客人の動きを監視するのにも向いているという訳だ。
台所で弁当の用意をしながらきゃいきゃいはしゃいでいる姉妹を眺めていると、ノトスがこちらに歩いてくるのが見えた。
途中で台所にいるユミナに声をかける
「ユミナ、今日は外か?」
「はい、ノアさんと丘のほうへ行ってきます」
「ふむ……今日はノアさんと話があるので、夕方までには帰ってきなさい」
「はい、わかりました」
何やら話があるらしい、ゴクツブシを置いておく余裕はないから働けとかだろうか……
見たところこの村はそれほど生活に余裕があるわけではないように見える、その中で何もしていないいい年をした不審者を一人養っているのだから
働けと言われても文句を言えるはずもない。
肉体労働は苦手なんだが、大丈夫だろうか……
「ノアさん、聞こえたと思いますが、今日は夜に少しお話がありますのでよろしくお願いします」
ノトスは穏やかな声でそう告げ、俺が頷いたことを確認すると畑仕事に戻っていった。
それと入れ違いに、コトナとユミナが近づいてくる。
「ノアさん、行きましょう」
「ああ……コトナはさっきの話、何のことか聞いてたりするのか?」
「いえ、特には……」
コトナは何も知らないようだ。
「お姉ちゃんとケッコンして家を継いでくれとかじゃないの」
「ユミナ! そんなはずなでしょう!」
このちびっこ、とんでもないことを言いよる。
こんな正体不明のオヤジに自分の娘を嫁がせる親がどこにいるというのだろうか……まあ子供の冗談だけどな。
「じゃあユミナがノアとケッコンしてあげるね!」
ユミナの冗談はまだ続くようだ、と思ったところでユミナが俺の隣に来て腕を絡めてくる。
「お、おい!?」
やばい、突然のことで声が裏返った、女耐性の無い俺は自分の顔が熱を帯びて赤くなっていくのが分かる。
子供が無邪気にじゃれついているだけなのに、俺が挙動不審になってどうする、落ち着け、落ち着くんだ……
かわいい女の子にじゃれつかれた経験などない俺は、いい年をして大人な対応もできず慌ててしまう。
「ユミナやめなさい、ノアさんが困っているでしょう」
「はーい……あれ、ノアさん体熱いよ、大丈夫?」
ユミナが腕に手を絡めたまま、可愛らしい顔を近づけてくる、栗色の髪の毛が俺の鼻先にかかる。
近くで見ると本当にかわいい、ドラマの子役にでもなったら大人気間違いなしだろう。
コトナも同じようにかわいいのだが、お姉さんという事もあって、ユミナよりは落ち着いた顔だちをしている。
コトナは一五歳、ユミナは一二歳だったはずだ……まてよ、これじゃ俺がロリコンみたいじゃないか。
これ以上挙動不審が続くと確実にキモイオヤジだと思われてしまう、まずい。
俺はユミナの肩をつかむとぐいっと押し返し、顔を遠ざける。
「ああ、起きたばかりだからかな……それより丘に行くんだよな?」
そそくさと立ち上がり、早く行こうぜとばかりに家の入り口に向かう。
「ほら、ユミナが馬鹿なこと言うから呆れられちゃったでしょ」
「馬鹿じゃないもん」
姉妹のそんな話を聞きながら、俺は一足先に外に出て火照った顔を必死に静めていた。
――
「あっち……東がベンガルド共和国、ここから北に半日くらい歩くと国境があります。
南に一日歩くとポロニアの町があります。行商人さんはそこから来てる人が多いですね」
村から三〇分ほど歩いた場所にある小高い丘の上で、コトナが付近の地理について授業を行っていた。
「コトナ先生、この国は何ていう名前ですか?」
「せ……先生!? え、えーと、ここはロシュフォーン王国になります。
ここから西に一週間程度進むと、王都ロシュフォーンがあります、この国で一番大きい街です」
「先生はそこに行ったことあるのか?」
「先生はやめてください、えーと……ないです」
