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ぼくはヒポポッポ星人

作者: 土屋信之介
掲載日:2026/03/20

(一)


 ベテルギウスは今日も超新星爆発を起こしていない。いつものように、ちゃんと家を出る前に、十五万円もした自慢の反射式望遠鏡で確認してきたから確かだ。それでも、ベテルギウスが気になってしょうがないのは、もはや精神的な病気と言っても言い過ぎではないのかもしれない。

 そんなことをぼんやりと考えながら、ぼくは改めて麻由が寝たら咲羽に自分の正体を告白するつもりだったことを思い出す。久しぶりの車の運転に緊張しながらバックミラーで後部座席をチラリと見た。麻由は、窓の外の景色を眺めながら、「あー、あったよ、まゆの『ま』。こっちには『あ』があった」と覚えたてのひらがなが目に入るたびに興奮気味に口に出している。最近は、まだまだ父親とは言えないが、そうやって話しかけてくれると、親しいおじさんくらいにはぼくのことを格上げしてくれたみたいでうれしい。

 麻由につられて、ぼくも運転をしながら、チラリと窓の外を見てみた。クリスマスが終わった後も、町にはお正月に向けての広告で溢れている。思いのほか、ひらがなは、町中に至る所に潜んでいるようだ。ぼくも麻由と一緒にひらがなを探す。何度も町で見つけたひらがなを教え合っているうちに、麻由にはまだ『を』や『ん』などいくつか覚えていないひらがながあることがわかった。「あっちには『を』があったよ」などとこちらが教えてあげても、『見えない』という独特の言い回しで『わからない』ということをほのめかしている。

 そのうち麻由は、ぼくを相手にすることに飽きたのか、隣でうとうととしている母親の咲羽にもひらがなを見つけたことを教え始めた。娘の気まぐれに眠りを妨げられた咲羽は、いつものことなのだろうか、「うん、うん」と気のない相槌を打ちながら無理矢理眠り続けようとしている。

 その後も、麻由は飽きずに寒空の下厚手のコートを着た人々が行き交う窓の外を見ながら、町中に潜むひらがなを探し続けた。ぼくはそれを聞きながら、安曇野の実家に着くまでの間に、咲羽にぼくの正体を告げなければならないと再び自分に言い聞かせる。そう、これまでどんなに親しい人にも告げたことのない、ぼくの正体を―――。

 これまでは、いたずらに相手の不安を煽るだけだと黙っていた。でも、咲羽とは、これから結婚して、家族になるのである。だから、ぼくのすべてを知ってもらわなくちゃならない。第一、実家の父と母もそれを踏まえた上じゃないと、結婚に賛成出来ないだろう。咲羽がそれをどう受けて止めてくれるのか、話を信じないのか、信じた上でぼくから離れていくのか、色々と想像しただけで気持ちは焦るばかりだけれど、キチンと話せばわかってくれるはず。そう、大事なのはタイミングと真剣さなのだ。

 気が付くと、麻由の声が聞こえなくなっていた。ついにひらがなを探すことに飽きたのか、いつのまには咲羽に寄りかかるように眠ってしまっている。ぼくは、バックミラー越しに町のネオンで照らされるその寝顔をチラリと見ながら、咲羽に似ているなと思った。もちろん、彼女の父親の顔を知らず、あくまで咲羽との比較しかないので、ぼくとしてはそう思い込むしかないのだけれども。


 ぼくが自分の正体を母から知らされたのは、今の麻由と同じくらいの歳のときだった。

「勇吾はね、本当はヒポポッポ星人なの。お父さんがピポポッポ星人でその血を引いてるの」

 最初は何を言われているのかサッパリわからなかった。記憶は曖昧なのだけれど、訳が分からないことを言われたという印象だけはハッキリと覚えている。

 小学生の低学年の頃には、ぼくは自分がヒポポッポ星人であることを自覚していた。母の話によると、ヒポポッポ星人の祖先たちは、聖徳太子が馬小屋で生まれた頃に、地球に住み着いたのだという。少し離れた場所にある、寿命を終えつつある恒星が膨張し始め、その影響で元々住んでいた星が熱せられて住めなくなり、住める土地を求めて遥か宇宙を旅してきたというのだ。

 ヒポポッポ星人たちは、元々は地球人とはだいぶ違った似姿をしていた。でも、超科学技術を持った彼らは、いとも簡単に遺伝子操作装置で地球人の姿形に自分たちを作り変え、さらに地球人との交配を何世代にも渡ってしていくうちに、もはや見た目だけでは地球人とは区別がつかないくらいにまでなったのだという。

 ちなみにヒポポッポ星人には、映画や漫画で異星人がよく持っているような、地球人を支配するような超能力などはない。そもそもそんな話は作り話にしか過ぎず、実際の異性人は、地球人の中に溶け込むことで精一杯で、特殊な能力などを見せびらかしたら、途端に秘密機関の実験台にされてしまうことをぼくたちは良く知っているし、警戒もしているのだ。

 ただぼくたちヒポポッポ星人には、この世知辛い世の中を生き抜くために一つの大きな力があった。それは、人間関係において、地球人よりも遥かに周りの人たちに溶け込む、いわばバランス感覚に優れているという能力だった。おかげで、かつて学校のクラスの中や、今の職場の部署の中では、ぼくはいつも周りの空気ばかりを読み、どうにか大きな災厄に巻き込まれることもなく生き抜いてはいる。その代償として、いつもどこか損な役回りを演ぜられていることは多いけれども。


 車は繁華街を抜け、高速道路に乗った。久しぶりの運転だったので、高速に入る時の車線変更のタイミングに微妙に緊張する。ぼくはゴミゴミとした東京の町中での運転から解放されたことにホッとし、傍らに置いておいたコーラを口に含む。口の中で炭酸が踊り、喉に強い刺激が伝わっていく。後部座席からは、咲羽と麻由の寝息が微かに聞こえてきた。ぼくはこの目の前にある幸せが自分のものであるのだと実感し、こんな自分でもようやく人並みに結婚が出来るのだと思うと、うれしくなった。

 成人男子のうち、五人に一人は結婚出来ない時代になっていた。二十代の頃は、その手のニュースを見ても自分に関係があるとはこれっぽっちも思っておらず、そのうち自分は誰かと結婚し、家庭を築くのだと漠然と思っていた。実際、その頃には期間が短いながらも彼女がいた時期があったし、まだまだ幻想を抱いていられたのだ。

 焦り始めたのは、三十を過ぎてからだった。いつの間にか、周りの視線が「若いからしょうがない」から「三十を過ぎて何やっている?」に変わり、気が付くと、「結婚が出来ないのは問題があるから」というレッテルを陰で貼られるようになっていった。もはや自分で自分を卑下するようにもなっていた。

 三十五を過ぎてからは、イケメンでもなく、年収が高いわけでもなく、しかもヒポポッポ星人である自分などが結婚など出来るはずがないと自分で思い込むようになっていた。ピポポッポ星人でも、かつて父がそうであったように、人間と結婚することは出来るし、子どもも生むことが出来ることは知っていった。もちろん、ヒポポッポ星人としての遺伝子は子どもに受け継がれるのだけれど、代を重ねるごとにそれは薄くなっていくはずであるのだし、何よりも見た目で何かわかるわけでもなく、また日常生活に大きな違いがあるわけでもないので、問題は何もないはずだった。

 ただ自分がヒポポッポ星人である事実は、自分が思っていた以上にこれまでぼくの心を圧迫していたのかもしれない。それはベテルギウスを観測し始めた中学生くらいのころから、何となく自覚していたことだった。コンプレックスとは本来そういうものなのだろうか、仕事に振り回されて何者であるのか分からなくなればなるほど、それはそもそもの自分が持つアイデンティティのせいだと心のどこかで思うようになり、うまく行かないのはすべて自分がヒポポッポ星人だからだと決めつけるようになっていた。

 バックミラーで咲羽の顔を見る。今考えると、もはや「詰んだ」状況の中で咲羽と知り合えたのは、奇跡のように思えた。大学の先輩がやっているクラブでのイベントに行かざるを得ず、そこで出会ったのが彼女だった。お互い騒々しいクラブの環境に馴染めず、隅っこで手持無沙汰になっているうちに、何となく会話をし始めたのだ。確か、足を少し引きずっている咲羽に気を遣ったのがキッカケだった。

