続き
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抵抗する気力すら残らぬほど“天使”が傷つくのには、そうたいした時間はかからなかった。
自分より強いものを知らなかった“天使”が、初めて知った敗北だった。
それを経験として受け入れ、やりなおそうとするには、彼の無敗は長すぎた。
長い時間をかけ、彼の中で作り上げられてきたプライドや自信は、まさに今の彼自身のようにズタズタに引き裂かれ、修復の見込みもなかった。
もとより“悪魔”が“天使”を生かしてなどおくはずもない、と彼は思った。
「おキレイな天使様におかれましては、“悪魔”が人との契約で力を増幅させることなど、ご存知なかったかな?…くくくっ」
投げ飛ばされたまま、起き上がることもままならない“天使”の顔を、膝をついて覗き込み、愉快そうに、そして意地悪そうに悪魔は笑った。
そんなことを知らないわけではなかった。
だが、ここまで強い“悪魔”に、たまたま今まで出会ったことがなかったのだ。
彼は、眼を閉じ、黙って訪れるはずの最期を待った。
だが、その“時”はいつまで経っても訪れなかった。
眼を開くと、“悪魔”は消えていた。
それは“悪魔”にとって彼が、とどめを刺すほどの価値すら無いことを意味した。
だが、悔しさよりも、今はあの人間の安否が気にかかった。
気配をたどり、追いかけた彼が見たのは、男の死体。
体から抜け出した生命エネルギーや、残留思念のようなものが、何も感じられず、ただぶらさがっているだけの物体に成り果てているのは、それらのエネルギーを全て“悪魔”が食ってしまったせいだ。
“悪魔”に魅入られた人間を目の前にしながら、守れなかったのだ。
彼の正義、使命感は、その意味を失った。
そして、彼自身の存在意義すらも大きく揺らいだ。
“悪魔”はもうそこにはおらず、ただ気配の残り香のようなものだけが微かに感じられた。
たどって追いつけるような距離には、もういないだろう。
追いついたとして、何ができる?
叫んだ。
気付かぬ内、泣いていた。
もしも彼が、まだ生きることを望むなら、いくらでもそれは可能だった。
傷ついた小動物などの姿で、心ある人間の前に現れるだけでよい。
もとの姿よりも小さく変わることは、比較的エネルギーを節約できるから、今の彼でも何とかできる。
あとは、人間が回復のための力を与えてくれる。
『神様、この子を助けて』
『はやく元気になってね』
他者のための純粋な祈り。
『きっと治してあげるよ』
『守ってあげる』
無償の愛、優しさ。
それは“天使”にとってこの上ない力となるものだ。
ただ、彼にはもう生きたいという意思も、希望も残っていなかった。
罪の意識、無力感、挫折、後悔。
そんなものばかりがぐるぐると渦を巻く彼の心は、死を受け入れ、望み、彼自身をゆっくりと侵食していった。
先ほどまで、人のような確かな質感を持っていた彼の体は、急速に、幽霊のように半透明に透けていき、
彼が、“自分が守っていると思っていた”町に戻った頃には、“視えるタイプ”の人にしか見えない、幽霊そのもののようになっていた。
それから何日もかけて、ゆっくりゆっくりとその存在を少しずつ失いながら、ほとんどの人の意識の外側から、彼は、自分が守りたかったものたちを眺めていた。
今は、児童公園のベンチに腰掛けて、無邪気に遊ぶ子供を眺めている。
このまま消えていこう。
彼は、思っていた。
守れなくて、ごめんな、みんな。
限りある命を、ありったけの力で輝かせることができる、人間。
他者に優しくすることができる、時に自分を犠牲にすることができる、人間。
たいした力もないくせに、大切なものを守ろうとする、人間。
希望を知っている、人間。
おれたちを生み出してくれた、人間。
いろんなものを愛することができる、人間。
おれも、あんたたちを愛していたよ。
あんたたちがそうするように、愛するものを守りたかったよ。
だけど、おれには力がなかった。