コトナの表情がコロコロ変わるのが面白くてついからかってしまう。
「じゃあ地理的にはこんな感じか」
俺は近くにあった木の枝を拾って、先ほど聞いた情報を元に地面に地図を描いていく
地図といっても地形は分からないので、町や国の名前を大体の距離を予想して配置しているだけだが。
「わ、すごいです、多分そんな感じかも……何でそんな簡単に地図が描けるんですか?」
「いや、何となく?」
地図と言えるような代物ではないのだが、どうも会話から物の場所を推測するという行為がコトナにとってはすごい技術に映ったようだ。
「他には何かないか?」
「えと……」
それからしばらくコトナと地図を描いて遊んでいた。
ユミナは途中からつまらなくなったのか、近くの花を摘んで花束を作る作業を始めていた。
そうしているうちにいつのまにか日も高くなったので、丘の上に生えている木の陰でお弁当にすることにする。
弁当と言っても、例の固いパンと皮の水筒に入った水なのだが……
それでも暖かい日差しの中、心地よい風が吹く丘の上で女の子と食べるだけで、いつもよりずっとおいしく感じられるから不思議だ。
「丘の上でかわいい女の子とピクニックなんて夢みたいだな」
「かっ!?」
つい口に出てしまった心の声に驚きの声を上げるコトナ
そしてしばらくの間、妙な沈黙が流れる
まずいな、きもい奴と思われたか……
こういう微妙な空気をいつも吹き飛ばしてくれる救世主を思わず探すが、その救世主は木陰でスヤスヤと寝息を立てていた。
道理でさっきから大人しいと思ったら。
何か話題を振らなければ……
「あー」
「ノアさんは……どこから来たんですか?」
俺がひたすら低いコミュニケーションスキルをフル稼働して必死に話題を探していると、コトナが静かに話し出した。
それと同時に、そんな一番の話題になりそうな話すらまだしていなかった事に軽い驚きを覚える。
「そういえばそういう話全然していなかったな」
「初めは言葉が分かりませんでしたから……それに、お父さんに止められていたので……」
「え? 何で?」
「分かりません……ただ、ノアさんの身の上については聞くなって」
何でだ? ノトスは俺の正体を知っている?
いや、単純に得体のしれない男に娘が興味を持つ事を防ごうとしただだけかもしれない。
それにしてはコトナをずっと俺に付けていた、興味を持たせたくないならそんな事もしないはずだ。よくわからないな。
「何で今になってそれを聞くんだ? 止められているんだろ?」
「……昨日、お父さんがオーベル兄さんと話しているのを聞いたんです。クラハルド伯爵から返事があったから、ノアさんを引き渡すって」
クラハルド伯爵とは、この辺一帯を領地とする貴族の名だ、ポロニアの町を本拠地としており、コリーン村も領地の中に含まれている。
そしてその話の内容から、俺の知らない場所で行われていたであろうやりとりの内容も推測できる。
突然正体不明の男が現れた、言葉も通じず、明らかに普通じゃない。
なのでとりあえずこの付近を統括する貴族にお伺いを立てることにする、それには時間がかかるから
その間は俺となるべく友好的に接し、あまり刺激しないようにする。
恐らくそんなところだろう
ドッジボールの一件から警戒心は大きく緩和されたのだろうが、それでも大方針は変わらないという事だ。
「もしかしてそれを俺に伝えるために今日ここに?」
コトナは俺の問いにこくりと頷く。
「お父さんはもしかしたら、ノアさんが来ることを知っていたのかもしれません
だって、こんな小さな村が伯爵様にお伺いを立てても、それが通るのは早くても三ヶ月以上かかるのが普通なんです。
ノアさんが来てからまだ一ヶ月……早すぎます」
コトナの話では、よほどの大事件でもない限り、貴族への陳情は申請を行ってから三か月以上待たされるのが普通で
