死に際に、婚約
「花よ〜、舞い踊れ〜〜」
間延びした言葉と共に、落ちたチューリップの花びらが浮かび上がった。
仕える少年——ミーゲル様の周りをふわふわと回る。彼のベッドを囲うように赤色の花びらが舞った。
「わあ……! すごい……!」
「そうでしょ、そうでしょう! ミーゲル様にお見せしたくて、チューリップの花をそのままにしておいたんです〜。決して、片付けを忘れていたわけではないんですよ〜〜」
見ごろを終えたチューリップが窓際に置かれた花瓶の下に花びらを落としていた。
本当なら、そうなる前に片付けなければならなかったのだが。
目敏いメイド長に見つかってしまい、怒られたばかりだった。別に掃除を怠ったわけじゃなかった。ちょっと忘れただけだったのに。
この寝室の主人、ミーゲル様専属のメイドは私一人。つまり、この部屋の管理も私の仕事だ。
「シトリー、花びらって舞うとこんなに綺麗なんだねぇ」
こんなに簡単なことで喜んでもらえるなんて。
はしゃぐミーゲル様をそっと盗み見る。
淡い紫色の髪と瑠璃色の瞳はどれだけ眺めていても飽きない。長い睫毛は儚げに瞬き、色白の肌は陶器のよう。それになんと言っても、身に纏うオーラが澄んでいて、とても綺麗なのだ。
「今度のお出かけは明日だよね。庭師の子が言ってたんだ、お肉を挟んだパンっていうのがあるんだって。それを一緒に食べたいな」
「ふふ、承知いたしました〜。明日のために、今日は早めにお休みしましょうね!」
身体の弱いミーゲル様は、普段は屋敷の中で過ごしている。時々庭を歩くこともあるけれど、基本的には寝室が多い。幼いながら、どこかで倒れてしまえばみんなに心配をかけてしまうと思っているようなのだ。
引きこもりがちなミーゲル様を、親である領主様は大層心配した。私に、三ヶ月に一度、ミーゲル様と街へ外出するよう命じるほどだ。最初は渋々だったミーゲル様も、一度街へ赴いてみればとても楽しかったようで、次の外出日を楽しみにするようになった。
少し明るくなったミーゲル様を、領主様や奥様はよく愛おしげに見つめている。そんな彼らを見かけるたび、私は申し訳なさに目を伏せるのだ。
「うん。シトリーの力のおかげ。いつもありがとう」
私は生まれながらに精霊力を持っていた。この世の生物に干渉できる力だ。
力を持つ私が側にいれば、それだけでミーゲル様を少し元気にできる。そして精霊力をミーゲル様に使えば、体の不調が抑えられ、少しの外出くらいの間は普通の人のようにもたせることができた。
私が望んだ、ミーゲル様専属の唯一のメイドになれたのもその力のおかげだ。決して花びらを浮かせるだけの力じゃない。
「任せてください。そのために私の力はあるんですよ〜〜」
私に向けられる笑顔が、できる限り長くあればいいと思う。
◆
「生まれ変わったら、僕、シトリーと結婚したいなあ」
街へ出かけたその日、公園のベンチでパンに齧り付きながら、ミーゲル様はそう言った。唐突だったそれに、嬉しくなってキュウっと心臓が動く。不謹慎だとわかっているのに、自戒できない自分が少し腹立たしい。
「え?」
「うん。だって僕、シトリーのこと大好きだもん。僕のために魔法を使ってくれて、僕を笑わせようとしてくれて。街にも付き合ってくれる。ずっと寝ているだけの僕をちゃんと見てくれる。大好き」
屈託なく笑うミーゲル様は美しくて、思い通りにならない私の心も喜びで震えている。けれども。
「——生まれ変わったら?」
「うん。今世は、難しいでしょ?」
「っ」
ぶれてしまった視線をミーゲル様は見逃してはくれないだろう。それでも誤魔化す努力はする。それが契約主である領主様の願いだ。
