10 キモチと距離
特になにがあったわけでもなく、今までイライラしていた気持ちが知らず知らずおさまったり、急にいいことを思いついて気分が明るくなったりする。
そこを通る人々は、気づかない。
それが、その場所、正確に言えばそこにただよう空気のおかげであることに。
そんな場所で、多少のうっとうしさを感じるものがいた。
黒いシャツに黒いズボンを身につけた、少し顔色の悪い少年。
お使いでも行ってきたのだろうか、整った顔立ちに似つかわしくない、スーパーのビニール袋をぶら下げている。
彼は、わずかにだるそうな表情で歩調を速めた。
イヤなところは、さっさと通り過ぎてしまうにかぎる。
でないと。
『そこの小悪魔、止まれ。』
声ではなく、相手の意思だけが頭にながれこんできた。
やはり敵の気配だったのだ、と確かに“小”悪魔である少年は驚きもせず思う。
「なぁんてねぇー、あはは。」
ゆらゆらとどこからともなく声が聞こえ、あまり人気のない通りの奥から、スズキが出てきた。
「何だ、お前か。・・・今、バイトじゃないのか?」
少年とスズキは、お互いを知っている。
それは、敵対関係と言うにはぬるく、友人関係と言うには少しささくれたつきあいだった。
「ああ、・・・あはは、サボり。」
スズキの笑い声は、いつになくうつろだ。
「店に居たってサボってるだろう、お前は。」
まだ子供のくせに、少年は自分のほうが年上のようなクチをきいていた。
少しおかしな光景だったが、スズキはそれに慣れているふうで、たしなめたりもしない。
「そんなことないもーん。つか、もう辞めるつもりだけどね。」
「ホモでも出たのか。」
言って、少年は子供らしくない表情で笑う。
「あ。もー、あーゆーの本トにやめてよね。あれで女の子の友達、ほぼいなくなっちゃったんだから。」
「俺は悪くないだろ?お前を忘れられない哀れなヘンタイオヤジに新しいバイト先を教えてやっただけなんだからな。」
にやにやと笑い続ける少年は、ちょっとした事情で容姿が変化してはいるが、まぎれもなくスズキにホモのオッサンをけしかけた、黒ずくめの男、ケタはずれに背の大きい超キモロン毛野郎だった。
「フザけっ・・・!僕があの人をスキとかウソ教えたろ?マジぶっとばすよ?」
少年が思ったよりも激しく、スズキは怒りを再燃させたようだった。
「ぁー・・・、アレだ、広い意味で?お前がどれだけ人間どもを愛しているか説明したら、誤解したんだ。たしか、たぶん・・・きっと。いや、そんなことよりも、えーと、そうそうバイト!どうして辞めるんだ?いい職場じゃないか!」
大胆に話題を変えようとする少年は、明らかに焦っていた。
軽くからかっただけのつもりだったらしい。
「わっざっとっらっしー!興味もないクセに!」
「ぃや?いやいやそんなことはない。聞きたいなーぁ。スッゴい気になるぅ。教えて?おにーぃちゃん。」
誰かのマネでもしているのか、途中からやや可愛らしくきこえる声を出し、別人のような話し方で甘えてくる。
文句なしに端正な顔立ちをした少年が、あどけなく無垢そのものに見える笑顔でオネガイをしてきた場合、どれだけの人間がそれを無下に断れるだろう。
ましてスズキは、優しさでは国際大会代表選手レベルの男だった。
「くぅ・・・何て顔を・・・」
「おにいちゃん?」
スズキの表情が面白いらしく、少年はわざと甘い声を出す。
スズキは、困った顔でタメイキをつくと、少年のアタマをくりくりなでた。
「きいて、もらっちゃおっかな。キミなら話してもどうせなんとも思わないだろうし、少しはラクになれるかも。」
「何だよ、しゃべりたがってたんじゃねーか。もったいぶりやがって。」
「ほんっとに可愛くないな、中身は。」
「可愛くてたまるか。だがまあ、タイクツしのぎに聞いてやる。お前のしたい話ってのをな。」
「もーちょっと、振り方あるでしょ。もう。」
少しふくれて見せてから、スズキはポツリポツリと話し始めた。
アキヤが“天使”や“悪魔”を感じるチカラに目覚めてしまったこと。
それは、自分が彼の近くにいすぎて影響をあたえたせいかもしれないこと。
