第十二話 ワールドマップ
「話は分かった」
ソファの上で足を組み、ふんぞり返っているフェリスがいる。
俺はその手前で正座をしていた。
なんだか俺、正座ばっかりしていないか……
フェリス全裸事件の後、俺は直ちにマイバッハに捕獲され、女王様よろしくソファにふんぞり返ったフェリスの前で
事のあらましと言い訳に終止していたのだった。
「吸血を行いながら寝てしまったのは妾の落ち度である、今回のことは不問とする」
どうやらお許しが出たようだ。
もっとも、よく考えてみれば俺に落ち度はあまりないように感じるのだが、ここでへそを曲げられても困るのでそれは言わないことにする。
「そ、それで、どうであった」
「へ?」
「み、見たのであろう、妾のか、体を……どうであったかと聞いておるのだ」
これで終わりかと思ったら、フェリスは若干照れながらとんでもないことを口走り初めた。
これはあれですか、とりあえず褒めろよという無言の圧力ですか。
俺は返答に困り、ちらりとマイバッハの方を見る。
表情は分からないが、マイバッハは全身から褒めておけオーラを放っていた。
ここは言われた? 通りにしておこう。
「フェリスの体は、とても白くて綺麗だったよ」
フェリスはにぱっと顔を輝かせ、そうであろうと頷いている。
人を褒めるときは、その人がこだわっている部分をまず褒めるべきである、そんな事を誰かから言われた気がするので倣ってみる事にした。
「まずフェリスの黄金色の髪、長くて綺麗でとてもいい匂いがして、ずっと触っていたいくらい素晴らしいものだよ」
そうであろうそうであろうと頷くフェリス。
「そしてシミ一つない真っ白な肌は透き通るように美しくて、触るととてもスベスベしていて気持ちいい、これもずっと触っていたかったよ」
ふぇっというような表情で顔を赤くするフェリス、よし、この調子だな。
「次にくびれの出始めた腰と、膨らみかけた乳房がとても良いバランスでした、そこに僅かに浮き出たアバラのコントラストがこれはもう芸術……」
ふとフェリスを見ると、顔を真っ赤にしてフルフルしている。
……あれ、これ怒ってないか。
マイバッハの方を見ると、片手を額に当てて首を振っていた。
「誰がそこまで言えといった馬鹿者がああああああああああ!!」
フェリスの雷が落ち、俺はさらに一時間ほど正座しながらフェリスの説教を聞く羽目になるのだった。
女性を褒めるときは簡潔に、細部はぼかす、俺、覚えた。
「全く、朝から面倒をかけおって」
ようやく怒りが収まったようで、フェリスは自分が取り込んだマナの様子を確認している。
「なんだかよく考えてみると、俺が責められる理由がないような気がするんだが」
「お主でなければ妾の肌を見たというだけで万死に値するわ」
「いやだって勝手に服が飛んでいったんだし、不可抗力だろ、何なんだよアレ」
あの後、天井に集まっていたコウモリは、フェリスの一声でまた一箇所に集まり黒いドレスに変わっていた。
「使い魔じゃ」
「マイバッハみたいなもんか?」
「そうじゃ、妾のマナを依代とし妾に忠誠を誓った魂じゃ」
ヴァンパイアにコウモリ、確かに合っているといえば合っている。
「今までずっとその服を維持するために使い魔にマナを使ってたのか?」
「いいや、マナは活動する際に大きく使用するのでな、余裕がなくなってからは服の形にして固定しておった
固定してしまえばマナを消費する必要は殆どなくなるからの
妾がマナを取り戻し、自由に活動できるようになったので、動き出してしまったのであろう」
「やっぱり俺は悪くないんじゃないか」
「悪くなくとも、女の肌を見てしまったのであれば謝るのが男であろう」
そういうものなのか、いまいち釈然としないが、こんな事で言い合っても仕方ないのでここまでにしておこう。
「うむ、調子は良いようじゃな、妾のマナもほぼ完全に戻ったぞ」
「フェリスはすごい量のマナを持っていたとかマイバッハが言ってたが、そんなに吸って俺の中のマナは大丈夫なのか?」
「案ずるでない、全く減った様子も無かったわ」
どんだけ凄いんだ俺の中は、しかし自分でどうこうできない以上何の意味もないが……
いや、フェリスの役に立ったのだから良しとしておくか。
「(ノア様)」
声なき声が頭の中に響く、これはマイバッハか