「よくわからない人間が迷い込んだ」程度では話も聞いてもらえない可能性だってあるそうだ。
もちろんそれらの訴えは、訴えた側の地位によってもいろいろと変わってくるが、二〇軒程度の農村の陳情などまずまともには取り扱ってもらえないらしい。
「今日の朝にノトスさんが言っていた話ってのはその事なのかな」
「恐らくそうだと思います」
であればさほど問題無いように思える。
何か後ろ暗い事があるのであれば、このタイミングで俺に話をするのは不自然だからだ。
事が起きる瞬間まで、俺は何も知らないというほうが都合がいいはずではないか。
「ノトスさんはいい人だから大丈夫さ」
「……はい、そうであってほしいです」
俺がなぜここに来たのか、それは今まで何度も考えた
しかし考えたところで何が分かるわけでもなかった。
ただ、一ヶ月近く経過しても覚めないところをみると、夢ではないのだろう。
「信じてもらえるかは分からないが……」
俺はそう前置きし、ここに来た経緯と、以前住んでいた場所について簡単に説明した。
まだ複雑な会話は自信がないため、意味が完全に伝わるか不安ではあったが
コトナは時折びっくりしたような顔をしながら、それでも途中で口をはさむことはせず、静かに俺の話を聞いていた。
「なんだか……不思議なお話ですね」
「今も不思議継続中だけどな」
「ずっと遠い他の国から来た方なのかと思ってました」
「外国と言えばそうなのかもしれないな、実際、最初は言葉だって分からなかったし、だけど俺のいた世界にロシュフォーンなんて国は無いぞ」
「ノアさんが知らなかっただけかもしれませんよ」
「それもないな、俺のいた世界では地上にある全ての国の場所と名前が分かっているから
さっき聞いたこの国の広さから考えれば、地図にも載っていない小国って可能性もないだろうからな」
今まで知らない土地で言葉を覚えるのに精一杯だったせいで、現状を顧みている余裕があまりながったが
冷静に考えれば、今の俺は単に幸運だったから何とか生きていられているに過ぎない。
コリーン村の文化的なレベルは、俺のいた場所、つまり二〇二〇年の日本と比べれば最低でも数百年は遅れているように見える。
それに今までの会話から推測すると、このロシュフォーンという国は恐らく封建制であることがうかがえる。
という事は、日本に当てはめれば戦国時代から江戸時代程度、ヨーロッパで言えば一〇世紀から一三世紀くらいの世界観である可能性がある。
そんな中に放り出された現代人がこの先生きのこるには……
今は確かに大きな不便はない、それはコリーン村の村長一家が俺に好意的だからだ。
だがそれも永遠にそのままであるはずがない。
言葉も何となかりつつある今、ここからはこの世界の情報に気を配らなければならないだろう。
この世界か……信じられない話ではあるが、俺は自分の部屋から、恐らくどこか知らない地球に似た世界に移動した……と考える以外に理由が思いつかない
そういったテーマを扱った物語や映画などはいくつもあるが、まさか自分がその現象を体験する事になるとは。
しかも全く何の前触れもなく地味に始まった、雷が落ちるとか、ゲートが開くとかそういった演出は何も無い、もっと配慮してくれないと……
「ノアさんどうしました?」
気がつくとコトナが俺をのぞき込んでいる、少し考え込んでしまっていたか
「いや、これからどうしようかとね」
今、村から出て行けとか言われたら数日で餓死する自信がある、というか間違いなくそうなる。
今の俺にできる最善の行動は、ノトス家に何とか援助してもらいつつ、この世界を知る時間を稼ぐ事だ
なんとも虫の良い話だが……
「今、コトナの家を追い出されたら野垂れ死にするしかないなと思ったら、ちょっと不安になっただけさ」
「そんなことしません!」