もう全てが、見えないカベを隔てた向こう側。
力がなかったその罪で、
自分の守れる以上のものを愛してしまったその罪で、
おれはもう、消える。
自分の意思で消える。
それが、償いだ。
愛しそうに、悲しそうに人を見つめる彼を、“視える”人は霊として恐れたり、関わらないようにした。
それさえも、人の自然な反応であることがわかる彼には愛しかった。
「おまえ、なんでトーメーなの?ユーレー?」
まったく唐突に横から投げられた言葉は、衝撃を持って彼に届いた。
まさか、と思ったが、声の主は、まっすぐに彼を見ていた。
5、6歳くらいの、男の子。
きらきらした瞳は、生命力にあふれていた。
このまま、まっすぐに育てば強く、美しくなりそうな心、他の人より少しだけ優しい魂をもった子供であることが、“天使”の彼にはわかる。
それも環境しだいでは、いくらでも“悪魔”のおいしいエサとなるような、腐った魂に変わりようがあるのもまた事実だが。
とにかく、今のこの子供は、“天使”と波長が合うような無邪気さ、優しさを備えていた。
だから、幽霊のようになってしまった“天使”を“視る”ことができたのだろう。
“天使”は儚げに微笑んだ。
「はは…おれ、もうすぐ消えちゃうんだよ。」
「きえちゃう?」
「そうだな、死ぬってことだ。みえなくなって・・・消えちゃうんだ」
フン!と子供は荒く鼻息を吐いた。
「おまえ、それちっげーよ!」
どんなおかしなことを言うのだろう?
思いがけない反論に驚きながらも、きっと子供なりのトンチンカンな理屈だろう、と、“天使”は期待してしまう。
これが人間と話す最期かも知れないな、でも、だれかと話せてよかった。
そんなことを思いながら。
「死んだって人はきえないんだぞ!みんなのココロにいきるんだよ!」
得意げに、だけど心から信じきっている顔で子供の口から出てきたこのセリフは、おそらくアニメかなにかの受け売りなのだろう。
だけど、確かにこの子供はそれを信じていた。
ぽかん、と口を半開きにして見つめられ、子供は、
おれ、やっちゃった?
カッコつけすぎたかな、と幼い脳みそで考えた。
震える声で、“天使”は、今の自分よりもずっと天使らしく見える子供に
問いかけた。
「じゃあ、おれは、キミの心に生きるのかな?」
子供には、それが笑いを押し殺しているように聞こえ、…ひっこみがつかなくなった。
「いきるよ!」
当たり前じゃん!というように答えたのはそんな強がりもあったが、アニメの中のヒーローを彼は本当に信じていたから。
「そうか、…そうか!ならおれは、キミの心に生きよう!」
両目から、きらきらと光る涙をあとからあとからほとばしらせ、声をふるわせながら“天使”はそう言い、子供を抱きしめた。
「おぉ?!」
子供は少し驚き、小さく声をあげた。
子供を抱きしめながら、体の外側から徐々に“天使”は光になり、ほどけ始めた。
希望も、生きる力もなくした彼に、最期にもう一度与えられた希望。
許してくれるのなら、人の心に生きよう。
人として生きよう。
死んだって人は消えない。
俺は、人じゃないけど、死んで行こうとする俺にそんな優しい言葉を、一生懸命かけてくれたこの子のココロで。
自分の心におれを受け入れてくれた、そんな人間を信じて。
この子が迷うのならば、正しい道を選べるように。
助けたいと思った人を、助けられるように。
希望をなくさぬように。
おれはこの子の力になろう。
だけど、この子がこの子らしさを失わないよう、俺は永遠に眠ろう。
それは、死ぬのではない。
眠るだけ、この心地よい、小さくも広いすがすがしい心の中で眠るだけだ。
絶望は、すでにない。
寂しさも、恐怖もない。
ただただ、希望のみが満ちる。
おれはいつでも、きみと一緒だ…
きみと…
最期の小さな光のかけらが、消えた。
自分を抱きしめていた青年が急に消え、子供は、あたりを見回す。
「あれ?どこいったんだよユーレー!おーい!」
やがて、子供は何の変哲もない普通の少年に育つ。
普通の、“いい奴”に。
(続)