マイバッハの方を見ると、いつもよりもシャキッとした感じでフェリスの少し後ろに立っている。
「(ノア様、我が主にマナをお分け頂きありがとうございます、先日は大変なご無礼を、申し訳ございませんでした)」
「お、マイバッハ、離れてても話せるようになったのか」
「(我が主の力が戻りました故、お陰様で)」
昨日までは本当に切羽詰まった状態だった、マイバッハは使い魔として主のために出来ることをしたまで
内容もあの場合仕方のないものであったし、咎める気など起きなかった。
それを伝えると、マイバッハは俺に深く一礼をする。
「それじゃあ準備もできたことだし、結界とやらを拝みに行くか」
「(承知致しました、こちらでございます)」
マイバッハの後に続き、俺達は洞窟の外に出た。
二週間ぶりに見る外の世界はとても眩しく、開放感に満ち溢れていた。
フェリスも外に出るのは久しぶりだったせいか、目をしぱしぱさせながら光に慣らしているようだ。
そんな様子を見ながら、俺はふとしたことが気になった。
「フェリス、ヴァンパイアは日光に弱いんじゃないのか」
「ん?そのような事はないぞ、なんじゃ、世間ではそんな話になっておるのか?」
「(天族が流したヴァンパイア脅威論を人間が曲解した結果、そのような設定が後付けでされている例があるようですな)」
俺の疑問にマイバッハが的確な答えを返してくれた。
どうやら天族がヴァンパイアを対象にネガティブキャンペーンを行っていたようだ。
「(他にも、ヴァンパイアは十字架に弱い、ニンニクに弱い、水に浮かない、木の杭を心臓に打ち込むと死ぬなど
地方によって様々な後付け設定がなされております)」
「木の杭を心臓に打ち込めば誰であろうと死ぬと思うのだが」
「(その地方ではヴァンパイアは灰となっても復活できるそうにございます、それを防ぐための木の杭であるとか)」
「灰になっても蘇れるとは、何とも羨ましい話よのう」
「(左様でございますな)」
どうやらヴァンパイアの世界も風評被害で大変らしい。
俺もそういうものだと思っていたので人のことは言えないが。
「(ここから先が結界でございますな)」
「マイバッハは通れるのか?」
「(はい、私はこのように)」
マイバッハは結界のあるであろう位置をすいすいとまたいで通っていく。
結界のある位置にはマイバッハが並べたのだろうか、分かりやすい石が等間隔で設置されていた。
「とりあえず触ってみないと何ともだな」
「気をつけるのじゃぞ、ばちってなるからの」
フェリスの説明が可愛らしくて思わずにやけてしまう。
それじゃ覚悟を決めて行きますか。
手を前に出す……何も起こらない。
一歩前に出る……何も起こらない。
そのまま前に進んでみる……何も起こらない。
「(ノア様、そこは既に結界の外でございます)」
「どうなってるんだ、何も起きないぞ?」
結界があるであろう場所を何度か行き来したが、一度も阻まれた様子は無かった。
「まさか結界はもう無いのか?」
「まさかそのような事が……」
フェリスは恐る恐る結界の場所に手を伸ばした。
バチンという音が鳴り響き、ぎゃんという可愛らしい叫び声と共にフェリスが後方に飛ばされてしまう。
「フェリス!」
すぐにフェリスの元に行き抱き起こす。
結界に触った指の先に裂傷ができていた。
「大丈夫じゃ、この程度の傷であれば」
そう言っている間にも傷がみるみるうちに塞がっていく。
数秒後にはもとのきれいな指に戻っていた。
「すまない、不用意な事を言ってしまった」
「よい、妾の早とちりじゃ、それに男の胸に抱かれるなど何百年ぶりじゃ、こういう役得があるのであれば怪我をするのもたまには良いのう」
「何を呑気な……」
「とはいえ、いつまでも寝ている訳にはゆかぬな」
フェリスは少しだけ俺に身を委ねていたが、すぐに気を取り直し起き上がる。
結界は依然としてそこにある事は分かった、だが何故か俺とマイバッハは通れる。
ん、まてよ、地下はどうなんだ。
「それも遥か昔に試した、地下にも結界は通っておる」
地下にも地上にも結界が張ってある。
俺は結界というものがどういう原理で作られているのかは分からないが、五〇〇年もの間保っているバリアのようなものと考えると
フェリスの使う魔法のように、その時だけマナを込めて作られるものとは考えにくい。