「どうしてですか〜〜。やっぱり、私が年上すぎるからですかねぇ?」
「ふは、それもそうかもしれないけど。そうじゃなくて、僕の余命は、あと少しでしょ? ……みんな隠そうとしているようだけど知ってるよ。それに、そうだろうなって感じもするし」
精霊が好む、綺麗な魂の持ち主であるミーゲル様は、人が本来感じられないことも感じ取れてしまうのかもしれない。
少し厄介ねえ、と思うけれども。精霊が好むミーゲル様だからこそ、私の精霊力は役に立つ。だから文句も言えない。
「う〜〜ん。そうですね、そうかもしれませんが、まだまだミーゲル様はお若いですからね。わかりませんよ。お薬もちゃんと飲んでいらっしゃるでしょう?」
「……シトリーも僕に嘘つくんだ」
「ええ、私、ミーゲル様よりも年上ですからね。嘘だって吐きますよぉ」
むくれた顔に笑顔で返した。どうにか誤魔化されてくれないだろうか。せめて、彼に残された時間があと半年ほど、という期限だけでも知られませんように。
「ねえ、シトリー。今度のお出かけの時、お願いがあるんだ——」
きっとおそらく、それは最後の外出になる。
私がときめくその顔で、ミーゲル様は知ってか知らずか儚げに笑った。
◆
「え? 大人の姿に?」
「うん。一度でいいからシトリーより高い目線で過ごしてみたいってずっと思ってたんだよ」
そう言われて、街へ赴いた馬車の中。私は彼にとっておきの魔法をかけてあげる。
「でも一時間が限界ですよぉ。いつもみたいに長くは居れませんからね。もし途中、子供の姿に戻ってしまったら、街のみなさんが驚いてしまいますから!」
「わかった。いいんだ、それでも」
大きくなったミーゲル様は先に馬車を降り、手を差し伸べてくれた。
いつも私の役目だった。今も私が先に降りるつもりだったのに。
「一度やってみたかったんだ。手を取ってよ、シトリー」
見慣れたはずのミーゲル様の笑顔から、あどけなさが消えている。それには少しどぎまぎした。
ゆっくりと手を乗せれば、彼は満足そうに頷いた。
「ふふ、優しいね。シトリー」
「……せっかくのミーゲル様の外出ですもの〜〜。せっかくなら! 楽しんでもらいたいですからね〜〜」
手を引かれて歩き出す。
隣には彼の肩。いつもは見える頭のつむじが今は見えない。
「えっと、手はこのままなんです……?」
「え、いつも手を繋いでくれてたでしょ? 嫌?」
「ぅえっ!?……い、嫌ではないですけどぉ、今は子供の姿じゃないので、周りの人からどう思われるか、と言いましょうか。実際の関係性とにズレが生じると言いましょうか〜〜?」
対するミーゲル様はきょとんとした顔で首を傾げた。街の市民が好んで着るシャツにスラックス、サスペンダーを合わせた出立ちはよく似合っている。彼に合わせて私もまたお忍び用のワンピース姿だから、私の心配は杞憂ではないだろう。
キャスケットから覗く瑠璃色の目が丸くなった。
「嫌?」
「……嫌ではないですよぉ。はい」
「なら、いいでしょ。一時間くらい。僕だって、デートしてみたいんだよ」
悪戯っ子のようににやりと笑う顔は、きっと確信犯。
「……なるほど。デートをしたかったわけですね……?」
「うん。さすがシトリー。子供の姿じゃ、できないでしょ?」
「ん〜〜そうですね。手を繋いで歩いていても姉弟に見られるでしょうねぇ。具体的には何かご希望はありますか? 一時間しかありませんからね」
「そうだね、手を繋いだり、腕を組んだりして少し街の中を歩けたらいいなって。あとね、公園のベンチでホットドッグを食べたりとか」
