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コンタクトケース

作者: Jiecai

「ねぇ、君ってどんな歌聴くの?」

俺の耳にはSaucyDogのコンタクトケースが流れていた。


六月の終わり。ベランダに干したシャツが雨に濡れて、俺はそれを見つめながら立ち尽くしていた。部屋の隅に置きっぱなしになっている青いケースが目に入る。中身は空。けど、重たさはずっと残っていた。


 それは、彼女のコンタクトケースだった。


 置いていったわけじゃない。忘れたんでもない。別れた日の夜、彼女が「置いていくね」って笑ったから。あの言葉をどんな感情で受け止めればよかったのか、今もまだわからない。


 「これで最後だよ」って、そんな声だった。


 出会ったのは春だった。桜が散って、暑さが日に日に増していく頃、彼女は俺の前に現れた。


 「音楽、何聴くの?」


 不意に話しかけてきたそのとき、俺の耳にはSaucyDogの『コンタクトケース』が流れていた。イヤホンを外しかけた俺を見て、彼女は「わたしもそれ、好き」と笑った。その瞬間からだった。彼女の声が、匂いが、指先の癖が、ひとつずつ俺の生活に入り込んできた。


 デートのたびに、お互いのイヤホンを片耳ずつ分け合った。夏の夜、ベンチで肩を寄せてこの曲を聴いたこともある。


 「“君のコンタクトケースを今でも捨てられずにいる”って、切ないね」

 「そう? でも、なんかリアルでよくない?」


 彼女はいつだって、感情の真ん中を射抜くようなことを言った。




 別れは、ほんとうに唐突だった。


 理由を聞いても、彼女ははっきりと答えなかった。


 「わたし、これからちゃんと自分のこと考えたいの」

 「俺と一緒じゃ、それじゃだめ?」

 「だめじゃないよ。でも……今のままだと、きっと後悔するから」


 彼女が泣いたのを見たのは、それが最初で最後だった。俺も何か言いたかった。けど、なにを言っても、きっともう届かないと分かってた。だから、黙っていた。


 「これ、置いていくね」

 そう言って、洗面台にコンタクトケースを置いた。


 いつもそこにあった彼女の日常の一部。毎晩、ケースにレンズをしまう姿を思い出す。何気ない所作が、今になって胸を締めつけてくる。


 それからというもの、コンタクトケースは洗面台のすみにずっとあった。捨てようと何度も思った。けれど、手に取るたび、彼女の気配が蘇ってきて、どうしてもできなかった。


 「前に進まなきゃ」って、そう思うのに。


 ある日、何気なくまたあの曲を流した。部屋の隅に転がったままのケースを見つめながら。


 “君のコンタクトケースを今でも捨てられずにいる”


 ふと、気づいてしまった。

 この歌詞、「コンタクト」と「ケース」に分けてみたら――


 “接触の機会”。


 君にもう一度、触れるためのきっかけ。君ともう一度、会うための言い訳。そんな意味が含まれてるとしたら。


 ――俺は、まだ君に触れたがってるんだ。


 ただのプラスチックのケースに、そんな意味を込めてしまうくらいには、俺は君に未練がある。


 雨は止んでいた。湿った空気の中で、俺はひとりベランダに立ち尽くしていた。


 ポケットの中、スマホの画面を開く。彼女の名前はもうない。でも、履歴の奥には残ってる。何ヶ月も開かれなかったトーク画面。最後の「元気でね」の文字が胸に突き刺さる。


 あの頃、ちゃんと伝えられていればよかったのか。引き止めていれば、何か変わっていたのか。そんなことを考えても、答えはどこにもない。


 けど、今日もまた、あのケースはそこにある。


 ただのケース。だけど、俺にとっては“もう一度会えるかもしれない理由”。


 それを、俺はまだ――手放せずにいる。


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