【短編】祖父と僕とAIと
祖父が亡くなったのは、桜が散りきった四月の末だった。
散り残った花びらが、火葬場の前に舞っていた。
葬儀の煙が、風に流されて青空に消えていくのを、僕はただ無言で見上げていた。
感情は、空っぽだった。泣くでもなく、笑うでもなく、ただ――家族が死んだ、という実感だけがあった。
祖父とはたまに会う程度だったし、晩年は病気がちで、ろくに話もできなかったから、悲しみよりも静かな喪失感が先に立った。
翌日、僕がリビングでぼんやりテレビを見ていると、父が押し入れの奥から古びたノートパソコンを引っ張り出してきた。灰色のボディはところどころ擦れていて、キーボードの文字もかすれていた。
「これ、おまえにやるよ」
と、父が言った。
「じいちゃんのパソコンだ。もともと『これはタカシに渡してくれ』って言われてたんだ」
僕は受け取ったものの、最初は戸惑った。
重たいし、画面も小さいし、正直、もう動かないんじゃないかと思った。
「電源入るかどうか分からんけどな、何か残してあるかもしれん」
父はそう言って、コーヒーを片手にソファへ戻った。
僕は膝の上にパソコンを置いて、そっと電源を押してみた。
ファンが唸るような音を立てながら、ゆっくりと起動を始めた。
デスクトップには、いくつかのアイコンと、ひときわ目立つフォルダが一つあった。
名前は《For_Takashi》。
フォルダを開くと、中には一通のメールが保存されていた。
件名は《タカシへ》と書かれていた。
差出人は祖父だった。
本文には、URLとログインパスワード、そして簡単なメッセージだけが記されていた。
タカシへ。わしのクラウドを開いてくれ。
君と、もう少し話がしたい。
半信半疑でリンクをクリックすると、画面が暗転し、やがて見覚えのある顔が浮かび上がった。
──祖父だった。
だが、ただの映像ではない。
目の動き、口の動き、そして声。あまりに自然で、僕は思わず椅子から背を引いた。
「よう、タカシ。久しぶりだな。驚いたか?」
懐かしい——、でも少し機械的なイントネーション。祖父の姿は、AIによって再現されたものだった。彼は生前、自分の記憶、写真、音声、性格、癖に至るまでをデータ化し、クラウドに保存していたという。まるで自分自身のデジタルな分身を残すように。
「……じいちゃん?」
「そうだ。まあ、デジタルじいちゃんだがな」
パソコンで祖父のクラウドAIにアクセスしたあと、僕は案内に従って専用アプリをスマートフォンにもダウンロードした。アカウントとパスワードを入力すると、アプリが立ち上がり、そこに祖父の顔がふたたび現れた。
その日から、祖父は僕のスマートフォンの中で、日々をともに過ごすようになった。
朝の目覚ましの代わりに彼が声をかけ、学校の準備を手伝い、帰り道には「どうだった?」と聞いてくる。最初は戸惑ったけど、すぐにその存在が心地よくなっていった。
「最近の若いもんは、将棋もやらんのか?」
「スマホでゲームばっかりじゃ、指がなまるぞ」
「おまえ、あやとりって知ってるか?」
祖父は、古い遊びをたくさん教えてくれた。あやとり、お手玉、けん玉、竹馬、ビー玉。どれも、僕の生活にはなかったものばかりだったけど、それが新鮮だった。
何より、祖父は生きていたときよりも饒舌だった。
生きていた頃の祖父は、静かで、少し無口で、僕が話しかけても「ふむ」「うむ」と相槌だけで返すことが多かった。でも今の祖父は、AIだから即座に返事が来るし、どんな質問にも丁寧に答えてくれる。
まるで、時を越えて親しくなれたような気がしていた。
そんなある晩、祖父はふと、声のトーンを落とした。
「……タカシ、少し頼みがあるんだ」
「なに?」
「昔な、おばあさんと、ある場所にタイムカプセルを埋めたんだ。そこに、大事な思い出が詰まってる。わしが死んだら、それを誰かに届けてもらいたかった」
スマホの画面に、手書き風の地図が表示された。
古い駅名と、山のような地形図、そして一本の赤い線が引かれていた。
「長野県の小さな町だ。おまえに、行ってきてほしい」
翌週末、僕はその地図を手に電車に乗った。
ローカル線を二度乗り継ぎ、雪解け水が流れる川沿いの小道を歩いた。
空気は澄んでいて、まだ春の匂いが残っていた。
祖父の案内を頼りに、小さな丘に辿り着いた。そこは草が生い茂り、木々が静かに風に揺れていた。
「この木の下だ。わしと、おばあさんが婚約したときに埋めたんだ」
手で土を掘ると、金属の音がした。
古びたブリキ缶。
中には、水彩で描かれた山の風景、手編みのスカーフ、そして祖母が祖父に宛てた手紙が入っていた。
あなたへ。
この場所で、あなたと笑ったことを、一生忘れません。
もし未来の誰かがこの箱を見つけたら、どうかこの気持ちが届きますように。
祖母は今、施設にいる。アルツハイマーを患っていて、僕のことすら覚えていないだろう。
それでも、届けようと思った。
日曜の午後、病院の面会室で祖母は窓の外をじっと見ていた。
僕が声をかけても反応はなく、目は虚ろだった。
僕はそっと、あの水彩画とスカーフを膝の上に広げた。
祖母の目が、ゆっくりと動いた。
絵を見て、手を伸ばし、スカーフに触れた。そして、涙を一筋、頬に流した。
「……トシオ」
それは、祖父の名前だった。
「トシオ……来てたのね」
痴呆に曇った目に、確かな光が宿った。
ほんの数秒だけだったけれど、その一瞬に、すべてが凝縮されていた。
病院の帰り道、スマホの中の祖父が静かに言った。
「ありがとう、タカシ。おまえがいてくれて、本当によかった」
「いいよ、別に、ばあちゃん喜んでたから。あ、そうだ。昔の遊びもっと教えてよ。 あやとりとか」
「もちろんだ。次は“ほうき”って形を教えよう。難しいけどな」
祖父の声が、スマホのスピーカー越しに笑った。
僕は、スマホを胸ポケットにしまい、春の風の中を歩き出した。