◆3
後半からがクライマックスです。
苦手な方は改めてUターンをお願いします。
その翌日から、ウィート掃討作戦は始まった。ゴードンの班を含む十個の班がサリア国中に散らばり、青や緑の目を持つ者を見かけ次第捕まえる。ごく控えめに言って、この上なく残虐な仕事だ。もちろんゴードンだってやりたくはないが、命令に背いたら何が待っているかわからない。良心の叫びから耳を閉ざし、ただひたすら人々の目を覗いて歩いた。
「おいそこのお前、止まれ!」
ゴードンと同じ班で前を歩いていたジョンが、突然大声を上げる。
「……え?」
怯えた目で振り返ったのは、青空の瞳の少女。
「何だこの目は、水色じゃないか! お前ウィートだな、そうなんだろ! ほらこっちに来い、ぐずぐずすんな!」
「え、わたし違います! サリアで生まれて、サリアで育ちました! お父さんもお母さんも、おじいちゃんもおばあちゃんも……」
「そんなことはどうだっていいんだよ! くだらないこと喚いてないで、とっとと来い!」
「いやぁぁっ!! わたし、わたし本当に違うんです!!」
悲痛な訴えに耳を貸す素振りも見せず、ジョンはぐいと少女の肩を押した。長いブロンドの髪が散り、日の光に哀しくきらめく。顎をしゃくられ、ゴードンは少女の両腕を後ろでつかんだ。別の班員が猿轡をかませている間に、その手首に縄をかける。少女のしなやかな両手は必死に逃れようとするが、ゴードンの力には敵わない。絶望的な悲鳴。若々しい張りを全ての指の腹に感じながら、ゴードンはきつく目をつぶった。
罪人のように綱で引かれていく少女の姿を見送り、ゴードンはちらとジョンに目をやった。普段の彼は、あんな乱暴な口のきき方をする男ではない。案の定、ジョンの目には憐れみと悲しみが浮いていた。
「……俺だって、こんなことしたいんじゃないんだ」
つぶやくように彼は言った。その声に、先ほどまでの獰猛さは全く残っていない。
「あの子がウィートなはずがない。もし万が一、あの子にひとしずくのウィートの血が流れていたとしても、それがサリアにどんな害を及ぼすっていうんだ?」
ゴードンは黙って頷いた。そう、ジョンはこういう男なのだ。青い目の者を前にしたときの彼の声は人一倍大きいが、それは人一倍大きな彼の内なる声をかき消すため。
「俺の目は茶色い。でもそれはたまたま運がよかっただけだ。今日俺たちが捕らえた人たちより俺の方が優れているだとか、そういうことでは全然ないんだ」
ジョンの懺悔の言葉は連綿と続く。ゴードンはそれに耳を傾けながら未だ感触の残る指を組み合わせ、ひたすらハルの無事を祈っていた。
日が落ち、辺りが藍色の帳に包まれると、やっとゴードンたちは本部の小屋に戻ることを許された。木材を適当に組んだだけの粗末な小屋。天井からは石油ランプがひとつ下がり、それが床の真ん中に広げられたサリア国地図をぼんやりと橙色に照らしていた。
「今日掃討を終えたのは、北A区と南C・D区、それに中D区。北B区と東区全域は途中で、残りは手つかず。それで合ってるな?」
掃討班全体を統轄しているウィルソンが、地図に赤い小石を置きながら言った。身を強ばらせて聞いていたゴードンは、ハルの住む北C区が呼ばれなかったことでひとまず胸をなでおろした。しかし、ウィルソンの次の言葉で再び彼はぎくりとした。
「最もウィートに汚染されているのは北区だという情報がある。明日中に、必ず北区の掃討は済ませるように。北区担当の班は、特に丁寧にやるんだぞ」
北区。ハルのいる場所。もしハルが呼び鈴に応えなくても、きっと掃討班はドアを蹴破って中に入るだろう。そして、ハルの深緑色の瞳に目を留めるや否や、紐で引きずって連行するだろう。そうなったら、ハルは? 捕らえられた人々がどうなるのか、ゴードンは知らなかった。強制労働か、最悪の場合ガス室か。どちらにせよ、ハルの熱を持った折れそうに細い体が持ちこたえられるはずがない。ゴードンの脳裏に、花びらのように儚げなあのハルの微笑が浮かんだ。明日。明日……!
解散の号令がかかると、ゴードンは真っ直ぐにハルの家へ向かった。無言でドアを開け中に入ると、振り向いたハルと目が合った。
「ゴードン?」
彼の前にはキャンバス、彼の手にはパレット。油絵の具独特の香りが、家中に立ち込めていた。
「……ハル。大変なことになった」
「ね、ほらこれ、もう出来上がりだよ」
ハルはゴードンの切羽詰まった表情が見えていないかのように、幸せそうに言った。
「絵なんて描いてる場合じゃないんだ。大変……」
「サリアって、ほんとに綺麗な国だよね。僕、この国に生まれられて、よかったなあ」
そこで初めて、ゴードンはハルの様子がおかしいのに気づいた。目の焦点が合っていない。体がぐらぐら揺れている。
「ハル!」
ゴードンはソファーによじ上り、ハルの体を背中から抱きとめた。ハルの手からパレットを取り、イーゼルを足で遠くに押しやる。体温が尋常でなく高い。いつもなら聞こえる微かな喘鳴が全く響いてこないのも、今は不吉にしか思えない。ゴードンは必死に考え、とりあえず水だという結論に達し、ハルの体を一旦ソファーに横たわらせた。
水を持ってゴードンがキッチンから戻ってくると、なぜかハルがふらりとキャンバスの前に立っていた。
「ハル!」
駆け寄ると、ハルは浮かされた目でにこりと笑い、キャンバスを持ってゴードンに向けた。
「いい絵でしょ? これからね、最後の仕上げなんだ」
今のハルは、もはや不気味だった。元々色白の肌は氷の薄膜のように冴え渡り、緑の瞳はこれまでにないほど深く澄んでいた。
「ゴードンに見せてあげられて、よかったなあ」
そう言ってハルはキャンバスを足元の床に置いた。ゴードンは何も言えず、ただ呆気に取られて見ていた。
「ハル……」
その時だった。
ハルの様子が急変したのは。
「……ぁうっ、ゴホゴホゲホゴホッ! ゴホ、ゲホ……きひいいいぃぃっ、ゲホ!」
「ハル!? ハル!? どうした!?」
「ゲホ、ゴッホゲホゴホ、ゲホッひいいいぃぃぃ」
これまでで一番ひどい発作だった。彼の中で何かが崩れてしまったかのように、ハルは爆ぜるような咳を繰り返した。
「ハル! ハル!!」
がくりと膝をついたハルの背中を、ゴードンは必死にさすった。薬はとうになくなっている。医学の心得もない。ゴードンにできるのは、これくらいのことしかなかったのだ。
咳に水っぽい音が混じりだし、ハルは右手をきつく口に当てた。
「ゴッホゲボ、ひいい、ゲボ、ゴボォ……ッ」
熱湯の沸き上がるような恐ろしい音。ゴードンは思わずさする手を止め、ハルの顔を覗きこんだ。
「ゴポ、ゲポッ……」
ハルの白珊瑚のような指の間から、真っ赤な液体が溢れ出してきた。その一部は手の甲へつたい、残りは落ちた。ぼた。ぼたり。重たい重たい音を立てて。あのキャンバスの上へ。ハルの描いた、サリアの街並みの上へ。
「これ、で……かん、せい……」
藁束の倒れるような音を立てて、ハルは床へと転がった。