という事はどこかに結界を持続させるための仕組みがあるんじゃないだろうか。
フェリスは地下に結界が通ってる事を確認したというが、まさかこの辺一体を全て掘りまくった訳じゃないだろう。
しかし結界を作る何かが地中に埋められてたら探すのも一苦労だな……
マイバッハが置いたという、結界の位置を示す石を見てみる。
その配置は中洲を囲むように、ゆるいカーブを描いているように見える。
そうすると、恐らくこの結界は円形なのだ。
円形の何かを作る際に、最も重要なポイントとなるものはその円の中心に他ならない。
そしてこの円の配置の中心にあるものと言えば……何となくだが心当たりはある、アレだろう。
しかしそうだとしたら、こんな単純な仕掛けに今までフェリス達は気づかなかったのだろうか。
「フェリス、あのメローテが置いていった黄色い玉に触れたことはあるか?」
「二度ほどあるな、一度目は玉を破壊しようとした時に。
二度目は……妾が孤独に耐えられず、メローテに屈しそうになった時に触れた」
「触れた時に何か起きなかったか?」
「いや、特に何かあった訳ではないぞ……ああ、でも触れてしばらくしたらメローテの奴が様子を見に来ておったな」
「二度ともか?」
「うむ、二度目の時はかなり弱っていたので、危ういところではあったがな
その後にマイバッハの奴が偶然ここに流れ着き、妾の僕となってからは一度も触れてはおらぬ」
それがどうしたのだ?と首をかしげるフェリス。
マイバッハは昔を懐かしむようにうんうんと頷いている。
俺は一番気になった質問をぶつけてみた。
「五〇〇年も閉じ込められていたのにたった二回しか触っていないのか?何でだ?状況から見たらあの玉が一番怪しいだろ」
「それは……あの玉はメローテの奴が、天族に降る決意ができたら触れて呼べと言って置いていったのじゃ
だから、触れると奴に屈したという事になってしまう気がしてな……」
「意地で触らなかったってことか?」
「それもあるが……以前マナにまだ余裕があった時に、頭にきて破壊しようと試みたのじゃが
魔法を当てても思い切り殴りつけても破壊できなかったのじゃ……そうしているうちにメローテのやつが来てな
無駄な努力をご苦労様と散々馬鹿にされたので以降は二度と触るまいと思っておったのじゃ。
だが……あれはそうして一〇〇年ほど経った頃であったか、どうしても孤独に耐えられなくなってしまってな
一度折れかけて玉に触れたのじゃ、そうしたらメローテがやってきて、妾は奴に危うく救いを求めてしまうところであった」
最大の屈辱とばかりに爪をかみながら悔しそうに話すフェリス。
「じゃがその時は奴の方が焦らしてきおってな、恐らく完全に妾を屈服させたかったのだろうが
そのおかげで少し頭が冷え、その直後にマイバッハの死体がたまたま川辺りに流れ着いているのを発見したのじゃ
マイバッハを僕と出来た時は本当に嬉しかったぞ」
「(お役に立てたようで光栄でございます)」
フェリスがマイバッハとの出会いを懐かしむように話している間、俺は別の事を考えていた。
恐らくあの黄色の水晶はこの結界を維持するためのコアだ、あれに触れるとその情報はメローテに伝わるのだろう。
仲間になる気になったらいつでも呼べと言って水晶を置いていく、それに触れるということは
単純に場所の移動か、気持ちが折れそうな時か、または仕掛けが見抜かれた時なので、どちらにせよ確認に来なければならなかった
そんなところだろう。
俺の考えをフェリスに話すと、そうであろうとばかりにうんうんと頷き、今なら破壊できるはず!と洞窟に向かおうとする。
「となれば早速あの水晶を破壊してしまおうぞ、今の妾ならば……」
「ちょっとまて! 壊したらメローテが来るだろ!」
あっ、といった顔で固まるフェリス。
可愛い顔してちょっと脳筋過ぎやしませんかね。
「そ、そうであった……であるが、今の妾であれば戦えば……」
「一人で来るとは限らないだろう、それに応援を呼ばれたらアウトだぞ、瞬殺できるならまだしも」
「う……」
仮にも王と名のついている天族のトップ集団の一人であるうえに、フェリスは過去に敗れている
さすがに力が戻ったから瞬殺できるなどと考えるほど短絡的ではないようで、フェリスはがっかりしながらも立ち止まった。
「だが……それではどうすればよいのじゃ」