それはいつもと何ら変わらないこと。大人の姿で、これまでを噛み締めるかのように、なぞるのか。
「いいんです? そんなので」
「いいんだよ、これが」
ミーゲル様がそう望むなら、私の答えは決まっていた。
「じゃあ、行きましょ〜〜」
位置が高くなった腕に、自分のそれを絡ませて。
いつもみたいに街を見て回る。
一人で行くよりも二人の方が。他の誰かよりもミーゲル様の方が。
視界の中はより一層、鮮やかになる。
揺れるパン屋の看板に、子供の駆ける足音。道端に咲くタンポポや空を飛ぶ鳩。コーヒーの香りがしたかと思えば、どこからか肉の焼けるいいにおいもする。
それから、客の笑い声と露店の幟。
「わあ、見てくださいよ〜〜、これ、綺麗ですね」
露店に並べられたアクセサリー。近寄れば店主から声を掛けられた。
「おやお嬢さん。お目が高い。うちのはちゃんと石がついてるのさ。まあ、お貴族様が買うのと比べちまうと遥かに小さいもんだが、アクセントにもなるし綺麗だろ? 露店で売るもんにしてはちゃんとしてんだ。石自体はちゃんと高品質だぞ?」
「本当ですねぇ〜」
赤や緑、薄ピンクと石が並ぶ中、目につくのはやはり瑠璃色。ミーゲル様の瞳の色だ。
「どうだい、お二人さん。恋人同士で揃いの指輪なんてのは?」
愛嬌のあるウインクを披露する店主に、ミーゲル様と顔を見合わせ笑ってしまった。
「ふふ、恋人だって。どうする、シトリー。欲しい?」
「そうですねぇ〜〜。じゃあせっかくなので、記念に。でも指輪じゃなくて、腕輪にしましょうか」
耳元に囁くミーゲル様に、こちらも小声で返事をする。
「どうして?」
「指輪は、何というか、恋人のしるしみたいな風潮がありますから。将来、ちゃんと決まった方に贈られるのがいいでしょう」
「……僕の寿命を知ってるのに、そんな意地悪を言う」
「何をおっしゃるんですか。ミーゲル様はまだまだ、これからですよ〜〜」
不貞腐れたように口を尖らせたミーゲル様は、本来の年齢どおりのようで、可愛らしかった。
「わかったよ。じゃあ、シトリーの腕輪は僕が決めていい? 僕のはシトリーが決めてよ」
「いいですよぉ」
そうして贈り合った互いの髪色に似たアメジストと黄色のガーネット。手首に嵌めて、並べて見せ合って。店主にも「よくお似合いだ」と褒めてもらった。
ミーゲル様はその後も思いつく限りのことをしたようだ。自分からお店に入って買い物をしたり、ベンチに座らせた私にホットドッグを買ってきてくれたりもした。ドリンク付きだ。
一人行動は迷子が心配だと物申したり、買い物はメイドの仕事だと進言したりしたが、聞いてはくれない。ミーゲル様が「一度やってみたかったんだ」と言えば、全てを知る私には、反論できるはずもなく。
私が待つベンチに、ちゃんと戻ってこられたことには心底安堵し、こんなところで成長を感じもした。
「はあ、楽しい。もうそろそろ時間切れかな」
「そうですねぇ〜〜、そろそろ馬車に戻りませんと」
食べ終えたホットドッグの紙屑を丸めてゴミ箱へ。それもまたミーゲル様が進んでやってくれる。
隣に座り直したミーゲル様に感嘆した。
「……大きくなりましたねぇ」
「そう? シトリーの力のおかげ」
「違いますよう。見かけだけの話ではありません〜〜」
振り返れば、ミーゲル様のメイドになってもう五年になる。こんなに長い期間、同じ場所に留まったのは初めてだ。
「じゃあ、大人に見える?」
「そうですね。随分と大人びていらっしゃいます」
「……男に見える?」
「え? ええ、もちろん。ミーゲル様は男性でいらっしゃいますから」
それには不満そうに眉を寄せた。