「優しいんですね」

 そうだ。そう言われて嬉しかったのだった。

「そんなことないですよ」

 そう謙遜しながらも、顏がほころんでしまったのを覚えている。

「気にしてくれる人って、あんまり少ないんですよ。この足、小さいときに交通事故に遭って不自由になったんですが、事故に遭ったあのときも、みんな素通りして助けてくれなくて。でも、一人だけ助けてくれた人がいた。嬉しかったな」

 ぼくは何でこの人は初対面な人にそんな話をするのかと思いながらも、交通事故と訊いて、思い出したことを彼女に話した。それは、だいぶ前に事故に遭った狸を助けたという話だった。結局、治るまで面倒を見て、山に返してあげたという話だった。

「でも、お金とか、たくさんかかったんですよね。後悔はしなかったんですか?」

「まさか。そりゃ、出費は痛かったけれどね。放っておけないでしょ」

 ぼくがそう言うと、彼女はなぜとても嬉しそうな顔をしていた。

「その狸、恩返しにでも来るといいですね。ほら、鶴の恩返しとか、そういうの、昔話とかであるじゃないですか」

「あはは、じゃあ、狸の恩返しか。いいね」

 そうやって、他愛のない話をしているうちに趣味を訊かれたので、ぼくは素直に望遠鏡で星を観測することだと言った。ヒポポッポ星人であることがいつも心のどこかに引っかかっていたぼくは、ヒポポッポ星人について、もう少し何か知ることが出来ないかと、天文学を独学で勉強し、星についての知識をある程度身に着けていたのだ。子どもの頃、プラネタリウムに行くのが好きだったという彼女は、そんなぼくの話に食いつき、色々なことを教えてほしいと言った。おだてられて調子に乗ったぼくは、あまり詳しくない人が必ず「へえ」と言って驚く話を聞かせることにした。それは、北極星が入れ替わるという話だった。

「北極星って知っているでしょ。真北にある星。みんな、あれは北極星って名前の星があるんだと勘違いしているけれど違うんだ。あれは、正式にはこぐま座にあるポラリスっていう星で、たまたま真北にあって、目印になるから北極星って呼ばれているだけなんだ。それでね、面白いのは、この北極星がそのうちに入れ替わるってこと。地球は二万六千年周期でコマのように首振り運動をして回っているから、今から一万三千年後には真北に来る星は、こと座のベガになるんだ。ほら、七夕で出てくる、彦星と織姫の、織姫の方の星」

 ぼくの話に咲羽は予定通りに「へえ」と言って驚いた。予想外だったのが、そこからスイッチが入った咲羽が、星座ウォッチングについてあれこれと訊いてきたことだった。咲羽は自分がシングルマザーで幼児を育てていること、そして彼女に満天の星空を見せたいと教えてくれたが、そのあとすぐに、実家に預けた子どもを迎えに行くと言って帰ってしまった。子どもとどう関わるかなんてそれまで想像したことすらなかったけれど、なぜか彼女の事情はすぐに受け入れられた。それだけ彼女が気になり、彼女と親しくなるならどうにでも自分を変えられると思ったからだった。

 次の日には、ぼくは「一緒に星座ウォッチングに行かないか」と一か八かで咲羽に訊いておいたSNSのアドレスに連絡をしてみた。意外にも咲羽はあっさりとそれを承諾し、その週の休みの日に一緒に高尾山に行った。そこで初めて麻由とも知り合ったぼくは、内心緊張しながらもケーブルカーで山の中腹まで行き、暗くなるのを少し待ってから見晴らしのいい場所で持ってきた望遠鏡で彼女たちに星を見せてあげた。


 咲羽が軽く咳をした後で目を覚ました。

「今日もベテルギウスを観てきたの?」

 唐突にそう訊ねる彼女に、ぼくは「まあね、習慣みたいなものだから、出発にする前に確認したよ」と応える。

「ねえ、前から訊きたかったんだけれど、ベテルギウスが超新星爆発をしたら、どれくらいの明るさになるの?」

「月がちょうと半分くらいに欠けているときの明るさになるって言われている。昼間でも薄らと見えるかもしれないって」

「へえ、すごい。じゃあ、月が二つになるんだ」

 素直に驚く咲羽の言葉に、「見える大きさが違うので、そういうわけじゃないんだけど」と言いながら、ふと、今がチャンスだと思った。ぼくは何気なく話題を変えて、麻由が町の景色の中でひらがなを探していたことを話しながら、自分がヒポポッポ星人であることをどのタイミングで告白しようかと彼女の顔色をうかがう。

 しかし咲羽は、話が麻由のことになると、急にどこか心あらずと言った様子になった。段々と空気が重苦しくなってきたことを悟ったぼくは、とにかく今は余計な告白などするのは止めようと思い、「どうしたの?」と訊ねる。咲羽は「何でもない」と言って取り繕うように笑顔を見せたが、ぼくが探るように喋っているうちに、次第に子連れの自分がぼくの両親に受け入れられるかどうかが不安なのだとまるで謝るような態度で告白する。ぼくはすでに両親には、麻由のことを告げて了承を得ていることや、ぼく自身も麻由のことをかわいいと思っていることを必死に告げる。

「でもね、たぶん勇吾が考えているよりも、子どもを育てることは大変なの」

 咲羽はそんなぼくの気遣いをまるで否定するかのように言い返した。ぼくは少しカチンときたが、いつものようにポーカーフェイスでやり過ごす。そう、決して感情的にならずに対人関係でバランスを取ることこそが、ピポポッポ星人の一番大事にしている美徳なのだ。

「それはわかっているつもりさ。ただ何分、あまり子どもの世話をしたことがないから、まだわからないことだらけで申し訳ないのだけれど」

 ぼくは出来るだけ謙虚に、相手の感情を害さないように細心の注意を払いながら言葉を選ぶ。

「ごめんなさい。勇吾が麻由のことですごく良くしてくれていることはわかっているの。ちょっと不安になっちゃって」

 ぼくは言い合いになることをひとまず避けられたことに安心してから、ここぞとばかりに「例えばどんなことが大変なのかな? 教えてくれると助かるんだけど」と提案を持ち出す。人の気持ちに寄り添い、相手に出来る限り不満や不安を口にしてもらうことこそが、ヒポポッポ星人が目指す最良のコミュニケーションだ。

「そうね、可愛いだけじゃないし、正直手に余ることだらけだし……それに、何より一人の人間を育てているっていう責任が大きいの。勇吾は子どもの時、人間関係とかで悩んだこと、ある?」

 急に話を向けられて、ぼくは言葉に詰まる。頭の中で、自分がヒポポッポ星人だということで、他の子たちとどう接すればいいのか悩んでいた時の記憶が蘇る。酷い虐めを受けていたわけではなかったが、自分が人と違うことを悟られぬように常に取り繕っていたことが辛かった。

「ないわけないよね。人間誰もが通る道だから。あんまり想像できないかもしれないけれど、そういう人間関係って、もう麻由くらいの歳から始まっているの。おかしな話でしょ。まだあんなに小さいのに。でも、彼女は人形でもなく、れっきとした人間。言葉や物事を覚えれば覚えるほど、他人とぶつかって嫌な思いもたくさんするようになる」

 真剣な面持ちでそう語る咲羽に、ぼくは思わず「麻由ちゃん、虐めにでも遭っているの?」と訊き返す。

「ううん。さすがにまだそれは。でも、あの子、三月生まれだから、色々とね。どうしても四月や五月生まれの子と比べると出来ないことも多いし、いつも遅れをとっちゃうの」

「クラスの中で一番小さいから、自然と序列が下になってしまっているってこと?」

 そう訊き返してから、露骨な言葉を使ってしまったと後悔した。ぼくは、バックミラー越しに咲羽が気分を害していないかを伺う。咲羽は「そうね」と応えると、「生まれた月で悩まなきゃいけないなんて、それまで考えたこともなかった」とため息交じりに呟いた。

 ぼくは「そうだね」と応えながら、自分が、咲羽がいうところの「優位な」四月生まれであることを思い出す。もちろん、咲羽がそんなことを意識して言ったわけではないことはわかっていたが、彼女がそのことを忘れていることがちょっと悲しかった。ぼくは自分が保育園に通っていたときのことを思い出す。四月生まれで得をしたという記憶はおろか、保育園での記憶は断片的にしか残っていない。まあ、得てして得をした側の人間の記憶というものは、曖昧であるというのが世の常なのかもしれないが、とにかくぼくには、生まれ月よりも、自分がヒポポッポ星人であるという事実に翻弄されたという記憶しかない。

