プロローグ
代わり映えのしない毎日。
何となく入った会社に毎日通い、いちいち回りくどい仕事をことさら非効率にこなす日々。
立場が上の人間は要領を得ない指示を出し、下は慣例に従いそれを処理していく。
皆が空気を読んで働いている。
その中にあって、俺こと紫藤野明入社八年目の三二歳は空気の読めない人間に分類される。
自分は読んでいるつもりだが、どうも感覚が他人とは違うようだ。
かといって積極的にそれを直すつもりも特に無い。
単純に面倒くさいからという事もあるし、今のところそれでやれているので直す意味も見当たらない。
他人からはどう思われているのかは知らないが、良い感情は持たれていないだろう、しかし直接何か言ってくるわけでもないのでどうでもいい事だ。
仕事は好きではない、仕事仲間も好きではない。
ただ会社に来て、退屈な仕事をし、何かを我慢し、金が貰えていればそれでいい。
そんな考えで毎日を過ごしていた。
「……それでね、野明君はもっと楽しい女の子のほうがいいと思うの」
史上二度目の東京五輪を目前に控えた初夏のとある日曜日の喫茶店で
俺の目の前に座っている女性は、少し困ったような、同情するような目で俺を見ながらそう切り出した。
女性の言う野明君とは、もちろん俺のことだ。
目の前にいる女性は中村佐久美(二八歳)、つい数分前までは俺の彼女だった……と思う。
「野明君はいつも苦しそうな顔してるけど、私には何も言ってくれないでしょ、ううん、野明君は優しいからそうなんだって思うけど
……いろいろ考えたんだけど、私だと野明君を支えてあげられないと思うんだ、野明君にはもっと一緒にいて楽しい女の子じゃないとだめなんだと思う……だからいったん距離おこ?」
私の友達に楽しい子何人かいるから、あとで紹介してあげるから……あ、ちょっと今日は友達とこれから用事あるから
紹介するのはまた今度ね?ほら、終わって急にとかだと野明君も困るだろうし……」
俺は一言も話さないうちに、彼女は次々と意味がよく分からない話を並べていく。
いや、言いたい事は分かる、お前はつまらない男だからもう別れようと言いたいのだ。
一旦距離を置くとか、後で友達を紹介などとは、何とか穏便にこの場から離れたい一心で言っているだけの方便に過ぎない。
そもそも付き合っていたと言っても、彼女とは二、三度遊びに出掛けた程度で、まだキスすらしていない。
高校の時の友人と遊んだ時に紹介されて……彼女としてはその時から仕方なくといった感じだったのだろう。
俺は不細工でかつ身長は一六五センチに満たないチビなのでその気持ちは分からなくもない。
男を紹介してやると言われ、会ってみたらチビブサだったが、友人の紹介なのでその場で嫌だとも言いにくかった……よくある話だ。
「あ、ごめんね、ほんと今日忙しくて、私が呼び出したのにほんとごめんね」
一通り状況を推理している間にも、お前とは何もなかったよな?という確認作業にも似た言い訳は続いていたらしい。
俺が何も話さないので、怒っていると思われているのだろうか、残念ながら毎度のこと過ぎて特に何も感じていない、分かってるからというのが本音だ。
「話は分かったよ中村さん、友達待ってるんでしょ、ここ払っておくから早く行ってあげなよ」
俺がそう言うと彼女は露骨にほっとしたような、ばつの悪そうな顔をしつつ、それでも躊躇なく立ち上がった。
「ほんとごめん、太田君には私から言っておくから、またあとでね!」
それだけ言うと彼女は足早に喫茶店を出ていく、ちなみに太田君とは俺の高校時代の友人、彼女を俺に紹介した張本人だ。
要するに、俺から奴に余計なことを吹き込むなという事だ。
「せっかくの日曜なのにな」
誰にともなくそうつぶやき、彼女のいた場所に目を向ける。
……そんなに早く逃げたかったのかよ
彼女の頼んだアイスティーは、一口も手を付けられていない状態でそこに置いてあった。
――
家に帰ってパソコンを付ける、いつもやっているゲームを起動する。
ゲームにログインするが……そこまでだった、実際にプレイする気が起きない。
彼女のことを諦めきれないという訳ではないと思う。
それほど長い付き合いでもなかったし、俺自身、付き合っているという感覚が希薄だった。
ただやはり三二歳のチビブサに人並の恋愛など不可能なのだという、絶望にも似た感情が渦巻いていて、何かに集中することができないでいた。
だるい……何もしたくない……
時計を見ると午後二時を指している。
住宅街の隅にある安アパートの二階に六月の日差しが差し込み、部屋の中は少し暑いくらいだ。
休めるのは今日だけなのに……明日はまた仕事か、何かしなくちゃ……
無限地獄のような月曜からの五日間を思うと、何かしなくてはと思うのだが、意思に反してまぶたが重くなる。
太田に文句でも言うか……いや、文句を言えるような立場じゃないよな。
考えが次第にまとまらなくなってくる。
三〇分、いや、一〇分だけ横になろう、日曜日を無駄にしてはいけない。
心の中でそう呟いて、ベッドの上に体を投げ出す、直後に深い穴に落ちていくような感覚に襲われる。
そんなに疲れていたのか?それとも別れ話がそんなにショックだったか?
意識が遠くなるにつれ、自分を取り繕う為の思考もできなくなっていく
……俺はたぶん一生、童貞なんだろうな
建前を取り払った偽りのない本心、何の事はない、俺は今回も童貞を捨てられなかった、ただそれだけが残念だったのだ。
最後にそんな薄汚い本当の自分を確信しつつ、俺の意識は闇に落ちていった。