「そうじゃないんだけどなあ。でも仕方ないか、時間がないから——」
おもむろに私の手を掴むと、指の一本に露店の指輪を嵌めてくれる。そこに輝く石は、瑠璃色のラピスラズリ。
「……え?」
「今度、生まれ変わったら。絶対の絶対に、健康で長生きするから。だから僕と結婚してほしいんだ」
私を見据える目は真剣そのもので、笑ってはぐらかしてはいけない気がした。
「本当は今日、大人の姿で、これが言いたかった。ちゃんと。本当は、一人の男として見てもらいたかったけど、やっぱり一時間じゃ難しいみたい。子供の僕じゃ、シトリーをときめかせられない」
誰もが振り返るような大人の男の姿で、しゅんと項垂れる。それはやはり可愛らしくて、胸は躍るのだけれど、ミーゲル様にとっては面白くはないだろう。
「何をおっしゃいますか〜〜。いつだって私はミーゲル様にときめいてますよぉ」
「本当? 僕はきっと、大人になった姿をシトリーに見せてあげられないから……僕のこと、ちゃんと大人の男みたいに見えた?」
何のためにメイドの座に収まったのかを聞けば、ミーゲル様は驚くに違いない。
大人だろうが子供だろうが、私のときめきに変わりはないのだ。
気づけば、彼の両頬に手を伸ばしていた。
優しく両手で包み込んで、吸い寄せられるように顔を近づける——と、ふと、瑠璃色と目が合った。
年端も行かない子供に、私は何をしようとして。
正気に戻ったことにほっとしながら、ゆっくりと唇から目を逸らす。代わりに額にキスをした。
「大好きです、ミーゲル様。この世で一番」
「じゃあ、来世は結婚してくれる?」
死ぬことがわかっていながらのプロポーズ。こんなにも重い愛は——懇願にも近い愛は、その魂がひときわ輝く瞬間だ。またときめく。
「そうですねぇ、もしそんな奇跡が起きたなら、結婚しましょう。約束ですね〜〜」
微笑みながら、そう、叶うことのない約束をする。
無責任だと怒るだろうか。けれどミーゲル様は優しいから、いつか赦してくれると信じている。
◆
馬車の揺れに合わせて髪が跳ねる。膝の上に頭を乗せて眠るミーゲル様の頬を撫でた。その輪郭は丸く、先ほどまでと比べると随分と幼い。
大人の姿になって、街を歩いて。私に、プロポーズなんてして。
きっと疲れ切っただろう。
一時間というリミットは、魔法の効果に加え、ミーゲル様の体力限界でもあった。
薬指で輝く、嵌めてくれた指輪が愛おしい。指輪の上の、ミーゲル様の瞳に似たラピスラズリのかけらに口付けた。
「ありがとうございます。とても楽しい時間で、とても嬉しい贈り物でした。ずっと忘れることはないでしょう。けれど……この指輪はお返ししますね」
横たえる胸の上に、指から抜いた指輪を置いて、彼の手のひらで覆う。手元には残せないけれど、簡単に転がってほしくはない物だ。
私には、あまりに勿体無い物だから。
「これは、いつか正しい人の元へ」
今から五年ほど前のことだ。ミーゲル様に出会う前、ふらふらと彷徨っていた私は、悲痛な声を聞いた。
どうか、どうか助けてください、と涙ながらに願う声を、ずっと聞いていた。
その声は耳から離れず、吸い寄せられるように彼らの前に姿を現した。
神殿で懇願していた声の主は、子の病気に嘆く領主様たち——ミーゲル様の両親だった。
「ごめんなさい、本当はもう少し、早くに魔法をかけなければいけなかった」
私の役割は、部屋からあまり出られないミーゲル様を喜ばせること、楽しませること。笑ってもらうこと。
それから、命を少しでも永らえさせること。
「ミーゲル様の笑顔を見るのが、あんまりに楽しくて。先延ばしにしてしまいました」
猛烈に惹かれた輝く魂。