「俺が結界を抜けられる理由、それはフェリスが言っていたマナを吸収する体質にあるのかもしれない
そうだとすればやってみたいことがある、もしかしたらまた何度かばちってなるかもしれないけど、良いか?」
「……構わん、もはや妾では何ともならぬ、全てノアに任せるぞ」
俺は頷くと、結界のある場所に行き、マイバッハが置いた石の上に座った。
「マイバッハよ、この石の位置は正確に結界の開始地点を示しているのか?」
「(は、以前何度もフェリス様に確認して頂きましたので、正確であると存じております)」
もし俺の体が結界の展開を阻む力があるなら、俺の体で作った穴をフェリスが通ることで、フェリスを外に出すことができるかもしれない。
ただ、それには結界がどういう方向に作用しているのかを確認しなければならないな
四方八方から何重にも結界が敷かれている場合は少々厄介な事になりそうだが、それはやってみなければなんとも言えない。
メインの仕組みがあの小さな水晶だとしたら、五〇〇年も結界が持続していることを考えると、それほど複雑な構造ではないかとは思うが。
俺はまず手始めに、結界のあるであろう場所で仁王立ちになり、股下をフェリスがくぐれるか試して見る事にした。
結界が俺の体を透過していたら色々考え直さないといけないがさてどうなるか……
フェリスは恐る恐ると言った感じで、俺の股下に手を差し込んで見る。
「おおお……と、通れるようであるぞ!」
腕が股下を通過した。
もしかしたら上から下に向けて力が作用しているだけのものなのかもしれない。
「そのまま体を通してくれ」
「う、うむ」
フェリスはゆっくりと地面を這いながら俺の股下を通っていく。
頭、胴、そして足と、驚くほどあっさりと通過することができた。
「おお……おおおおおお……」
結界の外に出たフェリスは、しばらくそのまま呆然と佇んでいた。
実に五〇〇年ぶりの外界だ、感激もひとしおだろう。
「ノアよ……感謝するぞ」
「お互い様だろ、気にするなよ」
「いや、妾のそなたに対する感謝は何を以っても変えられぬ、どんな言葉を尽くしても伝えきれぬ、そういうものじゃ」
「大げさだな」
「大げさな事があるものか、妾は、今日という日を忘れぬぞ」
フェリスは胸の前で手の平を組み、何か祈るように目を閉じ俯いている。
「……絶対に、忘れぬ」
日は既に高く登っており、空はよく晴れている。
フェリスを外に出すという目的は意外にもあっさりと片付いたが、それはこの広大な世界に向けて最初の一歩を踏み出したに過ぎない。
俺はこれからどうするのだろう、何をすればいいのだろう、そんな事を考えながらただ、空を見上げていた。
何故俺が結界を通り抜ける事ができたのかという点については、恐らくマナを吸収する体質が影響しているのだろうという曖昧な結論に落ち着いたが
調べようも無いためそれ以上考えても仕方がない、そういうものだとするしか無かった。
そんな事よりも今最も大切な事は、これからどうするかという事なのである。
「(私はここに残りましょう)」
マイバッハは結界の中に戻り、そう俺達に伝えた。
「それはならぬぞ、お主は妾の僕であろう」
「(僕だからこそでございます、我が主よ、私はこのようななりでございますので人間の街の近くに行く事は叶いませぬ
また、この一件がメローテに気付かれないとも限りませぬ、私が残り、メローテが現れた際には主に速やかにお伝えせねばなりません)」
「マイバッハ……」
「(我が主よ、そのようなお顔をなさらず、離れていたとしても、私は永遠に主の……フェリス・アルカード様の第一の僕でございます)」
マイバッハはフェリスを見ながら穏やかに諭す。
表情の分からないガイコツの顔であったが、俺には娘を心配する父の顔のように思えて仕方がなかった。
「(ノア様)」
マイバッハが俺の方に向き直る。
「(ノア様は大変な運命を背負っておいでであるとお見受けいたします、ですが、無理を承知でお願い申し上げます
どうか我が主を支えて頂ければと……)」
「俺のほうがフェリスに頼り切りになると思うけどな、俺は何の力もない男だし」
「(そのような事はございますまい、主が外に出られたのもノア様あっての事でございますので)」
「……分かった、出来る限りサポートする」
