表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/4

◇4

 夜の闇に包まれたサリア国を、ゴードンはゆらゆらと歩いていた。逃げなくては。隠れなくては。彼の頭にはそのことしかなかった。初めて抱くハルの体は信じられないほど軽く、大きめの竹の籠を運んでいるような感じしかしない。背中にくくりつけたキャンバスの方が重いような気さえする。得体の知れない恐怖に、ゴードンは身を震わせた。

 あれから一時間近く経ったが、未だハルの意識は戻らない。まだ命があることを伝えているのは、ぜひぃ、ぜひぃという危うげな呼吸音だけだ。ゴードンはそれに耳を傾けながら、ただひたすらに歩を進める。

 街の外れの森まで来て、やっとゴードンは足を止めた。

「着いたぞ……きっとここなら見つからない」

そうハルにささやいたが、返事はもちろんない。

 暗い中で目をこらしてできるだけ土の柔らかそうなところを選び、そろそろとハルを下に降ろす。あのキャンバスを手早く背中から外して近くの木に立てかけ、ゴードンも地面に座った。ハルを膝枕するような格好だ。ごつごつとした木の幹を、軍服の背ごしに感じる。

 ほっと緊張の糸が緩み、ゴードンは胸いっぱいに深呼吸した。木の匂い、土の匂い、そしてハルの匂い。思えば、ハルの匂いはナレッジスクールに通っていたあの頃からずっと変わらない。わずかに甘さの混じった、干したての布団のように温かい香り。

「今日の給食のカレー、美味しかったね」

「あのね、うちのクラスのメダカが卵産んだんだよ」

「え、また筆箱忘れた? いいよ、貸してあげるよ」

脳味噌まで筋肉でできているようなゴードンと、運動はからきしだが勉強や芸術のセンスは抜きん出ていたハル。正反対のふたりは、いつもいつでも一緒にいた。何気なく過ごしたあの日々が、今はどうしようもなくかけがえのないものに思われる。

 頭上の幾層にも重なる葉のすき間から、さっと月の光が差しこんだ。美しくきらきらと、ハルの髪が輝く。その銀色が目に染みて、ゴードンはきゅっとまぶたを閉じた。月明かりを宿した透明の玉が、はらはらといくつも頬を伝った。




 「ゴー……ド……」

はっとしてゴードンが目を開けると、辺りの闇はだいぶ薄くなっていた。夜が明けたのだ。

「ここ……ど……こ……?」

ハルがぼんやりとゴードンを見上げていた。顔は唇まで真っ白で、瞳の緑色だけが奇妙なほど冴えていた。

「よかった、気がついたか!」

ゴードンの顔中に安堵の笑みが広がった。

「ここは森だ。ほら、北区の国境寄りの」

「な……んで……?」

「それは」

お前の目が緑だから。見つかったら捕まるから。でも、ゴードンはそれを言えなかった。ハルがウィートかもしれないなんて、どうしても認めたくなかった。

 ハルは不思議な微笑を浮かべて言った。

「絵……」

「ある。ほら」

そう言ってゴードンは腕を伸ばし、キャンバスを引き寄せようとした。自然、彼の視界に絵が入る。その瞬間、戦慄が体中を駆け巡った。狂気すら感じさせる、圧倒的な迫力。燃えるような色合いの街並みに、赤黒く変色した昨晩のハルの「仕上げ」が散る。筆のタッチの怖いくらいの丁寧さと、叩きつけられた血液の荒々しさの対比が、ゴードンの胸を詰まらせた。

「ぼくの……最高、傑作……」

ハルは息を切らし、ひうひうと音を立てた。もう喋るなとゴードンが言おうとしたとき、ハルは意外なほどはっきりと言った。

「謝らなくちゃならないことが……あるんだ」

ハルの目がじっとゴードンを見すえる。奥行きのはかりしれない、深い深い緑の瞳。

「ずっと、隠してた」

ゴードンは感づいた。冷たい恐怖。

「言うな、ハル」

「僕は」

「言うな!!」

ゴードンが叫ぶと同時に、ハルが咳き込んだ。

「コホ、コホゲホゲホゲホッ」

「ハル!」

ゴードンは急いでハルの上体を引き起こし、背をさすった。骨を直に撫でているような固い感触。邪悪な震動が、ハルを食い荒らすものの咆哮を伝えた。

「ごめ、……ゲホ、ゴホガハッ、ぁぐっ……」

たらり、真っ赤な血液が、ハルの口から流れ出す。

「ぐ、ゲホ……ケホッ、……はぁ、もう、大丈夫、ごめん」

何がどう大丈夫だというのか。ゴードンの目からぼろぼろ涙が落ちた。冷静沈着な軍人ゴードンはもうどこにもいない。

「報い、だから」

「むくい?」

「ゴードンたちを、だまして、ずっとウィートと密通してた」

ゴードンが息を呑む。

「ハーブ・パレスの件だって、僕が」

ゴードンの目が大きく見開かれる。

「ころして、ゴードン。僕を、ころして。間に合わなく、なっちゃう前に」

柔らかな優しい声で、ハルはそう言った。ころして。ころして。何度もハルは、そう言った。

「そんな、殺せるわけ、ないじゃないか……!」

ウィートの疑いがあるというだけで少女を捕らえたゴードン。ウィート人だからというだけで善良な人々に銃を向けたゴードン。その彼が、今ウィートのスパイをかき抱いて、殺せないと言って泣いている。

「ゴードンは、とっても、優しいんだね……僕、ゴードンのこと、大好きだったよ……」

どうして過去形で言うんだ。ゴードンは無我夢中で叫ぶ。

「ハル! 今も、好きなんだろ! これからもずっと、好きなんだろ!」

「ゴードン……ごーど……ん……」

ハルの意識が急速に濁ってゆく。

「ハル! 死ぬな! ハル!」

痛いほど白いまぶたが、ゆっくりとハルの瞳を覆う。ゴードンはただただハルの名前を叫び続ける。

「いま、まで……ありが、と……」

こぽり、と小さな音がして、それきりハルは静かになった。




 その後、規制をかいくぐってゴードンがハーブ・パレスに持ち込んだあの絵は、戦争の悲しみを表したものとして非常に高い評価を受け、ハルの名は悲劇の天才画家として一躍有名になった。

 そのおかげもあってか、間もなくサリアとウィートは和平協定を結んだ。しかし、穏やかな日々を取り戻した両国に、その後のゴードンの消息を知る者はいない。

今までお付き合いいただき、ありがとうございました♪

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