「わたしは、九月生まれだけれど、何か麻由が三月生まれで損をしているのをみると、そういえば、何かそういう力関係があったっていうのはわかる気がするの。九月生まれだと中途半端なポジションに立たされるのよね。遅生まれの子たちの『お兄さん・お姉さん』グループに入りたくても中々入れてもらえず、かといって、まだ『赤ちゃん』みたいに映る早生まれの子たちとは一緒にされたくないっていう」

 そこまで言ったところで、咲羽は、「あ、そういえば勇吾は四月生まれだったね」と急に思い出したかのように口にする。

「ごめんなさい。四月生まれが悪いっていう話をしているんじゃないの。どっちがいいとか悪いとかいう話じゃなくて、どこかで線は引かなきゃいけない話だから」

 しどろもどろになって言い訳をする咲羽に、ぼくは「大丈夫、全然気にしてないよ」と気にしていないフリをする。

「まあ、三月生まれでも、考えようっていうのもわかるけれど、でもさ、何かそういう自分でもどうにもならないことが、力関係を生んで、それが支配の形になっていくっていうのは、やっぱりつらいのよね」

 咲羽がまだモヤモヤを解消出来ていないのか話題を変えずに喋り続けた。ぼくは取り留めのない言葉の真意を探ろうと「どういうことかな?」と素直に質問をぶつける。

「頭ではまだ子供だからしょうがないってわかっているんだけれどね、やっぱり遅生まれの子たちが中心になって、自分たちのいいようにみんなを仕切っているのを見ると何かやり切れなくなるの。そういう関係って、意外と大きくなっても引きずるしね。それに麻由は女の子だから、ジェンダー的な差別でも苦労するのも間違いないし。わたしの目が黒いうちに、何とか生きる術を身に着けてほしいの」

 ぼくは咲羽が年寄りみたいな物言いをしていることに気になりながらも、ようやく彼女が言わんとしていることが掴めてきた。

「会社で、あんまり子育てとかに対する理解がないの?」

 咲羽はシングルマザーとして、大きな大学病院で事務員として働いていた。元々は中堅の広告代理店で総合職として働いていたが、未婚のまま子どもを産んだことで、そのキャリアを捨てざるをえず、今は時短勤務でどうにか親子二人暮らしていた。

「どうだろう? 現場の人たちは早く帰ることとかはしょうがないって思ってくれているみたいだけれど、でもやっぱり子どもが病気になって、突発で帰らないといけなくなったり、休まなくちゃいけなくなった場合は、上の人はいい顔をしない。人手不足なのは、会社の責任なんだけれどね」

 咲羽の言葉には明らかに裏があった。彼女は、子育てにおいて、なぜ女性だけがキャリアを諦めなくてはならず、おじさんたちはそういうものだという価値観の中で関係のない顔をしているのかが解せないのだ。そして、それは同時に、ぼくに対して、覚悟を問いただしているのだということもわかった。子ども持つとはいうのは、そんな甘いもんじゃないのだと、あなたはどれだけ助けてくれるのかと、彼女は遠回しに訊いているのだ。ぼくはこの急に投げられた変化球に対して、どう答えるのが正解なのか、勢いでここまで来たものの、自分が本当はそれについてどう思っているのか、悩む。

「ゴメンね、そんな愚痴を言ってもわからないよね」

 ぼくの考えまとまらないうちに、咲羽は、空気がまずくなったのを察して、会話を切ろうとしてきた。慌てたぼくは、反射的に「そんなことないよ」と言い出し、「何かそういうどうにもならない支配の関係ってホント嫌だよね」と感情任せに言っていた。

「前も行ったかもしれないけれど、ウチの会社の社長、確かにお金儲けはうまいんだ。そもそも社員が十人くらいしかいない不動産管理の会社なのに、お金持ちをうまくだまして、ビックリするくらいの利益を出している」

「まあ、利益を出すためならしょうがないんでしょうけど、やっぱりそればっかりっていう社風は嫌ね」

「うん、でも、子どもじゃないから、それは何とか我慢は出来るんだ。我慢出来ないのは、社長が社員のことを全く信用しないで、まるで自分の手足であるかのように思っているところ。この間も、顧問弁護士に促されて、新しいパソコンのソフトを導入したんだけれど、それが酷いんだ。パソコンを密かに監視出来るってやつで」

 勢いよく話すぼくの会話に、咲羽は「何それ、そんなの、あるの?」と目を丸くして驚いた。

「そうなんだよ。それで、ぼくに社員がちゃんと働いていないか監視しろっていうんだ。サボっている奴がいたら報告しろって、まるでスパイみたいなことをやれって」

 ぼくはため息交じりにそう話し、気が付くと愚痴っぽくなっていた。

「それで、どうするの?」

 咲羽が不安そうに訊ねる。

「今のところは、適当にやり過ごしているけれど、そのうち社長にレポートを提出しろだの、何だのって言われると思う。ほかの社員にも相談出来ないし、本当に嫌になっちゃうよ」

 いつもよりも感情的になっていたぼくは、無理に語尾に笑いを含ませ、暗に「心配しないでいいよ」と咲羽にメッセージを送る。咲羽は「そう」と応えながら、まだちょっと納得していない様子だ。ぼくは自分の話をして、咲羽に共感してもらえることで、彼女に少しでも落ち着いてもらおうと思ったのに、逆に彼女の気持ちをざわつかせてしまったことに後悔する。ぼくは、話題を変えようと頭の中を巡らし、楽しい話題はないかと探したが、頭の中に浮かんだのは、「ヒポポッポ星人」だった。そうだ。忘れていた。今こそ、ぼくがヒポポッポ星人であることを告げる最大のチャンスだったんじゃないか。

「あ、あのさ、実はぼく―――」

 ぼくが緊張気味に話し始めたそのタイミングで、突然麻由が泣きながら起きた。慌てて「どうしたの?」と訊く咲羽に、麻由は「おしっこのする夢を見たの」と訴えていた。

「それって、おしっこがしたいってことじゃないの?」

 ぼくは出鼻を挫かれたショックを隠すように、努めて冷静にそう投げかかる。寝ている時におしっこがしたくなると、おしっこをする、またはトイレを探す夢を見るのは、多分すべての生き物に通じる習性だ。咲羽は「そうなの? おしっこなの?」と麻由に訊くと、麻由は「うん」と泣きながら呟いた。「もらしていないよね?」と麻由を問いただす咲羽の声を聞きながら、麻由の答えを注意深く訊く。「シートが汚れたらどうしよう」とか「清掃代は、保険がきくのだろうか」などと余計な不安が頭の中で駆け巡る。

「ゴメン、とにかく近くのサービスエリアに入ってくれる?」

 麻由がまだもらしていないことを確認するや、咲羽はまるで部活の熱血キャプテンのごとく、ぼくに指示を飛ばしてきた。


(二)


 運よくサービスエリアには五分ほどで着き、麻由は、足を引きずって歩く咲羽に連れられてどうにかトイレに駆け込んで行った。ぼくは、寒さに震えながら、トイレの前で彼女たちが出てくるのを待っている。すでに中央道をかなり走ったので、とっくに山梨県に入っていた。大きな規模のサービスエリアだということも手伝ってか、ちょうど夕食時だったので、かなりの人で賑わっている。ぼくは自分が吐く白い息を煩わしく思いながら、トイレのすぐ横にある建物に目をやる。建物の中には、レストランやフードコート、それに土産物売り場があるのが垣間見られた。寒かったので、早く中に入って温まりたかったが、咲羽と麻由を置いて、一人で中に入るのは何となく気が引けた。

 ぼくはジャンバーのポケットに両手を突っ込みながら、小刻みに体を震わせ、結局ぼくがヒポポッポ星人であることを咲羽に告げらなかったことに落ち込む。タイミングが悪かったと言えばそれまでだが、その前にいくらでも話すチャンスがあったのに、会話の流れで思わず感情的に仕事の愚痴っぽいことを言ってしまったのは、ピポポッポ星人らしからぬミスだった。でもチャンスはまだあるだろう。