「(ありがとうございます……そういう事でございますので、以降はノア様と手を取り合い、共に苦難を乗り越えて頂ければと)」
なんだか微妙に誤解を招く言い方だが……
フェリスはしばらく俯き、何かを考えているようだったが、何かを思い立ったように顔を上げ、しっかりを己が僕を見据えた。
「分かった、マイバッハよ留守は頼んだぞ、新たな拠点ができたら必ず迎えに来る」
「(仰せのままに、我が主)」
「行くぞ、ノア」
フェリスはマイバッハと短い挨拶を交わすと、川沿いを下っていく。
俺はその後を追って歩き出した。
――
川を下り始めて三日目
今日は朝から六時間ほど歩いただろうか、川沿いの道は石で凹凸が激しく、時間の割にあまり進めた気がしない。
これまでの自分であれば、六時間も道なき道を歩けばとっくに疲労過多で動けなくなっている頃だが
多少は体力が付いてきたのか、疲労感を感じながらも何とか歩みを止めること無く進むことができていた。
「今日はもう少し歩いて、日没前に野営の準備をするぞ」
先を歩いているフェリスが指示を出す。
その様子は俺が考えていたよりもずっと様になっていた。
そして夕刻、日も落ちかけた頃に、川辺りの適当な木の下で休息を取ることにした。
さすがに半日近くも悪路を歩いていると体力も限界だ、俺は木に体を預け呼吸を整えていた。
「ふむ、思ったよりもヤワであるの」
「異世界の都会人だからな……この世界の連中と一緒にしないでくれ」
「肉の付き方からあまり期待はしておらんかったが仕方がない、準備は妾がする故、そこで休んでおれ」
何とも情けない話だが、フェリスの体力は驚異的だ
俺とは違い、あちこち飛び回りながら悪路を歩き続け、時には危険な野生動物の処理などしていても息一つ切れていない。
俺はというと、既に足が棒のようになっており、肩で息をしている状態だ。
手伝うつもりはあるが、藪蛇になりそうなので言われたとおりに木陰で休むことにする。
「随分手慣れてるな」
「ん、戦争中は軍を率いておったからのう、一〇〇キロメートル先の目標まで一夜駆けなど日常茶飯事であったわ」
あら頼もしい。
「さすがに五〇〇年もダラダラしておったせいか体が鈍っておるがの、しばらくは準備運動のつもりで気楽に行こうと思う」
今日のこれが気楽な旅だったのか……できればこれからずっと気楽に進めて欲しい。
そんな事を考えながら、フェリスがテキパキと野営の準備を整えていく様を見守っていた。
日が落ち、辺りは暗くなった頃、俺はフェリスの使い魔のコウモリが取ってきた魚を焼いて食べていた。
川魚を焼いただけで、塩も何もないので味気ないが、この状況で文句を言うわけにもいかない。
食べないと体力も続かないので、俺は胃に流し込むように黙々と食べていた。
「味については済まぬの、この状況ではどうにもならぬ」
「いや、食えるだけでありがたいよ、俺一人だったら間違いなく飢え死にしてるしな」
血の滴るイノシシとか、むき蛇とかでない辺りも配慮してくれているのだろう。
「フェリスは食べなくていいのか?」
「妾は大丈夫じゃ、以前は死んだ魚などから僅かに残ったマナも吸い上げておったがの、今はお主がおる、頼らせてもらうぞ」
そうだ、フェリスの食事は俺だった。
「とは言え、妾もそれなりにマナを蓄積できるのでな、まだまだ大丈夫じゃ、お主と触れ合えぬのは残念であるがのう」
ブホッ
フェリスの意味深なセリフに動揺して魚を詰まらせてしまった。
こんな時にスマートに対応できないのが、俺がダメ男たる所以なのだ。
「仕方がないのう、ほれ」
フェリスは黒い布のようなものを出し、俺の口を拭った。
見た目はちびっこなのに何という包容力だろうか。
しかし、ハンカチとは用意が良いな……いや、ハンカチなんてあったか? 今拭った布はどこから出したんだろう。
俺がそんな事を考えていると、フェリスは拭った後の布をぱっと放す、するとそれは翼を広げて川の方へ飛んでいった。
バシャバシャと川の中を跳ねる音が聞こえる。
コウモリかよ……
戻ってきたコウモリの目に光るものが見えたのは、きっと川の水が残っていたせいなのだろう……すまんなコウモリ。
食事が終わった後は、焚き火を消し、コウモリが作った簡易テントの中に二人で横になる。
簡易テントはシングルベッドと同じ程度の空間しか無いが、贅沢は言ってられない。