どうしてもそばにいたくて、契約する条件として、専属メイドに志願した。そばに居れば居るほど、これを永らえらせるなら本望かと思えた。だからこそ領主様たちの呼びかけが無性に気になったのだろうとも。
しかし時間が経つにつれ、いつの間にか、彼に笑顔を向けられることが生きがいのように思えて。
なかなか手放せなかった。
でも——もう、限界だ。
お気に入りの魂の輝きは、もう僅かで消えようとしている。それが私には見える。
精霊が使うことのできる、人間にはない不可思議な、精霊力。精霊の形を保つ源とも言える。
それを完全に譲渡すれば、人間の寿命の代わりになる。波長が合う彼だからこそできる。彼は生き永らえて——。
「私は消える。……願わくは、私のことを忘れませんように。けれど私に、過去に、縛られませんように」
どちらも本心で、選びきれないまま。
こんな願いを誰が叶えられるのかと苦笑しながら、矛盾した願いをそのまま口にする。
最後に穏やかに笑えたことが、満足に思えた。
「あなたの魂が、私にとって、とても心地良いものでした」
そうしてミーゲル様と指輪に顔を埋めるように、私の存在は消えたのだろう。
◆
「そうそう、この街にいる領主様。なんでも子供だった頃、病弱だったそうなんだよ」
「へえ」
小太りの商人に昔話を聞きながら相槌を打った。
「それがある時、奇跡が起きてね、治ったらしいんだ。元気になった領主様はひどく神様に感謝をされたようでさ、毎日のように祈りにこられるということだよ。それがこの神殿」
目の前には大きな神殿がそびえ立っていた。
手入れも良くされているようで、綺麗な建物だ。祀ってあるのは神様——精霊王だ。この国は精霊に祈りを捧げて赦しを乞う。
「たくさんの寄付もされたらしいんだ」
記憶には無い神殿だから、もしかしたらその寄付で建て替えをしたのかもしれない。
「えっと、シトリーちゃんだっけ? この街にはどんな用事があったんだい」
「ん〜〜。約束があったんだけど、向こうは覚えてるかわからないんだ〜〜」
「え。その約束はまだ生きてるの?」
「わかんない。けどそれを確かめられたらなって」
領主ミーゲルの奇跡から約二十年。
なぜか人間のシトリーとして小さい村に生まれ落ちた私は、十六歳になった。ようやく一人で村を出てよいと親から許しが出て、村に立ち寄った商人に道案内をしてもらいながら、初めて街に赴いたのだ。
「じゃあね、ありがと〜〜、商人のおじさんっ」
手を大きく振って別れた後、向かう先は。
「やっぱり、神殿かな?」
商人によると毎日のようにミーゲル様が訪れているという。
せっかく受けた二度目の生——しかも今度は人間だ——ミーゲル様の様子が知りたくてのこのこ街まで出てきてしまった。
領主の屋敷に行ってもよかったけれど、絶対に話したいというわけでもない。遠目からでも元気な姿を見られたなら、それだけで良かった。
寿命が伸びたミーゲル様を、私が消えた後を、見てみたかった。ちゃんとつつがなく、過ごせているのか、知りたかった。
それだけだったのに。
神殿に着くなり、目当ての人物と対面した。今日もまたミーゲル様は祈りを捧げていたらしい。
会った瞬間、声をかけられた。
「……シトリー?」
まさか気づかれるとは思わなかった。
メイドをしていた私は、人間でいう二十代半ばくらいの姿だったから、面影はあるにしろ、そう簡単に結びつくわけがないと高を括っていた。何しろ今の私は十六歳だ。
「やっと会いに来てくれた!」
