◇4
夜の闇に包まれたサリア国を、ゴードンはゆらゆらと歩いていた。逃げなくては。隠れなくては。彼の頭にはそのことしかなかった。初めて抱くハルの体は信じられないほど軽く、大きめの竹の籠を運んでいるような感じしかしない。背中にくくりつけたキャンバスの方が重いような気さえする。得体の知れない恐怖に、ゴードンは身を震わせた。
あれから一時間近く経ったが、未だハルの意識は戻らない。まだ命があることを伝えているのは、ぜひぃ、ぜひぃという危うげな呼吸音だけだ。ゴードンはそれに耳を傾けながら、ただひたすらに歩を進める。
街の外れの森まで来て、やっとゴードンは足を止めた。
「着いたぞ……きっとここなら見つからない」
そうハルにささやいたが、返事はもちろんない。
暗い中で目をこらしてできるだけ土の柔らかそうなところを選び、そろそろとハルを下に降ろす。あのキャンバスを手早く背中から外して近くの木に立てかけ、ゴードンも地面に座った。ハルを膝枕するような格好だ。ごつごつとした木の幹を、軍服の背ごしに感じる。
ほっと緊張の糸が緩み、ゴードンは胸いっぱいに深呼吸した。木の匂い、土の匂い、そしてハルの匂い。思えば、ハルの匂いはナレッジスクールに通っていたあの頃からずっと変わらない。わずかに甘さの混じった、干したての布団のように温かい香り。
「今日の給食のカレー、美味しかったね」
「あのね、うちのクラスのメダカが卵産んだんだよ」
「え、また筆箱忘れた? いいよ、貸してあげるよ」
脳味噌まで筋肉でできているようなゴードンと、運動はからきしだが勉強や芸術のセンスは抜きん出ていたハル。正反対のふたりは、いつもいつでも一緒にいた。何気なく過ごしたあの日々が、今はどうしようもなくかけがえのないものに思われる。
頭上の幾層にも重なる葉のすき間から、さっと月の光が差しこんだ。美しくきらきらと、ハルの髪が輝く。その銀色が目に染みて、ゴードンはきゅっとまぶたを閉じた。月明かりを宿した透明の玉が、はらはらといくつも頬を伝った。
「ゴー……ド……」
はっとしてゴードンが目を開けると、辺りの闇はだいぶ薄くなっていた。夜が明けたのだ。
「ここ……ど……こ……?」
ハルがぼんやりとゴードンを見上げていた。顔は唇まで真っ白で、瞳の緑色だけが奇妙なほど冴えていた。
「よかった、気がついたか!」
ゴードンの顔中に安堵の笑みが広がった。
「ここは森だ。ほら、北区の国境寄りの」
「な……んで……?」
「それは」
お前の目が緑だから。見つかったら捕まるから。でも、ゴードンはそれを言えなかった。ハルがウィートかもしれないなんて、どうしても認めたくなかった。
ハルは不思議な微笑を浮かべて言った。
「絵……」
「ある。ほら」
そう言ってゴードンは腕を伸ばし、キャンバスを引き寄せようとした。自然、彼の視界に絵が入る。その瞬間、戦慄が体中を駆け巡った。狂気すら感じさせる、圧倒的な迫力。燃えるような色合いの街並みに、赤黒く変色した昨晩のハルの「仕上げ」が散る。筆のタッチの怖いくらいの丁寧さと、叩きつけられた血液の荒々しさの対比が、ゴードンの胸を詰まらせた。
「ぼくの……最高、傑作……」
ハルは息を切らし、ひうひうと音を立てた。もう喋るなとゴードンが言おうとしたとき、ハルは意外なほどはっきりと言った。
「謝らなくちゃならないことが……あるんだ」
ハルの目がじっとゴードンを見すえる。奥行きのはかりしれない、深い深い緑の瞳。
「ずっと、隠してた」
ゴードンは感づいた。冷たい恐怖。
「言うな、ハル」
「僕は」
「言うな!!」
ゴードンが叫ぶと同時に、ハルが咳き込んだ。
「コホ、コホゲホゲホゲホッ」
「ハル!」
ゴードンは急いでハルの上体を引き起こし、背をさすった。骨を直に撫でているような固い感触。邪悪な震動が、ハルを食い荒らすものの咆哮を伝えた。
「ごめ、……ゲホ、ゴホガハッ、ぁぐっ……」
たらり、真っ赤な血液が、ハルの口から流れ出す。
「ぐ、ゲホ……ケホッ、……はぁ、もう、大丈夫、ごめん」
何がどう大丈夫だというのか。ゴードンの目からぼろぼろ涙が落ちた。冷静沈着な軍人ゴードンはもうどこにもいない。
「報い、だから」
「むくい?」
「ゴードンたちを、だまして、ずっとウィートと密通してた」
ゴードンが息を呑む。
「ハーブ・パレスの件だって、僕が」
ゴードンの目が大きく見開かれる。
「ころして、ゴードン。僕を、ころして。間に合わなく、なっちゃう前に」
柔らかな優しい声で、ハルはそう言った。ころして。ころして。何度もハルは、そう言った。
「そんな、殺せるわけ、ないじゃないか……!」
ウィートの疑いがあるというだけで少女を捕らえたゴードン。ウィート人だからというだけで善良な人々に銃を向けたゴードン。その彼が、今ウィートのスパイをかき抱いて、殺せないと言って泣いている。
「ゴードンは、とっても、優しいんだね……僕、ゴードンのこと、大好きだったよ……」
どうして過去形で言うんだ。ゴードンは無我夢中で叫ぶ。
「ハル! 今も、好きなんだろ! これからもずっと、好きなんだろ!」
「ゴードン……ごーど……ん……」
ハルの意識が急速に濁ってゆく。
「ハル! 死ぬな! ハル!」
痛いほど白いまぶたが、ゆっくりとハルの瞳を覆う。ゴードンはただただハルの名前を叫び続ける。
「いま、まで……ありが、と……」
こぽり、と小さな音がして、それきりハルは静かになった。
その後、規制をかいくぐってゴードンがハーブ・パレスに持ち込んだあの絵は、戦争の悲しみを表したものとして非常に高い評価を受け、ハルの名は悲劇の天才画家として一躍有名になった。
そのおかげもあってか、間もなくサリアとウィートは和平協定を結んだ。しかし、穏やかな日々を取り戻した両国に、その後のゴードンの消息を知る者はいない。
今までお付き合いいただき、ありがとうございました♪




