第1話 震える勇者と、勘違い魔王様
「……帰りたい。今すぐお家に帰りたい」
魔王城の最上階。 重厚な扉が開かれた瞬間、僕――勇者ヒイロ(18)の心は、すでに折れていた。
目の前に広がるのは、闇に沈む広大な玉座の間。 そして、その奥に鎮座しているのは、人類の天敵。 最強の魔王、リディアだ。
銀色の長い髪が月明かりに煌めき、宝石のような真紅の瞳が、じっと僕を見下ろしている。 美しい。絵画のように美しいけれど……それ以上に、圧倒的に怖い。
(ひ、ひぃぃぃ……! 足が……足が勝手に震えるぅ……!)
ガタガタガタガタ。 膝が笑うどころか、全身が制御不能なバイブレーションを起こしている。 無理もない。だって僕は、村のくじ引きでハズレを引いて、生贄同然に送り出された『最弱』の勇者なのだから。 スライムからは逃げ惑い、薬草採取ですら指を切る。 そんな僕が手に持っているのは、聖剣なんかじゃない。
村のみんなに無理やり持たされた、ファンシーな『籐のバスケット』だ。
(あぁ、目が合った……殺されるっ!)
玉座のリディアが、スッと目を細めた気がした。 まずい。機嫌を損ねたら、即座に黒焦げだ。 僕ができることなんて、趣味のお菓子作りくらい。 せめて、このバスケットの中に入っている『手作りクッキー』と『ハーブティー』を差し出して、許しを請うしかない!
(い、今だ……! 死ぬ気で謝るんだ、僕!)
僕は意を決した。 震える手でバスケットを突き出し、ありったけの声を張り上げる。
「これでっ! 勘弁してくださいぃぃぃぃ!!」
城内に響き渡る、僕の情けない絶叫。 ……あぁ、終わった。きっと怒られる。 そう思って、僕はギュッと目を瞑り、衝撃に備えた。
けれど。
「――――ッ!?」
いつまで経っても、攻撃魔法が飛んでこない。 恐る恐る目を開けると、そこには信じられない光景があった。
魔王リディアが、口元を手で押さえ、なぜか頬をほんのりと赤らめていたのだ。 そして、熱っぽい瞳で僕を見つめている。
(えっ……? なに? なんで顔赤いの? 怒りすぎて血圧上がっちゃったの!?)
混乱する僕をよそに、リディアが玉座から立ち上がった。 カツン、カツンとヒールを鳴らして、ゆっくりと近づいてくる。 僕は腰が抜けて、ぺたんとその場にへたり込んでしまった。
「あ、あわわ……」 「……見事だ。その覚悟、しかと受け取ったぞ」
え? 覚悟? なんの? 命を差し出す覚悟ってこと?
リディアは僕の目の前にしゃがみ込むと、バスケットの中からクッキーを一枚、つまみ上げた。 ウサギの形をした、僕の自信作(ただし形は不格好)。 彼女はそれを、パクりと口にする。
サクッ。 静寂の中に、クッキーの砕ける音が響いた。
「……甘いな」 「ご、ごめんなさい! お砂糖入れすぎちゃって……!」
やっぱり不味かったんだ! 殺される! 僕が頭を抱えて縮こまると、ふわりと優しい声が降ってきた。
「バカ者が。……私の胸が、甘く疼いていると言ったのだ」
「……へ?」
胸焼けってこと? 僕が呆気にとられていると、リディアは不意に微笑んだ。 それは、世界を滅ぼす魔王の顔じゃなくて、まるで恋する乙女のような……。
「気に入ったぞ、ヒイロ。お前のその……熱烈な求婚、受けてやろう」
「…………は?」
きゅう、こん? 今、この人なんて言った?
僕がポカンと口を開けている間に、リディアは僕の手を取り、強引に立たせた。 そして、その小さな手を、自分の両手で包み込んでくる。 魔王の手は、思っていたよりもずっと温かかった。
「これより、貴様は私の『専属』だ。……一生、私のためにその甘い菓子を焼き続けるがいい」
「え、あの、僕の命は……?」 「安心しろ。貴様の命も、心も、すべて私が責任を持って貰い受けてやるからな」
満面の笑みで宣言する魔王様。 涙目で固まる僕。
(神様……どうやら僕の言葉、なんか致命的に間違って伝わっちゃったみたいです……!)
こうして。 僕の『決死の命乞い』から始まる、勘違いだらけの魔王城生活が幕を開けてしまったのだった。