 ぼくは空を見上げ、南の方に顔を向ける。一等星や二等星が数多くあり、特徴的な筒の形をしたオリオン座はすぐに見つかった。筒の形の、向かって左上、星座で言うと、オリオンの右肩に位置し、赤みを帯びて輝いている一等星がベテルギウスだ。ぼくは中学生になってお年玉で小さな望遠鏡を買ったその日から、晴れた夜には必ずベテルギウスを観測している。それは、「寿命が近くなった近くの恒星が膨張したために母星が熱せられ、それが故にヒポポッポ星人が地球にやってきた」と母が言っていたことを覚えていたからだった。ただいくら母を問いただしても、そもそも星座についての知識がまったくない母には、その目印となる膨張した星がどれであるかは分からなかった。寿命が近い、赤色超巨星や赤色巨星は、日本から見えるだけでもいくつもある。その中で、ぼくがベテルギウスを選んだのは、この星が唯一いつ超新星爆発を起こしても不思議ではない状態にあるからだった。それはもはやロマンに近く、地球上の誰よりも早くこの目で見たいという気持ちが強かったからかもしれない。ぼくはベテルギウスが爆発するのをこの目で目撃すれば、自分がヒポポッポ星人であるという事実も一緒に消えてなくなるんじゃないかと思い込んでいたのだ。


 咲羽に連れられて、麻由が出てきた。ちゃんとおしっこが出来たみたいで、落ち着いた顔をしていた。何やらソワソワしている咲羽が「わたしもトイレに行きたい。混んでいるから時間がかかるかも」と言って麻由をぼくに託す。ぼくは中で待っていると言って、麻由を隣の建物の中に連れて行く。

 建物の中は温かかった。ぼくは目ざとくフードコートの中に空いている席を見つけ、麻由を座らせる。「何か飲みたいものがある?」と訊くと、麻由は元気に「ソフトクリーム!」と叫ぶのだった。「寒いから止めなよ」と言っても、言うことを訊かず、対応に困ったぼくは、その場しのぎに安易に麻由にソフトクリームを買い与える。

 ぼくは口の周りを白くさせながら美味しそうにソフトクリームを舐める麻由を見て不思議に思った。つい最近まで、自分とは何のつながりもなかった子どもが、ぼくの子どもになろうとしているのだ。確かに咲羽の言う通り、その重大性をぼくはちゃんと認識していないし、深くも考えてもいない。麻由は可愛いし、何となくうまくやっていけそうな気はするけれど、彼女の将来のことも漠然としかイメージ出来ない。

「ねえ、むかしたぬきをたすけたってほんと?」

 麻由がいきなり訊いてきた。

「お母さんから訊いたの?」

「うん、すごいっておもったって」

 ぼくはそんな何気のないエピソードが咲羽の心を掴んだのかと、思いがけない話に思わず顔をニヤニヤとさせる。

「あのね、まゆちゃんね、きのうのくりすますでしったんだけど、さんたさんってわるいんだよ」

 ぼくはもう少しそのときの咲羽の様子などツッコんで訊きたかったが、麻由はあっさりと話を変えた。どうして、こういきなり話題を変えるのかと、振り回されることに辟易としながらも、ぼくは、笑顔で、「サンタさんが悪いの? どうして?」と訊ねる。

「だって、さんたさんって『おまえ』っていうんだよ」

 ……意味が分からない。これまでもまだまだ言葉が拙い麻由と話していると、言っていることが分からず困ってしまうシチュエーションが多々あったが、だいたいそういう時には咲羽がいて、うまく対処してくれた。でも、今はその頼みの咲羽がいない。

「サンタさんは、『おまえ』なんて言わないんじゃない?」

 ぼくはここでこそヒポポッポ星人としての神髄を発揮せねばと、言葉を探りながら満面の笑みを浮かべて訊ねる。

「だ・か・ら、『おまえ』っていうの!」

 麻由は泣きそうになってそう訴えた。まずい。非常にまずい。ぼくはどうにかコミュニケーションをとろうと、麻由が言っていることの意味を探ったが、どうしてもなぜサンタさんが「おまえ」と呼ぶのかわからないし、そもそもなぜ「おまえ」が悪いのか、もっと言えば、とっくに過ぎたクリスマスがなぜ「昨日」なのかさっぱり分からなかった。そんなことをグルグルと考えているうちに、麻由はさらにぐずり始め、もはや泣く一歩手前まで来ている。泣かしてはならない。泣かしてはならない。

「麻由ちゃん、今日行くところはね、星がたくさん観られるんだよ。ほら、この間話した、麻由ちゃんが好きなうさぎ座とか、きりん座とか、比較的暗い星座も晴れてれば観られるんだ」

 ぼくはどうにか話題を変えよう試みたが、「そういうこと言ってるんじゃないの」と麻由はあっさりと拒絶する。どうすればいいのかと必死に考えたぼくは、困った挙句に「何かほかに食べたいものある?」とモノで子どもを釣るという大人として最低な行動に出た。麻由は、そんなぼくの後ろ暗い行動を非難しているかのように、ついにわんわん泣き出す。困った。ぼくは、懸命に宥めようとするが、何をどうすればこの状況を変えられるのか全然わからない。これではヒポポッポ星人の名前が聞いて呆れるではないか。

「サンタさんが『おまえ』って言ったのを聞いたの?」

 ぼくは麻由の顔を見ながらゆっくりとそう訊ねる。

「だから、きのうのくりすますで#$%?~%#&%$!」

 途中から何を言っているのかサッパリわからなかった。しょうがなく訊き返すと、さらに逆ギレされてもはや収拾がつかなくなった。頭の中で、さっき咲羽がしきりに「子どもを育てるのは大変だ」と言っていたことが思い出される。麻由は容赦なく泣き叫んでいた。段々と周囲の人たちがこちらに気がついてきて、ぼくはまるで幼女誘拐犯でもあるかのような冷たい視線を八方から浴びせられた。麻由は「ママがいい! ママがいい!」と繰り返し叫んでいる。完全に思考停止になったぼくは、遠くの世界を見つめていた。「らん、らんらららんらんらん……」と「風の谷のナウシカ」で歌われた子どもの歌声と共に、麻由と少しずつ距離を詰めていった日々が走馬灯のように現れる。気に入られようと必死だった。確かに最初は人見知りをされ、しばらく名前も覚えてもらえず、いつも「あのおじさん」と目の前にいるのに「あの」をつけられたりしていた。でも、次第に「あのママと仲のいいおじさん」→「ママと仲のいいおじさん」→「おじさん」と出世魚のように格上げされていき、ようやく名前で呼んでもらえるようにもなり、覚束ないながら会話もするようになっていた。うまくいっていると思い込んでいた。モノを買い与えることでごまかしていることは多かったが、それなりに距離間をつかみ、将来のお父さんとして認められていると勝手に思い込んでいた。ぼくはまた頭の中で咲羽が「子どもを育てるのは簡単なことじゃない」と言っていたことを思い出す。何となく何とかなると考えていた自分の浅はかさに苛立ちを感じ、「何が人とのバランスを取ることに長けたピポポッポ星人だよ」と自分を激しくなじる。

「どうしたの?」

 咲羽が息を切らせながら、ようやく自分たちを探し当てたという感じで近寄って来た。その姿は、天上から遣わされた天使のように見える。泣き続ける麻由をあやす咲羽に、ぼくは何があったのかを正確に伝えた。咲羽は冷静にゆっくりとした口調で麻由に何を言いたかったのかを訊ねた。麻由は拙い言葉でポツリポツリと言葉をつなぐ。麻由が「お鼻の赤いトナカイさん」「サンタさん」「お前」と言ったところで、咲羽は「あー」と何かがわかったような顔をして笑った。ぼくは「どういうこと?」と咲羽をまるで名探偵コナンを見るような目で見て訊ねる。

「『真っ赤なお鼻のトナカイさん』よ。クリスマスの歌。ずっと歌っていくと『暗い夜道をピカピカのお前の鼻が役に立つのさ』っていう歌詞があるでしょ。そこでサンタさんがトナカイを『お前』って呼んでいるからいけないって言っているの。保育園でお友達を『お前』って呼んじゃいけないって言われているからね」

 そんなのわかる訳がない。ぼくは脱力し、必死になって何を分かろうとしていたのかと咲羽に感づかれない程度に軽くため息をつく。

「でも何で急にクリスマスなんだろうね。『昨日のクリスマス』って言ってたけど」

「それは、まだ時制の振り分けがよくわかっていないからよ。過去はみんな『きのう』、未来はみんな『あした』っていうの」

「そうなんだ」としか言いようがないぼくは、苦笑いを噛み締めながら、改めて麻由を見た。さっきまで泣き叫んでいた怒りはどこへやら、もうケロッとした顔をしてペロリとソフトクリームを平らげていた。ぼくは内心恐る恐る「おいしかった?」と訊ねる。麻由はやはり何事もなかったかのように「うん、おいしかった」とおうむ返しした。