だから、彼の安全のために、今までのようにずっとそばで守ることはできない、と。
「アキヤの中には、僕のトモダチが眠ってるって、いったでしょう?二人はもうほとんど一つになってしまっているけど、だからこそ多分、僕はそばに居すぎちゃダメだったんだ。だってアキヤは、あの時から僕に出会うまで、おかしな事とは無縁で生きてきたんだからね。」
語り終えて、スズキが伏せていた目を上げると、少年は夢中で買ってきていたらしいチョコを食べていた。
「ちょ・・・しゃべらせといて、零くんヒドい・・・」
「ヒドかない、聞いてた。残りは、やる。全部バナナ味だから。」
零くん、と呼ばれた少年は、つまらなそうに言うと、フルーツ味の・・・全部バナナ味のクリームが入ったチョコをスズキに押し付ける。
バナナはお好みではないらしい。
「それで、ああやってただよってたワケか。」
「ん、記憶・・・いじっちゃったけど、もし万が一思い出したら、僕も辛いしさ。」
人でない彼らの今の姿、名前は仮のものだ。
正しくは、数ある姿のうちの一つ、と言うべきかもしれない。
気分が明るくなるような“空気”や重苦しい“空気”が彼らの元々の姿。
人が服を着替えるように、彼らは姿カタチを変えることができる。
ただし、本人の性質とあまりにかけ離れた姿を選ぶと、かなり疲れることになる。
いつもジーンズでいる人が、着慣れないスーツを着せられた時のように。
そういった“変身”も、記憶の操作も、いわば一種の魔物である彼らには自然にそなわったチカラなのだ。
スズキはそれらを利用し、アキヤに自分を感じさせないようにして、距離をおいて彼を見守っているのだった。
「で、結局自分から離れておいて、寂しくてショボくれてるってワケか。笑わせてくれてアリガトよ。けどな、“俺ら”みたいなのに敏感になるのが危ないってんなら、素直にそばにいてずっと守るほうが賢いんじゃないか?」
零はそう言って、言葉どおり軽く笑った。
「ぼくは・・・」
言いかけて、スズキは気をまぎらわせるようにチョコを一つクチにふくんだ。
「いつも、守れないんだ。イチバン守りたいと思ったものはさ。守れてたなら、そもそも僕はアキヤと出会ってない。」
アキヤの中に眠る“天使”。
守れなかった、大切なトモダチ。
自嘲気味に笑うスズキを見ながら、零は何かひっかかるものを感じていた。
「いつも、ってどういうコトだ?」
「“彼”の、その前。わからないかな?」
なつかしそうな眼差しは、わずかな悲しみをふくんで見えた。
「・・・」
何かを思い出せそうな気がして、零は黙り込んだ。
けれど、やはりなにもない。
「・・・ねー、本トにこれバナナしか入ってない。」
零の心の中がわかっているように、スズキがチョコに話を戻す。
「だからそう言っただろ。」
「むー、中途ハンパに食べると他の味も気になる。よしこれ買ってみよう!って、あぁヤバい、アキヤこっちくる!じゃね、零くんアリガト!」
話を聞いたことになのか、チョコをくれたことになのか、礼をいいつつ手を振って、あわただしくスズキが駆け出していった。
どこか人目に付かないところで、また空気のように姿を変えるのだろう。
その後姿を見送りながら、零は考えた。
姿を見せない、記憶も消してしまっているのでは、感謝されることはないだろう。
コミュニケーションすら、一切取れない。
永遠に交わらない距離。
なのに遠くから見守って、何かあれば助けようなどと、なぜ思えるのだろう。
そのキモチが、全く理解できなかった。
誰かを大切に思う、という感覚。
それがわからないのは、そもそもそれが取りつくろわれた“偽善”だからじゃないだろうか。
もし、そんなキモチがあるとしても、“悪魔”と呼ばれる種の生物である自分にそれが理解できないのは当然かもしれない、と思った。
自分の中で結論らしきものが出ると、彼も歩き出し、そこから姿を消した。
やがて何も知らぬ少年がやってきて、そこを通る。
トモダチと過ごす、何気ない日常の景色の一部として、通り過ぎてゆく。
少しだけ離れたところにいる、忘れ去ってしまったもう一人のトモダチに見守られて。