第1話 知性への矜持
20XX年7月5日 11:00 JST
東京都文京区 東京大学安田講堂
記念講演「量子型汎用人工知能の拓く地平」導入より
「人類は知性への矜持を捨てるときが来たのかもしれない」
高くそびえるレンガ造りの外壁と、重厚なアーチを備えた正面玄関。
かつて学生運動の舞台にもなった歴史的建造物──東京大学・安田講堂の内部は、今や静謐な空気に包まれていた。
天井は高く、音の反響が残る講堂内。
世界中から集まった学術関係者と、一般公開された席に座る学生や市民たちの視線が、壇上に立つひとりの人物に注がれていた。
百瀬陽一。
量子機械学習の先駆者にして、現在まで最前線で使われている量子機械学習アルゴリズム『MIWアルゴリズム』の生みの親として知られる、世界的に著名な研究者である。
彼は壇上中央に立ち、背筋を伸ばしたまま、ゆっくりと一呼吸を置いた。
静まり返る会場に、マイクを通した低く穏やかな声が響く。
「テクノロジーとは能力の外部化だ」
壮年の風格を湛えた落ち着いた佇まいの中に、研究者としての冷静な熱意を宿した眼差しで、百瀬は会場を見渡した。
「人類の最古の発明といえば『火』が挙げられるだろうが、人類にとって火を扱えることは、他の動物への威嚇手段以上の意味があった」
「すなわち消化を助けるという意味だ」
スクリーンには火を囲む古代人の壁画が映し出されている。
「火で調理された肉を食べることによって、人類は生肉よりも効率よくタンパク質を摂取することができた。その結果、胃は小さくて済んだ。そして、消化に必要だったエネルギーの一部を、大脳という新しい器官へ──より高次の処理へと、リソースとして割くことができた」
「つまり、人類にとって『火』は消化器官の外部化だったと言える」
壇上を少し歩き、ゆっくりと観客を見渡す。
観客の多くが、身を乗り出すように聞いていた。
「他にも、食料を得るため他の動物を攻撃するのには、素手よりも槍や弓矢の方が効率的だっただろうし、部族での決まり事を頭の中で覚えて言い伝えていくよりも、壁やパピルスに書いた方が堅牢な情報伝達が可能だっただろう」
「同様に、人類は皮膚や体毛の拡張として服を作り、口と耳の拡張として電話を作り、目の拡張として眼鏡や顕微鏡や望遠鏡を作り、脚の拡張として自動車を作った」
スクリーンに「道具」「文字」「衣服」「眼鏡」「車輪」などのイメージが次々と現れる。
「そうやって自らの能力を拡張することによって、人類は他の動物を凌いできた」
「人類は、テクノロジーという『外装』を手に入れたのだ」
そこで少し間を置き、会場の静けさの中で言葉を一つひとつ、かみしめるように発した。
「では、『人工知能もそうだ』……と言えるだろうか?」
会場に張り詰めた空気が走る。
博士はスクリーンにAIの脳神経網の図を表示しながら、静かに続ける。
「確かに人工知能は『知性』の外部化だと言えそうだ。……だが、今回ばかりは少し事情が違う」
「なぜなら人類が今までテクノロジーという外装を発明してこれたのは、『器用さ』と『創造性』、すなわち人類自体の『知性』に依るところが大きいからだ」
「人類は他の動物よりも知性が優れているからこそ、テクノロジーを生み出してこれた」
一歩、講堂中央へと歩みを進める。
「それが、我々人類の『知性に対する矜持』だ」
「今、その知性自体を人類は拡張しようとしている」
「そうなれば、テクノロジーの進歩の速度はこれからさらに増していくだろう」
スクリーンには、ムーアの法則を示す指数関数的な上昇カーブが映し出される。トランジスタ密度、計算能力、AIの処理速度──すべてが右肩上がりに急激な成長を描いている。
「これは素晴らしいことを語っているように思えるが、必ずしもそうではない」
「なぜなら人工知能は、『道具』というにはあまりにも扱いづらい代物からだ」
会場の空気が一層張り詰められる。
「自動車の発明で自動車事故が生まれたのとは話がちがう。なぜなら、我々はその危険性や限界を正しく評価することもできないからだ」
彼の声が、少し低く、重みを帯びる。
「それでもおそらく人類は、この技術を諦めることはしないだろう」
「私たちは一度手にした技術を捨てられない」
「近い将来、我々が今まで大事に抱いてきた『知性への矜持』を捨てる時が来るだろう」
「そうなった時、我々は我々の進化の手綱を自らの手に握ったままでいられるだろうか?」
講堂は、物音ひとつしない静寂に包まれていた。
誰もが、博士の次の言葉を待っている。
観客席のカメラをまっすぐに見つめ、舞台上からの照明に目を細める。目尻に浅い皺が寄る。
彼は最後に、少し声のトーンを落として、静かに結んだ。
「その答えは、人類が持つもう一つの能力、テクノロジーよりも古い起源を持つ『ある能力』に掛かっているのかもしれない」