デートした時よりもさらに大人になった、けれど顔の造作は変わっていないミーゲル様が、泣きそうな笑顔で駆け寄ってきた。人間になった私には、もうオーラは感じられない。惹かれてやまない魂を感じることはできないのに、その顔には胸が動かされた。
「ミーゲル様……私を覚えていらっしゃるんですか……?」
「もちろんだ。シトリーも覚えてくれているじゃないか」
よかった、と言うミーゲル様は、私だと疑ってもいないようだ。
「どうして私だってわかるんです? 見た目も、年齢も違うでしょう? しかも、種すら違うんですよ」
「ああ、精霊にお願いしたんだよ。……精霊ってのは守銭奴か何かなのかな? 高額な寄付を要求されたし、毎日の祈りを強要されるんだが」
そう言った途端、質問する間もなく聞こえた低い男の声。人ならざる声は、神殿内を反響するように、頭に響いた。
「そりゃあそうさ。我を喚び出すとはよほどの珍事だぞ」
気配はしなかった。ミーゲル様の背後に急に現れた男は、若葉色の髪を床まで伸ばし、ミーゲル様以上に逞しく、美丈夫だった。実体化した姿を見るのは初めてだが、初見ではない。
「——っ、精霊王!?」
確かに神殿は、私が喚び出された時より、随分と豪華に様変わりしたと思っていたけれども。
「いや、なに。元々精霊に好かれるこやつが、お前の精霊力を吸収したもんだからな、より強力になってしまったようだ。我に人の声が届くとは久しぶりでの、喚び出しにも大層な準備をしたのかと感心して応じてみれば、お世辞にも綺麗とは言えぬ小さい神殿にこやつ一人。我の落胆は言い表せぬほど深かった」
幾度か頷く精霊王にミーゲル様が呆れた顔を向ける。
「そう言うから、ちゃんと祈りにもきているし、寄付だってして、綺麗な神殿にしただろう? それに契約だって、別にしなくていいって僕は言ったんだぞ」
「お前の魂が人間としては随分と好ましくてな。この口がなければどんなに良いかと思うほどだ。まあ、契約はいつでも解除できるのだからな、せっかく喚び出された人の世を楽しみたいのだよ」
気さくな様子で精霊王と会話するミーゲル様に驚かされつつ、私が知りたかった消えた後の話をこんな形で知ることになるとは。
「あわわわわわ、まさか、私が生まれ変わったのって」
「うむ、全く同じ生物を造るのはできぬが、違う種として新たに誕生させることはできぬことでもなかったのでな。まあ、それでもそう簡単にできることでもない。お前たちの結びつき……縁とも言うが、それが余程良かったんだろうよ。我相手に強請るこやつも面白くてな」
精霊だった名残か、ひたすら恐縮する私に、精霊王は何でもないことのように——実際に何でもないことなのだろうが——言って、愉しげに喉の奥で笑った。
そんな精霊王に、ミーゲル様はむすっとした顔を取り繕おうともせず、追い払うように手を振った。
「もういいだろう? 久しぶりの再会なんだ。消えて二人の時間を作ってくれるような気の利く精霊っていないのかな?」
「おぉ、こわいこわい。じゃあ、我は消えようかの。主が不憫だ、はは」
言い捨てて、言葉どおりにすっと消えた。
精霊王が現れてからずっと不満げだったミーゲル様。顰めていた眉からようやく力が抜ける。
「ったく。僕がどんなに待ち望んでたか知ってるくせに」
私を見る瑠璃色の目は、前と変わらない。優しく愛情深いそれに、いつも吸い込まれそうになる。
「……急に消えるから、驚いたよ。起きたら君がいないんだ。残された僕は、生命力に溢れてるとでも言うのか、身体が軽くて……だからすぐにわかった」
一呼吸置いて、絞り出すように。
「僕のために、僕を置いて、君は消えたんだなと」
「…………ごめんなさい」