就寝中の索敵はコウモリ達が交代で行うようだ、コウモリ万能すぎるな。
ただし、稼働しているコウモリの数によってフェリスのマナが消費されていく量が変わるので無駄な動員は極力避ける必要があるようだ。
俺とフェリスはお互いに向き合い、ほとんど密着したような状態で横になっている。
簡易テントが狭いため仕方のない事なのだが、大量のコウモリを動員しているせいもあり、フェリスの服装は黒い布が胸から下に下がっているだけの……
言うなればバスタオルを巻いているだけと同じような状態になっていた。
「ちと寒いの、使い魔のコウモリをもう少し増やす必要があるかもしれぬな」
「そ、そうだな……コウモリの使い魔ってどうやって増やすんだ?」
薄着で密着しているので気になって仕方がない、以前に見たフェリスの裸が頭の中で再生される。
いかん、何か話して気を紛らわさねば。
「コウモリ程度であれば、妾の血を浴びせ、契約の術をかけるだけじゃの、簡単な割によく役立ってくれておる」
「なんだか色んな形に変わるけど、あれは何だ」
「契約が澄んだ時点で純粋な生物ではなくなる、核をマナで包んだ魔法生物のような形態となるのじゃ
元がコウモリであるから、基本的な行動はコウモリに酷似しておるがの」
「ヴァンパイアってのは凄いんだな」
「それは妾が原初のヴァンパイアであるからじゃのう、ただの眷属ではこうは行かぬ」
フェリスはどうじゃと胸を張る、膨らみかけの胸が俺の胸に押し付けられる形になる。
「フェリス、狭いんだから」
「何じゃ、照れておるのか、かわいいのう、ほれほれ」
完全に遊ばれてる……いつものやり取りのはずだったが、この時はだいぶ疲れていたせいかフェリスの態度に少しだけイラついた。
慣れない悪路での移動の日々、蓄積されていく疲労、歩くこと以外何も出来ていないという負い目。
そういったものが積み重なり、俺は少し情緒が不安定になっていたのだと思う、いつもの何でもないやり取りが
この時はフェリスが俺を馬鹿にしているように感じてしまい、無性に腹が立ったのだ。
そういえばこの間、男に抱かれたのは久しぶりとか言ってたからな、昔はブイブイ言わせてたのかもしれない。
いつも誘ってるような意味深な事を言うし。
見た目が少女なので自重していたが、そういう事なら別に遠慮する必要もないのか。
俺はフェリスの背中に手を回し、抱き寄せた。
「ひゃっ!? だ、大胆じゃのう」
そのまま手を下に移動し、もう片方はフェリスの小さな胸に手を当てる。
「な、ち、ちょっと待つのじゃ、せ、性急すぎはせぬか」
「何でだ、誘ってたんじゃないのか」
「ち、ちが……」
フェリスは露骨に狼狽え出し、体を振って逃れようとしている。
「じゃあ何でいつも人の気を引くような事を言うんだよ! こうして欲しいからじゃないのか」
「ち、ちがう……妾はそんなつもりでは……」
「じゃあ、ただからかってただけなんだろう!? 何をやっても俺は何もしてこないからって、俺が困るのを見て楽しんでたんだろう!」
初めは少し驚かせようと思っただけだった、いけそうなら少しくらいとも多少は思った。
だが俺はフェリスが本気で嫌がっている様を見て、自分の中から黒い何かが急速に吹き出して行くのを感じていた。
嫌がっているぞ、やめておけという感情と、何を言ったところで、こいつも俺になんかには触られたくないんだよという感情がごちゃまぜになっていく。
それは俺の三二年間に渡る、女へのコンプレックスそのものだったのだろう。
これはまずいというのが自分でも分かった、頭では分かっているが言葉は止まらなかった。
「散々遊んで思わせぶりな態度を取って、いざそうなったら、そんな事望んでない、そんなの勝手すぎるだろ!」
「……ノア、何を」
もはや口から出る言葉はフェリスとは関係ない、俺の今まで溜まりに溜まった鬱憤そのものだった。
頭に血が登ってしまった俺は、自分が何を言おうとしているのかさえ冷静に判断できない。
フェリスはそんな俺を憐れむような目で見ている、それが俺は気に入らず、さらに語気を強くして叫び続けた。
「そうやって、俺は何もできないって、そう思ってるんだろ、舐めてるんだろ!」
「……やめよ」
「ふざけるな! 俺が相手のためにと思って我慢してりゃそれを利用して踏みにじりやがって、何様だよ!
