随想 SF作家・光瀬龍について
敬称は省略しています。
先日、ふと思い立って、光瀬龍というSF作家の名前で検索をかけてみた。部屋の掃除をしていて、以前行った、萩尾望都の『萩尾望都 SFアートワークス』という展覧会の時に買った、阿修羅王のTシャツという、何時着るんだ、という代物が出てきたからだった。自分でも何故買ったのか覚えていない。
それはそれとして、光瀬龍の検索結果を色々と眺めていると、SF大会で、「没後25年――今、見えてくる光瀬龍」という、企画があったようだ。
SF大会か、何時やるんだろう? と日付をみると、7月6日。一月以上前のことだった。まあ、SF大会も関東でやらないと参加したことも無いので、日頃から気にしているわけでもなく、しょうがない。長野だったら、行けなくも無かったか。この夏、数年ぶりに野辺山の天文台とかに行ったりしたので。
光瀬龍、という作家を知ったのは何時だったか。小学生くらいのころに、NHKでやっていた、『少年ドラマシリーズ』の何作かは光瀬龍が原作だった。同じころに、少年チャンピオンで、萩尾望都の『百億の昼と千億の夜』が連載されていたので、こちらが先か。
意識して読みだしたのは、友人が持っていた、SFベストセラーズというシリーズものの本や、図書館にあった、『夕ばえ作戦』とか『明日への追跡』とか読んだりし始めたくらいからか。
中学の時に、『宇宙塵版 派遣軍還る』という、少女漫画の表紙とイラスト付き(画:山田ミネコ)の本を書店で手に取って以降、光瀬龍という作家のSF作品を読み漁るようになった。
ちなみに、山田ミネコは、同人誌で『百億の昼と千億の夜』を描いたことがあるらしく、萩尾望都に私が描きたかった、とか言ったとかって話を雑誌で読んだ記憶があるが、確かではない。山田ミネコと光瀬龍は雑誌で対談とかしているはず。
話が逸れた。
二十代の頃が、一番SFを読んだ時期だろう。SFに限らず、色んな本も読んでいた。海外のSF作家では、スタニスワフ・レムが一番多く読んでいる作家だろうか。
レムを読んでいて、私の頭の中で想像する街の風景なり、他の惑星の光景なりが、光瀬龍を読んでいるときと似ている、ということもあるかもしれない。あくまでも私の場合だが。レムの描く作品世界も結構、無常観に溢れているとは思う。
あるとき、『金星応答なし』という、レムの初期作品を読んでいたら、”ツングースカ隕石の跡で発見された未知の物体”とか”巨大な電子頭脳”だとか出てきて、『たそがれに還る』のネタ元はこれか、と思ったこともある。
あんまり一人の作家の作品を追いかけすぎると、知らなくても良かったようなことも目に入ったり、作家の個性と同時に作品の”粗”、のようなものも気になったりしてくる。
光瀬龍の場合は、ショート・ショートのようなアイディア一発で、起承転結を付けるようなものが苦手であったようだ。
前半と後半で違う話のような展開の長編もあったり、尻切れトンボな作品もある。これは雑誌掲載で、読者人気との兼ね合いもあるだろう。
SF作家で、高校での理科を教えていた、ということから、科学技術には明るい人だという認識でいたが、数学が苦手だったり、小説内での描写が物理学的にどうなんだろう、というものも、専門学校(高専と言われるものではなく、短大扱いのもの)しか出ていない私でも気になったりはした。
こういう比較をするのは変かもしれないが、明治の文豪で言うと、光瀬龍は、森鴎外的な感じがする。森鴎外も、医者でドイツにまで留学しているが、数学の方はあまり得意では無かったようだ。
女性の人物描写に拘りがあり、リアルで現実味のある人物を描く点もよく似ている。
逆に人物はわりとあっさりで、物語の展開や構成が巧な感じなのが、夏目漱石だが、こちらは数学が得意であったようだ。何かの評論を読んだときに、科学者のような分析をしているな、と思ったことがある。
ジュブナイルSFで人気を二分した、眉村卓は、夏目漱石的、と言えるかもしれない。人物の描写は少な目だが、起承転結のはっきりした物語展開が上手い作家の印象がある。
ジェンダー平等的なことに煩い昨今、こんなことを言うのもなんだが、こういうところが光瀬龍が女性にも人気のある作家だという理由になるのかもしれない。
なんだか、とりとめのない文章になってしまった。ネットの検索から、なんとなく思いついた事だけに、妄想というか私の思いつきをつらつらと書き連ねる文章になった。タイトルの通り、随想、ということで。