掠れた声につい謝ってしまう。あの時は最善で唯一の手だったけれど、ミーゲル様のことを一番に考えるのなら、きちんと説明をすべきで、そういう選択もできたはずだった。
優先してしまったのは——ミーゲル様と別れたくなかった私の気持ち。面と向かえば、決心が揺らぎそうだった。
「いや、謝らなくていいんだ。僕の両親が願ったことで、僕もそれに生かされてる。だけど、贈った指輪が残されてたのは酷いと思わない?」
「それは……人ではない私がもらってはいけないと思ったので」
「それだけ?」
同じ視線の高さでじっと見つめられて、誤魔化しは効かないように思えた。
「……消えてほしくないって思って。私が消えると、身につけてるもの全部消えちゃうので〜〜……せっかく選んでもらった腕輪も手元にないんです……」
「そんなもの! また贈るよ」
少し乱暴に手を取られて、ラピスラズリの指輪を手に乗せてくれる。
これはあの時の、露店のものだ。
「まだ、お持ちだったんですね〜……」
「諦めが悪いと思ってもらっても構わないさ。シトリーだけを待っていたんだ。ちゃんと独り身だぞ」
「……」
「幼い頃の初恋にしておけば僕も楽だったよ。でも忘れるなんてできない。この身があるのはシトリーのおかげで、シトリーが人間として生まれたことを僕は知っていたんだ。……シトリー、約束を覚えてる?」
瑠璃色の石がきらりと輝く。
「——生まれ変わったら、結婚しよう……ですか? 私、まだ子どもですよ」
「ああ、いいんだ、成人したらでいい。ずっと待ってたんだ。結婚しよう」
真面目な顔のプロポーズはあの日を思い出す。
二度と言われることのない言葉だと思っていた。言われたとしても、別の男だとも思っていた。
それがどうだ。焦がれた彼が目の前にいて私を欲しいと言う。心が震える。
「その、歳をとった僕が嫌だというなら、諦めるけど」
「ふふっ」
大きな身体でしゅんと肩を落とすミーゲル様は、やはり可愛らしい。
ときめきは健在で安心した。もちろん随分と年上の男性に思う感情ではないのだろうが。
「い〜〜え。大好きです、ミーゲル様。この世で一番。……生まれ変わったら、の約束を反故にされるおつもりですか?」
「まさか!」
期待通りの答えに満足した。ラピスラズリの指輪をそっと薬指に嵌める。
懐かしいような、大切なものがこの手に戻ったような、幸せな気持ちだ。
「ああ! 僕が嵌めたかったのに」
「ではいつか、式の時には〜〜」
瑠璃色の瞳が見開く。
少し頬が赤らんで見えるのは気のせいだろうか。美しい顔が私の鼻とくっつきそうなほど近づいてきて、止まる。
「む……やはりダメかな」
そう言いながら、眉間に皺を作りつつ私の額にキスを落とした、身に覚えのありすぎる行動に、吐息のように笑みを溢した。
「でも私、前世も合わせるとミーゲル様よりよっぽど長生きなんですよ〜〜」
そう言って襟元を引っ張り、口付けする。
驚いた顔も、柔らかい唇の感触も、嬉しそうに細める瞳も、長い間求めていたかのように、全部が愛おしくて。
ずっと堪能していたいと身体を寄せる私を受け止めるように、抱きしめられた。
深いキスの後、甘さの残る溜息が耳元をくすぐった。
「……シトリーのご両親に挨拶に行かないとな。怒られるだろうか」
「う〜〜〜〜ん。気絶しちゃうかもですね〜〜。領主様ですもん」
「ふは、しっかり支えられるよう心づもりしておこう」
ミーゲル様は二度と離すつもりはないとでも言うように、私を閉じ込める腕にぎゅっと力を込めた。
慣れない拘束だが、力強い腕の中は思った以上にあたたかかった。
これから先、きっと私は、人の恋と愛を知るのだろう。——ミーゲル様の隣で。