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知らぬが仏、言わぬが花

 人里から遠く離れた森の中、人間の手が届かない獣人達が住む村、そこでトリンは生まれた。


 生まれたとは言っても、生まれた場所の記憶を彼女は持っていない。物心つく前には故郷を離れていたし、その故郷も今は存在しないからだ。

 両親は居ない。既に亡くなっている。しかし亡くなったのはずっと昔、それこそトリンが赤ん坊の頃だ。顔さえ覚えていない両親の死は、とても悲しいが心に傷が残るほどでなかった。


 彼女にとって家族とは、兄のガークだけである。たった一人の家族だからこそ、トリンはガークへ非常に懐いたし、ガークの言いつけもきちんと守った。


 ガークはよく、トリンに人間の恐ろしさを語った。欲深く傲慢で、悪魔を味方に付けて自分達を破滅にまで追いやった忌むべき種族だと。

 それを聞いて育ったトリンは、人間を酷く恐れるようになった。だが同時に、人間を信じたいという心も微かに持っていた。それはかつて盗賊に攫われた時、自分を助けてくれたのが人間だったから。


(み、見られた。セレナに見られた)


 そして現在、彼女は人間のセレナに自身が獣人である事を知られてしまった。


 セレナ・ユーグリッド、それはトリンが兄と逸れてしまい途方に暮れていた時に出会った人間の少女である。

 セレナはとても不思議な人間だった。トリンが初めて彼女と出会った時、トリンは彼女に対して形容しがたい違和感を感じて仕方なかった。


 嫌な感じはしない。むしろ類を見ない善人であると直感で思った。だが、何故だかトリンは素直にそう思えなかった。

 自然と対話できる獣人の中でも、トリンはその能力が強く備わっている。その影響か、相手の本質を見抜く第六感が非常に働くのだ。


 そんなトリンだからこそ、セレナの隠された本質を見抜き(・・・)かけた(・・・)。彼女の中に潜む()の存在に気付き(・・・)かけた(・・・)


 真実に辿り着かなかったのは寧ろ幸運だっただろう。もしこの事実を彼が知れば、彼は何がなんでもトリンの存在を消した筈だ。

 しかし実際にはそうならなかった。トリンは妙な違和感を抱くだけで、最終的にはセレナの善性を信じた。


 あの時、恐怖で体を震わすトリンをセレナは優しく抱きしめた。驚くほど心が安らぎ、セレナが人間である事も忘れて温もりを感じ続けた。初めて食べたたこ焼きは天にも昇るほど美味しく、感想を伝えた店主に笑顔を向けられた時は温かな気持ちになった。


『隠し事があっても誠実に応じれば、それだけで貴女を受け入れる方は増えますよ』


 セレナが言ったあの言葉、それをトリンは確かに実感し、気付けば人間に対する悪印象も薄まっていた。


(悪い人間だけじゃない。良い人間もちゃんと居るんだ)


 そう認識を改める事が出来た。まだまだ人間全体に対する恐怖心はあるが、少なくともセレナとは仲良くしたいと、あわよくば友達になりたいと、彼女は思った。思ってしまった。その期待が裏切られるとは思いもせず。


「……トリンさん、そのお姿は」


 トリンは兄のガークから人間の恐ろしさを教えられている。しかしそれと同じぐらい、人間がどれほど獣人を毛嫌いしているかも教えられた。


 奴隷として酷使するなんて当たり前。どれだけ友好的に振る舞っても、相手が獣人と知れば人間達はたちまち迫害する。


……神に見放された存在である彼らは、存在そのものが悪なのだと。


「い、いや! 違うの! これは違うの!!!」


 トリンは獣人の証である獣の耳を両手で必死に隠そうとする。フードを被るという発想が出ないほど激しく取り乱し、その表情は見るに堪えないほど悲痛だった。


(嫌だ嫌だ嫌だ!!! 嫌われちゃう、セレナに嫌われちゃう!)


 トリンが人間と直接言葉を交わした事は少ない。しかし他の獣人と人間が対峙する場面は遠目で何度か見た事がある。

 獣人は明確な恨み怒りを人間にぶつけ、そして人間は害獣を相手にするような侮蔑の視線を送っていた。


「トリンさん」

「やめて! 見ないで!!!」(見たくない、セレナにあんな目で見られたくない)


 セレナに呼び掛けられたトリンは、目をギュッと瞑って顔を俯かせる。過去に見てきた人間達の目、あの目をセレナから向けられたら、とてもじゃないが心が持たない。


「トリンさん」

「お願い、お願いだから」


 私を見ないで。そう言おうとするトリンだが、彼女の口からそれ以上拒絶の言葉が出る事は無かった。


「大丈夫」

「…………ぇ?」


 優しい温もりがトリンの体を包み込む。


「大丈夫、大丈夫」

「……」


 子どもをあやすように、セレナは優しく言葉を投げ掛け、背中をトントンとさする。


「なん、で?」


 獣人である事を隠していたからこそ、人間のセレナとも仲良く出来た。これまでがそうだったように、今回も同じ事じゃないのか?