「時々ね、この切り替えの早さを羨ましいと思う時があるの」

 ぼくの心内を読んだのか、咲羽がそう呟く。

「そうだね。しかも、こうやってあまり後を引かない方が生きていく上で正しいような気もするしね。人間、歳を食ってあれやこれやと考えていくうちに、自分の気持ちが一番になっちゃって、頭一つでも人よりも先に出ようとして、それを認めたくなくてグズグズとしてしまう。何でだろうね」

 ぼくがそう投げかけたところで、「ねえ、もう行こう」と麻由が言い出した。ぼくたちが難しい話を始めると嫌になって飽きてしまうのはいつものことだった。


 ぼくたちは再び車に乗り込んだ。気分が変わったのか、麻由の機嫌は良く、車が発進してからも保育園で習った歌を咲羽に向かって歌い続けていた。歌詞はところどころうやむやで、日本語にさえなっていないところがあったが、咲羽はそれを指摘せず、一緒に楽しく口ずさんでいる。知らない歌が多かったが、咲羽にとってはいつも聴いている歌で、きっともう馴染みのある歌であるのだろう。ぼくは麻由との関係が何となく元に戻ったことにホッとしながら、どこか寂しさを感じていた。それはこの先本当に父親としてやっていけるのかという不安からくるものであったのと同時に、やはり咲羽と麻由にはしっかりとした絆があるのに対し、自分はどこまでもこの二人にとっては新参者で、カレーライスに付け足された「らっきょう」のような存在でしかないような気がしてしまったからだった。事実、今のこの構図は、ぼくは仲の良い母娘を乗せた「運転手」のようなポジションで、ぼくが出来ることと言えば、二人の様子をバックミラーで伺うくらいだ。

 どんどんとネガティブ思考になっていく自分が抑えられなくなっていた。頭の中では、「運転手」と「らっきょう」という単語が優雅にワルツを踊っている。大人げないと思いつつも、心のどこかでもしかしたら自分は利用されているだけなんじゃないかという疑惑が浮かんで離れなかった。咲羽の愛を疑ったことはない。でも、そもそもモテ期など都市伝説でしかなかったぼくには、自信を持ってそう言い切れる根拠がなく、考えれば、考える程、どうして咲羽がぼくを選んだのかが分からなくなり、自分が今何をしていて、これから何をしようとしているのかもよく分からなくなっていた。

 いつの間にか、咲羽も麻由も再び眠りに落ちていた。孤独感がさらに増し、脳内での「運転手」と「らっきょう」のワルツは、次第に激しいサルサダンスへと変わっていく。ぼくは、自分がヒポポッポ星人であることを思い出し、そのDNAの力を持ってして、どうにか気持ちを落ち着かせようと躍起になるが、気持ちのざわつきはなかなか収まらない。

 そして、結局またしても咲羽にヒポポッポ星人であることを伝えられなかったことを思い返して悔やんだ。仕方なく安曇野の実家についてから、どうやって咲羽と麻由のことを紹介しようかとシミュレーションをしてみるが、それ以前に、そもそも父や母の顔を自分がハッキリと覚えていないことに気がついてショックを受ける。

 実家に行くのは、実に五年ぶりだった。五年前も、従兄弟の結婚式でたった一日帰っただけだったので、もうだいぶ父とも母ともまともな会話をしていなかった。別に取り立てて仲がいいわけでもなかったが、仲が悪かったわけでもなかった。ただ大学を卒業して会社に入ったのを機に、駆り立てられるように実家を出ただけだった。実家も実家で、それまでは板橋区にあったのに、いつの間にか父が早期退職をして、何の相談もなく二人して安曇野に行ってしまった。以来、ぼくが安曇野の両親の家に行ったのは片手で数えるほどしかない。それは多分、安曇野の家にぼくが住んだことがあるわけじゃないからで、それが実家だという認識があまりなく、またフラッと行くには遠かったからだった。

 車は山梨から長野に入った。高速は空いていて運転がしやすく、予定よりも早く着きそうだった。くさくさした気持ちを紛らわそうと、ぼくはラジオを点ける。DJが届いたハガキを読み、それにコメントしてから、音楽が流れるというありがちな番組が流れていた。ぼくは最初こそそこで選曲された音楽を聴こうとしていたが、頭の中ではどうしても過去の自分を考えてしまい、自分がどうしてこのような人生を送っているのかと不毛なことをグルグルと悩んでは、記憶の断片を重ね合わせていた。

 父親はヒポポッポ星人で、その血を受け継いでいると母から言われたぼくは、ヒポポッポ星人として密かに人間社会に溶け込み、それなりにうまくやっていた。虐めに遭うこともなく、そこそこの成績で、そこそこの大学に入り、そこそこの会社に就職して、そこそこの給料をもらっている。人生に明確な目的を持ったことはなく、とにかく目の前の環境に馴染むことが一番大事で、周りとうまくやっていれば、それなりに楽しく過ごせると信じていた。決して怠けていた人生ではなかったと思う。でも気が付いたら、何もない、ただ冴えない人になっていた。でも神様は、こんなぼくにでも最後の最後で咲羽と出会わせてくれ、ぼくに家庭を築くチャンスをくれたのだった。ぼくは、自分がそれなりに自分の生きてきた道のりに不満を覚えていないのだと自分で自分に言い聞かせ、ほかには可能性がなかったのだと、思い込もうとした。これといって目立った才能がなく、図抜けて頭がいいわけでもなく、イケメンでもない。そんなぼくがそれなりに生きるには、ヒポポッポ星人のDNAを最大限に生かして、バランスを取って生き残っていくしかなかったのだ。

 ふと、両親はそんな風に育ったぼくをどう思っているのかと気になった。存在感が薄く、高度成長期の人間らしく家庭に積極的に関わろうとしていなかった父は、たぶんあまりそこのことを考えてはいないように思われた。聞いたことはなかったが、彼もぼくと同じで、目の前の仕事に勤しむことで精一杯で、ヒポポッポ星人らしく、会社でバランスを取り、そして家庭では母との関係でバランスを取ってどうにか生き抜いているだけなのだ。問題は母だった。正直、この母がよく分からない。物心ついた時には、家の中心が母であることは疑いようもなかった。彼女は、不在の父よりも、物静かな姉よりも、誰よりもよく喋っていた。彼女が何を喋っていたのかはあまり覚えていないが、ただ、あまりに内容がないことをベラベラと喋るが故に、ぼくはいつも彼女の話を聞き流していたという感覚の記憶だけがあり、何となく彼女の話を聞きたくなかったということだけは覚えている。

 ぼくはもう一度、母の顔を思い出そうとした。記憶の中にいる母は、ものすごいケチだという事実だけだった。しかもそれは家計を節約するといった涙ぐましいタイプのケチではなく、何かとお金やモノを要求する、欲深いタイプのケチだった。実際、ぼくも少ないお小遣いから、やれお弁当代だの、部屋の掃除代だのと、何かとお金を毟り取られていたし、大学生になってスーパーでバイトをし始めると、売れ残った食材を持って帰ってくるようにと、何度も頼まれた。ぼくは、母のケチった態度が咲羽や麻由にもぶつけられるのではないかと案じた。そして、それと同時に母が常日頃、割とデリカシーのない発言を他人にすることが多いことを思い出し、咲羽と麻由に余計なことを訊きやしないかと不安になった。

 高速を降りて、安曇野の町に入る。何日か前に雪が降ったのだろうか、道の脇に所々雪が残っていた。バックミラーで後ろを見ると、麻由はまだ寝ていたものの、いつの間にか咲羽は起きており、窓の外に見える安曇野の町を、口元を少し緩ませながら眺めていた。ヒポポッポ星人であることを告白するビックチャンスだった。それはハッキリとわかっていたのだけれど、言葉がなかなか出ない。それは他ならず、ぼく自身の心が不安に苛まれているからだった。頭の中では、もはや母の物言いに閉口し、気分を悪くしている咲羽の姿ばかりが想像されて、何をどう言い訳をすればいいのかと、そのことばかりを考えてしまっていた。なぜ咲羽と麻由を実家に連れて行き、両親に紹介しようなどと思いついてしまったのだろう? 勢い余って何も準備をせずにここまで来てしまった自分の浅はかさが腹立たしくてしょうがなかった。


(三)