言ってみた後に、ちょっとヘタレすぎだな俺と思ったのだが、コトナはずいっと俺に顔を寄せると力強くそう言った。
「ノアさんは頭がいいし物知りなので、村にいてほしいです、お父さんにも私からそう言いますから
だから追い出されるとか……そんな配しなくても大丈夫ですよ」
コトナは親身になって俺の世話をしてくれる、よく笑いかけてくるし、俺が何かに困るとすぐ気が付くとても良い子だ
とても良い子だし、かわいい、もしかしたら俺のことを好きなのかもしれな……そんな訳はないか。
確かに親身になってくれているが勘違いするのはまずい、そもそもコトナはまだ一五歳だったはずだ
一五歳の女の子が三二歳のオヤジに惚れるとかありえない、勘違いしてはいけない……でももしかしたらと考えてしまうのが悲しいところだ。
「あーお姉ちゃんとノアさんがいいかんじになってる、いけないんだー」
まともな恋愛経験がほぼない俺の妄想が暴走しようとしていたところ、木陰で寝ていたはずのユミナが俺とコトナの間に割って入ってきた。
「ノアさんだめだよ、お姉ちゃんには許嫁さんがいるんだから」
「何言ってるのユミナ、それは関係ないでしょう」
「だってお姉ちゃん、ノアさんをユーワクしようとしてるんだもん」
「してません!」
いつものように姉妹の戯れが始まる、いつもなら日常を彩るほほえましい光景なのだが、今の俺はそれどころではない。
今のやり取りの中に俺を一気に現実に引き戻す単語が含まれていたからだ。
ああ……許嫁ね、それはお早いことで……
もちろん勘違いなんてしていませんよ、ええそうでしょうとも、三二歳のオヤジが一五歳のかわいい女の子に好意を向けられるなんてあるわけないんだから当然でしょ。
心の中で言い訳を展開しつつ、努めて平静を装う。
平静を装うついでに、気になったことを聞いてみる。
「皆、何歳くらいで結婚するものなんだ?」
「村では大体一五、六歳でしますね、歳を取りすぎると子供をたくさん産めなくなってしまうので」
左様で……当然だがその辺の感覚は俺の知っている価値観とは大きく異なるようだ。
早く結婚する理由が子供をたくさん生むためだとか、現代日本ではまずありえない。
「ユミナも許嫁がいるのか?」
「ユミナはいないよー、でも一五歳くらいになったら、長男に相手のいない家とかに嫁がされるねたぶん」
「結婚相手は親が決めるのか?」
「大抵はそうだよ」
「……嫌じゃないのか?」
自分の価値観と大きく違うという事は今までのやり取りで分かっていたが、何となく聞いてみたかった事が口に出た。
「私は特には……村の他の子も同じような感じですし」
「ユミナも別にふつう?」
「ノアさんのいた場所は違うんですか?」
「俺のいたところでは、相手は自分で決めるってのが殆どかな、昔は親の意向でってのもあったらしいけど」
「そうなんですか……ノアさんにはもう奥様が?」
「いや俺はまだ独り者だよ」
三二歳で独り者、この世界ではどういう扱いになるのだろうか……何となく気まずい空気が漂ってるような気がする。
コトナは、まずいことを聞いてしまったというような表情をしているのが分かる。
「でもさ、自分で選べって言われても困っちゃうよね、わざわざ悩んで選ぶような相手がいないし」
「そうね、村の中では皆同じようなものですしね」
結婚観は随分とドライであるようだ、こんな話振らなけりゃよかった。
「……そろそろ日も傾いてきましたし、村に戻りましょう」
口数が少なくなった俺を見て何か感じ取ったのか、コトナが切上げを宣言する。
てきぱきと持ってきたものをまとめて、丘を降りていく。
帰りは何か他愛もない話をしながら帰ったと思うのだが、その前に知った内容がショッキングなものだったせいもあり
どんな話をしたのか全く覚えていなかった。