 獣人と分かってもなお優しく接するセレナの事が、途端に分からなくなった。


「……獣人の存在については、私も知っています。人間とはどういった関係なのかも、十分に理解しているつもりです」


 そう言って語るセレナの顔は、どこか悲しげだった。


「人間と獣人の共存、そんな夢物語を考える日々もありました。ですが私は自分の信じる道を歩むだけで手一杯で、とてもそれを実現する為に行動は出来ません……ですが」


 セレナは密着した状態から体を離して、両手でトリンの頬を包む。


「ふぇ?」

「トリンさん、先ほど友達になりたいと言いましたよね?」


 無理やり顔を合わせられたトリンは、そこでようやく彼女の目を見る。

 蒼い瞳はどこまでも透き通っていて、真っ直ぐにトリンを見つめていた。


「なりましょう。友達に」


 セレナは慈愛に満ちた笑みを浮かべて答える。


「い、いいの?」

「勿論です。むしろ私からお願いさせて下さい」


……感じない。他の人間が獣人に抱くような想いを、全く感じない。


「〜ッ! うん!!!」


 トリンは思わずセレナを抱きしめる。堪え切れず、涙が溢れ出た。







『トリンさんと友達になれたのは嬉しいですが、その事を迂闊に話すのは危険だと思います』


 あの後、気分を落ち着かせたトリンにセレナは言った。


『なので、私とトリンさんの関係は暫く秘密にしておきましょう』


 それはトリンとしても懸念すべき事だった為、彼女もすぐに頷いて同意した。


 もっとセレナと喋っていたい気持ちもあったが、兄を放っておく訳にもいかないので、その後はすぐに場を解散させた。


「……セレナ」


 次にいつ会えるのかは分からない。トリンの住処は教えられないし、セレナが住む王立学園の寮も部外者は入れない。もしかしたら数年、下手したら二度と会えないかも知れない。


(次に会う時は、たくさん話したいな)


 だが、トリンは不安に思わなかった。近い内にまた会えるだろうと、根拠もなく思っていた。


「トリン!!」

「あ、お兄ちゃん!」


 暫く路地を歩いていると、向こうから彼女の兄、ガークがやって来た。


「アジトを見ても居なかったからもう一度探しに行こうとしたが……良かった、戻って来れたんだな」

「うん、逸れちゃってごめん」

「いや良いんだ。それより大丈夫か? 人間に何かされてないか?」

「……」


 友達が出来た事を兄に話したい。けど、その相手が人間だと知れば二度と会わないようにと言ってくるだろう。


「うん、大丈夫だよ」(ごめんお兄ちゃん、いつか絶対に言うから)


 普段なら兄の気持ちを優先する所だが、トリンはまだセレナとの関係を断ちたくなかった。


(いつかお兄ちゃんにも気付いて欲しいな、セレナみたいにすごく良い人間も居るって事を)


……この日、獣人の少女に人間の友達が出来た。


 それで何かが変わる訳ではない。獣人の迫害が無くなる事も、人間が考えを改める事も無い。ただ、この日を境に時代は着々と変わりつつあった。


▼▼▼


 人間と獣人、相容れない種族の間で生まれた確かな絆。二人の少女による友情物語はとても綺麗で美しい。……少なくともトリンの視点では、だが。


(いやー、まさか獣人だったなんてなぁ)


 もうお分かりかも知れないが、彼にはそんな殊勝な考えなど持ち合わせていない。


(予想外だったけど、お陰で獣人と接点が出来た。これを機に獣人にも嫁の事を知って貰おう!)


 彼の思考の中心にあるのは常に理想の嫁の事だけである。トリンと友達になったのも、嫁が獣人達から愛される為にやった事だ。


(嫁も初めての獣人の友達が出来て嬉しいし……うん、ハプニングもあったけど良い日になったな!)


 彼は理想の嫁を追求するだけじゃない。嫁の為になる事も積極的にやっている。動物に好かれてない事を隠して嫁の理想像を保つより、嫁の為に獣人の友達を作る方が大事だと彼は判断したのだ。


(獣人は人間に悪感情を持ってるから結構厳しいと思ってたけど、トリンちゃんが橋渡しになってくれたら大分やり易くなる)


 感性が前世よりの彼は、獣人を忌避しない。しかし獣人が可哀想だから救ってみせるなんて微塵も思わない。そんな義理など無いからだ。


(トリンちゃんも良い子そうだし、今後も嫁と仲良くして貰おう)


 最初は最悪の一日だと嘆く彼であったが、思わぬ拾い物が出来て帰宅後はすっかり上機嫌なのであった。

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