 両親が住むログハウスは、町の中心から少し外れた林の中にあった。車から出ると、木々の合間に見える空には満天の星が覗かせている。南の空に目を向けると、輝くベテルギウスも赤い光を放って星々の中で存在感を表わしていた。すでに山のすそ野のあたりだったので、周りにはほとんど電気がなく不気味な雰囲気が醸し出されていた。鳥や動物が闇の中で動く気配も感ぜられる。まるで異世界に踏み込んだような気持ちになっていく。ぼくは少しでも怖さを誤魔化そうと、視線を前に向けた。ログハウスが暗闇の中にちょこんと建っていて、まだ真新しく、周りを残雪が白く彩っていることもあり、ちょっと幻想的にも見える。ぼくは寒さに堪えながら、寝ている麻由を抱えて、ログハウスの玄関に向かい、インターホンを押す。咲羽はぼくの隣で荷物を抱えながら、キョロキョロと周りを伺い、緊張のためだろうか、少し顔を強張らせていた。

 玄関が開き、母が顔を覗かせた。彼女は笑顔でぼくの顔を見るなり、「あら、お帰り、早かったわね」と言うと、すかさず「あなたが咲羽さんね。こんにちは」と咲羽を値踏みするような目で見ている。ぼくは、母や自分のイメージよりも少し老けたことに内心驚く。

「御世話になります、長谷川咲羽です。よろしくお願いいたします」

 咲羽は丁寧にそう言うとペコリと頭を下げた。ぼくは二人のやりとりに、言葉には感ぜられない違和感を覚えたものの、とにかく麻由が重たくて腕が痛み、早く彼女を下ろして、布団の上で寝かしてやりたかった。ぼくは靴を脱ぐなり、まずはぼくたち三人が寝泊まりすることになる客間に行った。六畳の部屋には三人分の布団が予め敷いてあり、部屋の一番手前に敷いてある布団の上に麻由を寝かした。

 それからぼくたちはリビングでお茶を飲んだ。母が温かいお茶を淹れてくれ、父はただニコニコと笑っている。久しぶりに見る父は、母以上に老けていた。まだ七十ちょっとのはずなのに心配になるほどヨボヨボで、その割にすでに世の中に対して何のわだかまりもないといった様子で、まるで仙人のような雰囲気を醸し出していた。

 キッチンにお茶を取りに行くと、ついてきた母に小声で「一泊五千円でいいから。子どもは半額ね」と笑顔で言われる。たぶん冗談などではなく、本気で言っているのだろう。小声でぼくだけに言ってくるだけまだマシだったが、母が何も変わっていないことにガッカリする。

「それで、お子さんのお父さんとは何があって別れたの?」

 三人で食卓を囲むように座ると、母は何の躊躇もなく、禁断の質問を口にした。ぼくは恐る恐る咲羽の顔を見る。咲羽は少し顔を引きつらせているようだった。麻由の父の話は、ぼくも詳しくは訊いていなかった。それは咲羽が話さないというよりは、ぼくが訊くのが怖かったからで、真実を訊くことによって感情が揺さぶられるのを避け続けていたからだった。ぼくは、恐怖と好奇心でゴチャゴチャになった気持ちをどうにか抑えつけながら、必死に理性を働かせて「言いたくないことは言わなくてもいいよ」とフォローする。

「あら、ダメよ、大事なことなんだから。お互い、ちゃんと知った上で、信頼関係を築かないとね」

 母は、そんなぼくの努力を一瞬で打ち消した。やはり母は、少し老けただけでそれ以外は何も変わっていない。ぼくは「でも」と言いかけ、反論しようとする。大人になったぼくが一味も二味も違うところを母に見せつけなければいけない。

「いいの。お義母さんの言う通りよ。わたしも、家族になるなら、ちゃんと話さなきゃいけないと思う」

 しかし咲羽はそう言うと、ぼくの言葉を遮ると、毅然とした態度で、麻由の父のことを話し始めた。咲羽の話によると、麻由の父は、会社の取引先の担当者であったという。その男は、咲羽よりも十歳ほど年上で、仕事が出来、尊敬出来る人物であったからこそ交際に発展したのだという。問題は、男が既婚者であるということだった。交際を始めてからそれを知った咲羽は悩み、何度も別れを切り出したものの、男が妻とは別居状態で近い将来離婚すると言い張るので、ズルズルとそのまま関係が続いて行ってしまったんだという。

「でも、結局彼は奥さんと別れる気なんて最初からなかったんですね。麻由がお腹の中に出来たってわかった時、わたし、うれしくって直接彼の家の近くまで行ったんです。それで、ちょっとだけ呼び出して、直接伝えられたらなって」

「電話をしたの?」

 話の先を早く訊きたいのか、母は急くように訊ねる。

「電話はダメだって言われていたんですけれどね。そしたら、彼、すごく困惑していて迷惑そうで。妊娠したことを告げたら、下ろしてくれって言われました」

 咲羽は感情を冴えながらそう言うと、それでも一つの命として宿った麻由を下ろすことは出来ず、一人で育てることに決めて、彼女を生んだという話を話した。あまりに咲羽が言葉を紡ぐのに必死だったので、話し終えた後で、神妙な空気が流れた。ぼくとしては、ざっくりは訊いていた話であっても、改めて詳しく話されるとやはり微妙にショックを受け、麻由の父親に言いようのない怒りを感じた。どうにか気持ちを落ち着かせ、咲羽を慰めようと言葉を探す中で、目の前に座っていた母が、「それで、慰謝料はいくら貰っているの?」と唐突に訊ねたので仰天した。

「そんなのどうでもいい話じゃないか!」

 さすがに怒ったぼくは、母に食ってかかる。

「大事なことよ。だって、これから家族になろうって言うのに、そういうことはちゃんと知っておかなきゃ」

 何が問題なのかと言わんばかりの態度でそう言い返す母に、ぼくは言葉を詰まらせ、「この女を何とかしてくれ」という想いを込めて、母の隣に座る父の顔を見る。父は、ただ「まあまあ」と言いながら、さっきまでと同様にニコニコしているだけだった。ぼくは情けなく思った。これがバランスを取ることに長けるピポポッポ星人なのかと思うと腹立たしくてしょうがなく、自分の存在までも否定されたような気がした。

「ゴメンなさい、それが、貰っていないんです」

 そんなぼくの怒りを感じ取ったのであろう。咲羽がその場を収めるように慌てて答える。

「貰っていないって、一円も?」

 母は驚いた様子で訊き返す。

「はい。子どものためにはお金を貰うべきだったとも思うんですが、意地になっちゃったんですよね。だから、認知もしてもらっていないんです。すみません」

 咲羽は、謝らなくてもいいのに頭を下げ、ぼくの両親に理解を求めた。父は相変わらずニコニコしているだけで何も語らず、母は露骨に不満そうな顔をしながら、何か言いたげに口を尖らせている。咲羽はバツの悪そうな顔をして居心地悪そうにしていた。ぼくは咲羽の立場を挽回すべく思案を巡らせた。彼女のいい部分をとにかく羅列するか、それとも麻由がどんなに可愛くて、嘘でもぼくにすごく懐いていると言い切るか。あれこれと考えているうちに、ぼくは、咲羽ばかりが弱みを告白しているこの状況こそが一番問題なんじゃないかという気になってきた。まるで査問委員会のように、咲羽だけがあれこれと訊かれるのはフェアじゃない。ぼくはもはや少し俯き加減になってしまっている咲羽に目を向ける。彼女に「何か両親に対して訊くことはないか」と促そうとしたが、それがいかに無茶ぶりであることは、微かに目に涙をためている彼女の顔を見れば明らかだった。どうすればいいのか。再び考えるぼくの頭に浮かんだのは、「今こそ自分がヒポポッポ星人であることを告白する絶好のタイミングなんじゃないか」という今日一日中頭の中でグルグルと回り続けていたはずの考えだった。今、そのことを咲羽に話せば、今度は、うちの家族が秘密を喋ることになり、少なくとも咲羽との関係をフィフティフィフティに持っていくことが出来る。そう結論付けたぼくは、深呼吸を一度してから「実は……」と切り出そうとする。

「実は、わたしも話があるの」

 そんなぼくの言葉と重ね合わせるように母が喋り出した。母の方が、声が大きく、当然咲羽も母に注目する。ぼくはまさかの展開に驚いた。まさか、母からヒポポッポ星人のことを話してくれるとは思ってもみなかったからだ。ぼくはもしかして母のことを誤解していたのかもと後悔しながら、母の言葉を待つ。

「わたしね、癌なの」

 そして思いもよらない言葉を母の口から聞かされて、文字通りぼくは言葉を失った。隣で咲羽も何をどう言ったらいいのかわからない顔をしている。父だけは最初から事情を知っているようで、やっぱり腹立たしいほどニコニコと笑っている。母は、動揺するぼくと咲羽を尻目にどんどんと自分の話を続ける。彼女の話によると、患部は大腸で、すでに手術を終え、腫瘍はすべて切り取ったのだという。