その気がないなら初めから事務的に対応しろ! 誤解させるな! 俺のことなんか構うな!」」
「やめよ!」
パン! という乾いた音と同時に顔に衝撃が走る。
俺は我に返ったように目を見開いた。
目の前にはとても悲しそうなフェリスの顔があり、その赤い綺麗な目の端には薄く涙が滲み、それはやがて頬を伝って地面に落ちた。
「……すまぬ」
フェリスは一言だけ呟くと乱れた服を整え、テントの外へと出ていく。
一人残された俺は、しばらく叩かれた体勢のまま固まっていた。
仰向けになりコウモリたちが作ったテントの黒い天井を見ている。
フンドシなどは見えない。
一人になった俺は、さっき起きた出来事を何度も何度も頭の中で繰り返し考えていた。
どうしてあんなことになったのか、どうしてあんなところで爆発してしまったのか。
いつもの他愛のないふざけ合いだったはずだ、適当にあしらっておやすみで終わっていたはずだった。
理由は簡単だ、俺が単に勘違いをしていただけだったんだ。
俺はフェリスに甘えていた、根拠なんてないが、フェリスは俺に悪い印象は持っていないだろうとは考えていた。
だからさっきの悪ふざけも受け入れてくれる、そう考えていた。
しかしフェリスが嫌がっているのを見た時、俺は拒絶されたと思ってしまった。
本当は俺となんていたくないが、仕方なくこうしているんだと言っているように感じてしまった。
そして俺は重ねてしまったのだ、今までの俺の恋愛経験……とも呼べない何かと。
形の上では付き合って、遊んだり貢いだり、そして最後に、そんな気は初めから無かったとたった一言で終了するサイクル。
あの時俺は、フェリスの態度からその過去を思い出し、頭に血が上り、あとは過去の亡霊に向かってひたすら自分の中にたまった惨めな汚物を吐き出していただけだった。
そりゃフェリスも呆れる訳だ。
短絡的で自己中心的、努力はしたくないが結果は欲しい、自分に都合の悪いことは皆他人のせい、自分の欠点は腐るほど挙げられる。
俺が女であっても、こんなのと付き合うのは御免だと言うに違いない。
一方、フェリスは強く美しく自分というものを持っている。
そんな彼女が何故俺を気にかけてくれるのかというと、それは単に俺の体質によるものだろう。
俺と行動を共にすれば、彼女はほぼマナの残量を気にせず活動できる。それはマナの消費量が多いヴァンパイアにとっては大きな魅力なのだろう。
ここで以前の俺なら腐っていた、結局この体質がなかったら見向きもされなかったと、でもそれは当たり前の事だ。
逆に俺はどうだ、俺はフェリスが……好きだ、それは何故なのか。
それは強くて美しくて俺を必要としてくれるからだ。そう、好きになるには理由がある、そしてその理由には打算も含まれる、これは当たり前のことだ。
そんな当たり前のことを、俺は今まで考えようともしなかった。
「今更気付く事かよ……」
そういう点ではクラリスは例外だった、あの娘は俺の事を何でも肯定してくれた。
それに慣れてしまったのも良くはなかったのかもしれない、もちろんクラリスが悪いわけではないが。
男を堕落させる毒婦
そんな言葉を思い浮かべると、頬をぷっくりさせてプンスカ怒っているクラリスが頭に浮かんだ。
川の音と虫の声意外何も聞こえない。
こういう環境が良かったのかもしれない。
どす黒い何かが支配していた俺の心は、今は晴れ渡っていた。
立ち上がり、テントを出る。
感情的にも実利的にも、このまま放置ではまずい。
フェリスは責任感が強いので、俺の事をこのまま放り出すような事はないだろうが
このままではわだかまりが残ってしまう、後の為にもそれは良くない。
