8 神様なんていないから、僕は
「おい、お前の“守ってる”ってあのガキ、ありゃどうなってんだ。」
低い声でそう投げかけた黒衣の男は、夜明け間際、漆黒から濃い紫色に変わっていく、目覚めはじめた空のグラデーションを写し取ったような、長い髪をしていた。
彼は時に、黒いもやであったり、今のように黒ずくめの大男であったり、時にスズキの古い知人を名乗る者であったりした。
「見たままさ。くわしく話すと長くなっちゃうんだけど、いいかい?」
雲間から差す、帯状の太陽光。
その神聖さを、そのまま まとったような、明るい長い金色の髪をした男、スズキが答える。
彼らは対極をなす性質の魔物であり、その姿もまたそれを象徴しているように見えた。
「別に、そう忙しいわけじゃない。」
その言葉を承諾と受け取って、スズキは話し始めた。
その瞳に過去が映し出されているかのように、どこを見るともない目をして。
◆
天使や悪魔と呼ばれる彼らは、本当は人の心が生み出した怪物だった。
もちろん、人間の信じるそれらとは確かに別物なのだが、その性質は、と言えば、同じようなものだった。
そして、人の心から生まれたが故に、人間が思う天使や悪魔の概念に、その存在を全てではないが、強く縛られていた。
だから、お互い相手を快くは思っていなかった。
となれば、このようなことも起こりうる。
「てめえ、”悪魔”だな?その人から離れろ!」
自信にあふれた瞳をしたその黒髪の青年は、人ではなかったから、同じように人でない敵を気配でかぎわけると、心で話しかけた。
長く人の間にいる彼は、それを言葉にしてしまえば人間からは”ヤバい人”にしか見えないことくらい、人でない身であっても心得ていた。
話しかけられたそれは、ゆっくりと青年のほうへ青白い顔を向けた。
こちらも黒い髪をしていたが、それは異常なほど、十分に不気味さを感じさせるくらいに長く、立ち上る妖気にゆらゆらとゆれているような錯覚さえ起こさせた。
細い眼が淡く、紫色の光をともらせる。
「こいつは、死にたがっている。もう止められん。」
こいつと呼ばれた、土気色の顔をした中年男に、彼らの心でかわす会話は当然聞こえず、雑木林にどんどん分け入っていく。
手にした紙袋には、ロープと、数冊の本。
首でも吊ろうというのだろう。
止めなければ、彼は自ら命を絶ってしまう。
“天使”は焦っていた。
「止まらないかどうか、試してやるよ!」
その背に、まばゆい光がほとばしり出る。
光は翼を形作っており、こうなれば誰が見ても、彼が天使であることは明白だった。
自殺者の目には、それが映らない。
力ない足取りで、だが確実に彼らを置き去りにして、もはや一番近い道路さえまったく見えないほど奥深くへ進んでいた。
“天使”の翼は、彼を引き止めるためのものではない。
素早く羽ばたくように翼が動くと、その羽の一枚一枚が羽ばたきの速度のままに伸び、一瞬前まで“悪魔”の立っていたあたりの地面を、何重にもざくざくと突き刺し、えぐった。
宙に体を浮かせた“悪魔”の背には、コウモリの翼の形に空間を切り取ったような闇が、“無”そのもののように広がっていた。
「おいおい、そう焦るなよ。もっと二人の時間を楽しまないか?“天使”よ。」
愛しい女にでも話しかけるような甘い言葉は、もちろん愛情からではない。
時間を与えれば与えるほど、先ほどの人間が死ぬ確率があがる。
“天使”は答えず、身構えた。
悪魔が、踊るように優雅に体をひねると、回転にあわせて加速しながら、黒い翼が死神の鎌のように“天使”を襲った。
なんとかかわしたものの、その速さ、威力は、“天使”の比ではなかった。
今まで、こんな相手はいなかった。
“天使”は、初めて自分の死というものを意識した。
(続)