「それで、この間、病理の結果も出たの。上皮内癌っていってね、初期の癌だったから何の問題もなかったんだけれど、頭に来たのは、上皮内癌じゃ、がん保険がおりないっていうの」

 母はそれから契約を理由に保険料を頑なに払ってくれない保険会社に対する怒りを爆発させた。母の言い分によると、そんな細かい契約の内容まで見る訳なく、ちゃんと説明しない方が悪いとのことだった。ぼくはそんな母の文句を聞きながら、腸を煮え切らせていた。なぜここまで自分の話しかしないのか。なぜいつも他人を自分のペースに巻き込むことしか考えず、他人が何をどう考えているのかを何も考えないのか。ぼくは、自分がかつてどういう気持ちで実家を出たのかを思い出した。ぼくは母といると、自分の話が全くできず、自分が自分でなくなってしまうような気がして嫌だったのだ。

「もういいよ!」

 ぼくは声を荒げる。他の三人が驚いた顔をしてこちらに視線を向ける。

「手術してもう大丈夫なんだろ。じゃあ、それでいいじゃないか」

「良くないでしょ。すごくお金かかったのよ」

 母はぼくの態度に戸惑いながらも負けまいと言い返す。

「お願い。ちょっと落ち着いて。お義母さんも辛かったんだよ。死ぬかもしれないって、考えなきゃいけないって、結構しんどかったと思うんだ。自分がいなくなったあとのこともどうしても考えちゃうし」

 咲羽はまるで自分のことを語っているかのような口調でそう言う。どうしてそんな悲しげな顔をするんだろう。ぼくは咲羽の態度を訝しげに思いながらも、一度火が付いた感情の爆発を止められない。

「それは分かるけど、でも、初めて将来奥さんになる人を連れてきたんだぞ! なのに、どうして、さっきから何でお金の話ばっかりするんだ!」

 ぼくはそう言い放つと立ち上がり、「もう寝る」と言って部屋を出て行こうとする。去り際に、ずっとニコニコとしていた父が初めて顔を引きつらせているのが見えた。母は「待ちなさい」と騒いでいる。廊下まで出てきたところで、「すみません」と謝っている咲羽の声が後ろから聞こえた。


 麻由が眠る部屋に戻って来たぼくは、とにかくもう寝ようと思った。パジャマに着替え、麻由とは反対側の部屋の一番奥に敷いてある布団の中に入ったところで、咲羽も部屋の中に入って来る。

「ああいう言い方を良くないよ。でも、わたしを守ってくれようとしたんだね。ありがとう」

 咲羽はそう言いながら含み笑いをする。ぼくは咲羽がぼくの気持ちをわかってくれたことにうれしさを感じながらも、今さらながらにヒポポッポ星人のくせに感情的になってしまった自分が恥ずかしく、彼女の前でどんな顔をしていいのかわからずに、ただ布団の中で「ゴメン」と応える。

「別に謝ることはないよ。わたしもゴメンね。もっと色々なことをちゃんと話しておけばよかった」

 ぼくはただ「ううん」と言うことが精一杯で、頭の中で咲羽が喋っていた彼女の過去のことを思い出し、麻由の父親に対して再び怒りを募らせる。布団の外では、咲羽が着替えている音が微かに聞こえ、続いて電気が消える音がする。咲羽が隣の布団に入る音が聞こえてからは、窓の外の風の音だけが目立って聞こえていた。久しぶりに長時間運転をしたので、思いのほか疲れていたのだろうか、すぐに眠くなってくる。ぼんやりとした意識の中で見た夢は、子どもの頃の話だった。麻由と同じくらいのぼくは、保育園でほかの男の子たちのグループが遊んでいるのに入れてもらえずに泣いていた。ずっと忘れていた記憶だった。四月生まれで、誰よりも体が大きかったのに、ぼくがそんな目に遭っていたのは、こうたろうのせいだった。ぼくよりも体が大きかったこうたろうは、何かと言うとぼくに突っかかり、ぼくを仲間外れにした。言葉を覚えるのが遅かったぼくは、彼に何を言い返せばいいのかがわからずに、一方的にハブられる毎日だった。悔しくて、でもその感情をどうしていいのかわからないぼくは、家に帰ると時々泣いていた。それを見た母が、「何があったのか」と訊ねてくる。ぼくは答えらず、ただ泣き続けるだけで、そのうちに癇癪を起す。そんなぼくに、母は言うのだった「勇吾は、本当はヒポポッポ星人なんだ」と。

 風の音が聞こえる。ぼんやりとしていたが、意識がうつらうつらと現実に戻ってくる。ガサゴソと何かがしきりに動く音が聞こえた。ぼくは寝返りを打つように音の方に体を向け、薄目で音の正体を確かめる。隣で寝ていたはずの咲羽が立ち上がり、コートを羽織って、部屋を出て行くところだった。ドアが閉められてから、ぼくは手元に置いていたスマートフォンで時間を確認する。十二時を少し過ぎたところで、布団に入って寝てから一時間ちょっと過ぎていた。きっとトイレにでも行ったのだろう。そう思い込もうとしたものの、なぜ彼女はわざわざコートを羽織って出て行ったのかが解せず、バタンという玄関が閉まる音が遠くに聞こえてきてからは、もはや疑問が不安に変わり、ぼくはすっかりと目を覚ました。ぼくは軋む体を無理矢理起き上がらせて、とにかく窓の外を見る。そこには確かにコートを着た咲羽が足を引きずりながら家を出て行く姿があり、今にも林の中に消えようとしていた。なぜかこのまま咲羽と会えなくなってしまうじゃないかと思ったぼくは、慌ててコートを羽織り、麻由が熟睡しているのを確認してから部屋を出て行く。


 外に出ると一段と寒くなっていて、今にも雪が降りそうな感じがした。ぼくはとにかく咲羽が消えて行った方に歩を進ませ、目を凝らして彼女の姿を探す。やがて数十メートル先に誰かがいるのが見えた。背中を向けていたが、それは明らかに獣のようだった。ぼくは息を殺してその獣に近づく。獣は人間だった。さらに近づくと、それが咲羽だとわかった。何をどう見間違えたんだろう。ぼくは自分の目を疑いながら、彼女の背中に声をかけようとしたが、彼女が誰かに電話をしようとしているようだった。彼女の声が微かに聞こえる。

「うん、無事に着いた。それが、まだ彼がヒポポッポ星人であるってことを告白してくれないの」

 その言葉に驚いたぼくは、思わず立ち止まり、木の陰に隠れる。なぜ彼女がぼくの心内を知っているのか。ていうか、なぜ彼女がヒポポッポ星人のことを知っているのか。

「どうやらお父さんがヒポポッポ星人で、母親は地球人みたい。うん、うん、そのへんはわかっている。わたしも早く自分がピムール星人であることを伝えなきゃって思っている」

 ピムール星人!? 咲羽が一体何を言っているのかがサッパリ分からなかった。冷静になろうとしても頭が働かず、ついには足元がフラついてしまい、枯葉を掻くように蹴ってしまってザクッという音が静寂を破った。咲羽が振り返りビックリした顔でこちらを見る。ぼくは苦笑いを浮かべながらやむなく近づいていく。

「それじゃ、またあとでね」

 咲羽は電話をそう言って慌てて電話を切ると、「実家の両親に電話をしていたの」と笑顔で話す。ぼくはつい二週間ほど前に結婚の挨拶をするために埼玉の草加市まで会いに行った彼女の両親の顔を思い浮かべる。二人ともいかにもその辺を歩いていそうな普通の初老の夫婦で、人当たりがよく、孫の麻由を溺愛していた。あの二人がピムール星人などという謎の宇宙人であるとはどうしても思えない。いや、それ以前に咲羽やそしてその血を受け継ぐ麻由までもが。

「出て行くのが見えたから、どうしたのかなって」

 とにかくぼくは何も聞かなかったフリをしてやり過ごそうとする。下手な波風を立てないことは、ヒポポッポ星人がバランスよく生き抜いていくための鉄則だ。そう、ヒポポッポ星人としての……。

「ゴメンね。起こしちゃったんだ。寒いから早く戻ろう」

 咲羽は何事もなかったかのように戻りかける。ぼくはすれ違う彼女の腕を掴み、「話があるんだ」と告げていた。意識とは別に、とっさに出た行動だった。切り出した瞬間に、後悔したが、もう止められなかった。顔が強張り、声が少し裏返っているのが自分でもわかる。

