タイトル未定2026/01/04 18:52
昼間の診療が終わり、マスターは診察室で、パソコンのモニターを眺めながら、入力をしていた。
背後から、父親の声が聞こえた。
「一緒に暮らしている、子供は元気か?」
大門のことか。
マスターはキーを打つ手を止めず、答えた。
「元気だよ」
「机とか、揃えたのか?」
「おまちさんと相談して、買わないことにした」
「買わないのか?」
「勉強なんてリビングでやればいいし、大きくなれば机なんて邪魔になるだけだし」
「ランドセルは……」
「もう四月だよ。揃えたに、決まっているだろ」
そこまで言った時、マスターのキーを打つ手が止まった。
「今更、なんだよ?」
「気になって、聞いてみただけだ」
歩きかけた父親を、マスターは引き止めた。
「ねぇ」
「なんだ」
「母親は、優しくて綺麗な人だと看護師長から聞いた。ボクは、母親の名前しか知らない」
父親は腕組みをして、天井を見上げた。
そして視線をマスターの背中に戻すと、ゆっくりと言った。
「ジェシカは、優しくて綺麗だった。そして、物静かで繊細な女性だった」
そう言った父親は、マスターが受け持つ診察室から出て行った。
父親がいなくなりマスターは、パソコンをスリープ状態にして立ち上がった。
診察室を出て、待合室を横切ろうとすると、待合室ではブラインドが下がった大きな窓に向けて、緑が伸びをしていた。
「緑さん、まだいたんですか」
「今から、休憩よ。先生も、今から休憩?」
「はい」
「院長が珍しく、先生の診察室に入って行くのが見えたけど」
「大門のことを、聞かれました。今更、なんだって言うんだ」
愚痴りながら、マスターは待合室の長椅子に座った。
緑も、マスターの隣に座った。
「院長、奥様を亡くしてからずっと働きづめで、先生には見向きもしなかったからね」
そうだった。
ボクは、幼い頃から父親に背を向けられていて、怖い人と言う印象しかなかった。
それが原因で、いつの間にか父親と確執ができてしまった。
「実の息子には見向きもしないで、余裕ができた今、他人の子供に目を向けるんですか」
緑は笑いながらマスターの背中に手を回し、肩を軽くたたきながら言った。
「もぉ、スネルな、スネルな」
マスターの肩を軽くたたきながら言った緑は、そのままマスターの肩に手を置いた。
マスターは、思わず笑った。
「良かった!先生が笑ってくれて。この数日間、ずっとぼんやりしていたから、気になっていたのよ」
マスターは何も言わず、遠くを見つめているだけだった。
「先生、奥様のお墓参りに行ってる?」
「緑さんと、行ったきりです」
「奥様、先生が来るのを待っているわよ」
「落ち着いたら、大門と一緒に行きます」
「そうしてあげて。奥様、喜ぶわ。お店の名前……」
「はい?」
「ジェシカ……奥様の名前ね」
「はい。店を出したのも、店の名前を母親の名前にしたことも、何も報告していません。大門と一緒に行ったら、報告します」
緑はマスターの肩に回した手で、マスターの頭をそっとなでた。
それはまるで、母親のように。
「いいこ、いいこ」