幸いにも空は晴れ、月が出ていたので、目を慣らせば回りを確認できる程度の明るさはあった。
川沿いを一〇分ほど降ると、大きな石の上で体育座りをしているフェリスを見つけた。
月の光を浴びた黄金色の髪の毛がとてもきれいだ。
フェリスなら当然俺が近づいていることは分かっているはずなので、サプライズは無しで隣に並び座る。
そのまましばらく二人で、無言で水面を見つめていた。
「すまなかった」
「すまぬのう」
測ったように二人の謝罪が並んでしまった。
「ぷっ、お主狙っておったのか?」
「俺にそんな芸当できるわけないだろ、偶然だよ」
フェリスはひとしきり笑った後、俺に顔を向ける。
「お主とは出会いからして偶然の連続じゃな」
「人生とはそういうものだろ」
「若造が言いよるではないか」
そりゃフェリスに比べれば誰だって若造だろうけど……いやまてよ。
「フェリスは何で子供の姿をしているんだ?」
「ヴァンパイアになった時の年齢が一三であるからじゃ」
最初からヴァンパイアだった訳ではないらしい……
「そこから封印されるまではどのくらいあったんだ?」
「一〇年くらいかのう」
人間だったのが一三歳までで、ヴァンパイアになって一〇年…、そのあとはずっとあの洞窟の中だったんだな。
「そうすると人生経験は俺のほうが長いだろ」
「なに!? じゃが、妾は五〇〇年以上を生きて……」
「洞窟の中の五〇〇年は人生経験に含まれません」
「なっ、なんじゃと!?」
実際は含まれるのかも知れないが、ここではそんな事どうでもいい。
「フェリスは実質二三歳か、そう考えると可愛いもんだな」
「ぐぬぬ……なんだか納得が行かぬぞ」
フェリスはぐぬぬと言いながら考え込んでいる、こう見ると年相応に見えてかわいい。
「フェリス」
「うぬ?」
「……さっきは済まなかった、昔を思い出してつい、心にもない事を言ってしまったんだ」
「良い、妾も配慮が足らなかった。久しぶりに頼りがいのある男と共におれたので甘えてしまっておったわ」
ファッ? 誰が頼りがいのある男だって? どこにいるんですかそんなメンズは。
「何を鳩が豆鉄砲食らったような顔をしておる、お主はもう二度も妾を助けてくれたであろう」
「いやそれはそうかもしれないけど、でもあんなの偶然みたいなものだし、全然大したことじゃないだろう」
「お主にとっては大したことでなくとも、妾にとっては大事であったのだ
だから逆もそうであるぞ、お主にとっては大事であっても、妾にとっては些細な事というものもあるのじゃ」
「……」
「例えばそうであるな、お主は自分で戦えぬことも、食料を取れぬことも、旅の用意ができぬ事も大事だと思っておるのであろう
妾はそうは思わぬ、お主の代わりに全て妾が行える、それは妾にとってはまったくもって些細な事なのじゃ」
ずっと俺が抱えていたもの、異世界に来てからはさらに強く感じていたもの、それは劣等感だ。
自分一人では何も出来ない、常に誰かに頼って生かしてもらっている、そんな負い目がずっとあった。
言葉が人を救うというのはこういう感じなのだろうか。
俺はフェリスの言葉を聞きながら、自分が確かに救われていくのを実感していた。
目頭が熱くなっていき、もう止まらない。
俺は涙を誤魔化すようにフェリスを抱きしめた。
「ふぇぁっ!?」
フェリスは少しだけびっくりしたが、すぐに落ち着き俺の背中に手を回し背中をさすりはじめる。
「先程の黒い気が無くなっておるのう、良いな、このような求めであれば妾は拒むつもりなど無いのであるぞ」
「フェリス……ありがとう」
「うむ、これからもよろしく頼む」
俺は涙声にならないうちにフェリスに感謝を伝え、そのまましばらくの間フェリスの胸でむせび泣いた。