「どうしたの? 怖い顔しちゃって」

「いや、あの、その、いきなりこんなことを言ったらビックリするかもしれないけれど、ぼくは地球人じゃないんだ」

 咲羽は表情を変えずに、ただぼくの顔を見ている。破れかぶれになったぼくは、自分を必死に鼓舞しながら続ける。

「本当はヒポポッポ星人っていう宇宙人で、元々の祖先は聖徳太子の時代にやってきた宇宙人なんだけれど、代々遺伝子を操作して姿を変えて存在しているわけで、あれ、ええと、何を言おうとしていたんだっけ……とにかく早く言わなきゃって思っていたんだけれど、ゴメン、騙すつもりじゃなかったんだ」

 そこまで言い切ったところで、ぼくはへつらうような笑みを浮かべ、彼女の言葉を待つ。これまで経験がしたことがないほど心臓がバクバクと脈打っていた。

「やっと言ってくれたね」

 咲羽は笑顔で確かにそう言った。笑われたり、否定されたりしなかったので、正直ホッとはしたけれど、頭の中で色々な疑問が滝のように溢れ出てくる。

「知っていたの?」

 ぼくは恐る恐る訊ねる。

「まあね。だって、わたしもピムール星人だから」

 さらりとそう言ってのける咲羽に、ぼくは「えっ」と言葉を詰まらせるしかない。

「ふふ、ていうのは、嘘。ゴメンね、そうでも言わないとなかなか告白してもらえないと思ったから」

「じゃあ、さっきの電話は」

「誰にもかけていないわ。勇吾が追いかけてくるのを分かっていたら、一芝居打っただけ」

 ホッとしたような、馬鹿にされているような気持になり、さっきまで緊張していた体中の力が抜けていく。

「付き合い始めた頃から毎晩のように寝言で言っていたのよ。『ぼくはヒポポッポ星人としてバランスを取らなきゃいけない』とか『ヒポポッポ星人としてのDNAを最大限に活かさなきゃいけない』とか」

 恥ずかし過ぎて今すぐ死にたくなった。そんな寝言を毎晩言っていたなんて。

「最初は全然意味が分からなくて正直困惑したんだけれど、そのうち、これは本当のことなんだって思い始めたの。本当のことだから、この人は、毎日寝言で言ってしまうほど、深く悩んでいるんだって」

 咲羽の言葉に思わず目頭がジワッと熱くなり、涙がこぼれそうになる。

「でも、わたしからそれを指摘するのはダメでしょ。わたしはあなたからそれを言って欲しかった。これから家族として生きていく上で信頼してほしかったの」

 咲羽はそう言って笑顔を見せる。月明かりに照らされた彼女の笑顔は、どんな星の輝きよりも美しかった。ぼくは何かを言おうとするが、適切な言葉が見つからない。ヒポポッポ星人なのに、といつもの思考になりかけたところで、何か自分の中にある、根本的なものが崩れ、細胞レベルから自分が別の生き物になったような気がした。ぼくはただ自分の苦しみを分かってほしいだけだった。弱音を誰かに吐くことで、自分が何者であるのかを知り、気持ちを楽にしたいだけだった。

「本当は心のどこかではわかっていたんだ」

 ぼくはそう口走りながら、無意識に思ってもみなかった言葉が出てきたことに驚く。咲羽は笑顔のまま、ぼくが話し続けるのを待っている。ぼくは生まれて初めて、自分の言葉を喋ってもいいんだという気持ちになる。

「本当は自分がヒポポッポ星人なんかじゃないってこと。母が苦し紛れに行った嘘だっていうこと。でもぼくは、その嘘を本当だと思い込むことで、冴えない自分を誤魔化して、どうにか生きてきたんだと思う」

 ぼくには、ずっと本音を話せる人がいなかった。誰も冴えない自分の話なんか聞いてくれないと思い込み、人はみんな、結局は一人で生きているんだから、そういうものなんだと思っていた。ただ自分が孤独であることを自分で認めることは辛かった。母の言う通り、自分がヒポポッポ星人だと思い込む方が遥かに楽だった。

「お義母さんはたぶん、悪気があって嘘をついたんじゃないわ」

 咲羽は柔らかい口調でそう呟く。

「わかっている」

 その言葉は本当だった。ずっと前からわかっていることだった。

「麻由ちゃんのおかげで、確信を持ったよ。子どもにグズられてどうしょうもなくなると、得てして大人は罪のない嘘をつく」

 咲羽は、ぼくの言葉にクスリと笑う。ぼくは目に薄らと溜まる涙をこぼれさせまいと、空を見上げた。木々の間に星空が広がっているのが見えた。咲羽が手を握ってくる。冷たい手だった。少しでも温かくなるようにと、ぼくは空を見上げたままその手をギュッと握り返す。本能的に南の方向に顔を向けた。オリオン座はすぐに見つかった。ベテルギウスはいつものように赤く輝いていた。


(四)


 目を覚ますと、すでに陽が昇っていて窓の外から差し込んでいた。幸せな夢を見たような気がした。一瞬、自分がどこにいるのか分からず、自分がどこの誰なのかもはっきりしとしなかったけれど、頭が働いてくるにつれて、ちょっとずつ現実を思い出し始める。そうだ、ぼくは両親の家に昨日来たのだった。なぜわざわざ正月でもお盆でもないのに、来たのだろうかと思ったが、その理由が思い出せない。ただ何となく、誰かに促されてきたような気がする。ふとその誰かに見られているような気がしたけれど、部屋には誰もいなかった。

 朝ごはんは、母が毎朝見ているという朝ドラを見ながら両親とぼくの三人で食べた。ドラマでは、シングルマザーの女性が小さな女の子と孤軍奮闘しており、その彼女が信頼出来る男性と出会って、結婚を前にお互いに心を揺らすシーンが演じられていた。

「何か、昨日、ヘンな夢を見たわ」

 母がドラマを観ながら喋り出す。

「あなたがお嫁さんになる人を連れて来るの。しかもその人には、このドラマと同じように小さな子どもがいて」

「何だよ、その話、ドラマの観過ぎなんだよ」

 ぼくはそう言いながらも、自分が昨日見た夢も確かそんな夢だったような気がしてきて、不思議な気持ちになった。

 ドラマを観終わったあとは、母はひたすらに世間のゴシップ話を並べて、妙なテンションでおどけていた。父はただニコニコと笑っているだけだった。いつもだったら、苛立つ光景なのに、今日は少しだけ二人を優しく眺めることが出来た。どこか心が軽くなっており、気持ちが楽になっているように思えた。

少し休んでから、東京に戻ることにした。ここにいてもこれ以上何もすることがなく、用事がすべて済んだ気がしていた。ぼくは、たぶん、自分を見つめ直すためにここに来たのだと思う。

 両親に送られて、家を出た。車に乗り込もうとしたところで、少し離れたところで親子の狸がこちらをじっと見ていることに気が付いた。なぜか心がとてもざわついた。自然と足を狸に少しずつ近づかせていった。枯葉を踏み鳴らす音が聞こえるや、二匹の狸は慌ててぼくから離れるように逃げていく。大きな方の狸は足が悪いらしく、足を少し引きずらせていた。


 早朝だったので、高速道路は空いていた。さっき見た狸の親子のことが未だに気になってしょうがなかった。来るときに立ち寄ったサービスエリアを通り過ぎようとした時、車の中に気配を感じた。ぼくはバックミラーに視線をやる。後部座席に、女性と小さな子どもが笑顔で座っているのが見えた。二人が誰なのか分からない。でも、見覚えがあるというか、懐かしい感じがした。ぼくは二人のことを思い出そうと、前方に注意しながらも後ろに振り返る。後部座席には誰もいなかった。バックミラーにももう誰も映っていない。心臓がドキドキする。嫌な感じじゃない。でも、何て言うのか、寂しい感じがする。ぼくはそんな気持ちを逸らそうと、ラジオを付けた。ラジオから、軽快な流行りのポップミュージックが流れ始める。そして曲が終わった後で、DJがニュースを読み上げた。ベテルギウスの爆発が確認されたと。DJはそれが何のことやらわかっていない感じで、話を適当に終わらせて、次の曲の紹介を始める。ぼくはなぜか止めどなく溢れてくる涙に戸惑いながら、ただひたすらに前だけを見ていた。

 

〈了〉

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