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 その後ほどなく、カーレオン伯爵令嬢カサンドラ・アドナルと、クローリス男爵令弟セントクレア・アドナル財務官との婚約が発表された。二人は又従兄弟の間柄に当たるため、教会に婚姻特別許可証の申請がなされた。許可証が下りるまで教会での婚礼は先送りとされたが、カーレオン伯爵の領地での静養が急がれたため、国法により婚姻は成立。セントクレアは伯爵嗣子となった。叙爵はカーレオン伯爵の回復状況を見つつ、セントクレアが領地経営に習熟する、およそ一年後を目途とすることになった。セントクレアは叙爵と同時に現職である財務局を退所する予定だ。新婚夫妻は王都のカーレオン邸に新居を構え、カーレオン伯爵夫妻と子息コリンは領地で療養に専心することとなった。


 セントクレアはおだやかな人柄で、姉のミレディアが辛辣に評したほど引っ込み思案でもなかった。あれは子どもの頃の感想だろう、とカサンドラは微笑んだ。「お姉様と比べたら、ほとんどの人が引っ込み思案なのかも」カサンドラはこの三年間の怒涛のような日々から、やっと一息つけた心地がしていた。父の様子も、顕職を離れ王都の喧騒から離れて、少しのんびりできてきたようだ。まだまだ領地のことなど、父に教えを乞うことばかりだが、それでも普段の業務はカサンドラで十分対処できる。セントクレアは公職にあるので、叙爵までそちらに専念したいということで、カサンドラは引き続き伯爵領の仕事を代行している。書類に目を通し、まとめあげ、認可し、夫の公休日にサインをもらい、領地の父の手元に送って最終認可を受ける。父から返送された書類をしかるべく提出する所までがカサンドラの仕事だ。

 もちろん、その他にも、伯爵家として社交に勤しみ、カーレオン邸の運営も遺漏なく行わなくてはならない。普通の貴族夫人と比べて格段に忙しいはずなのだが、それ以外を知らないカサンドラには「こういうもの」という認識しかない。

 今回のような決算期など、かなりの負担なのだが、いずれ自分がすべてを担うつもりでいるセントクレアは、秘書に多くを任せることに強く反対しているので、結局ほとんどをカサンドラが行うことになってしまう。公職にあるセントクレアにはこれ以上の負担をお願いしたくないカサンドラは、自分が無理をしてすむことなら。今だけのことだから。セントクレアに無事引き継ぐまでの頑張り、と無理を重ねてしまうのだ。

 父親から書類返送に添えて「少しずつでもセントクレアの責任分担を増やしていくように。書類はお前の筆跡ばかりだが、秘書をもっとうまく使うように」と注意を受けても、「清書を私がしているので」と、暗に実務はセントクレアが秘書を使って行い、その下書きをカサンドラが清書している、という風にも読めるように返事を送った。父を欺いているようで心苦しいが、父に安心してもらいたいので、仕事の手を抜くことはできず、多忙なセントクレアに負担もかけたくなく、秘書に重要書類を見せたくないらしいセントクレアの意思も尊重したく、結局カサンドラが対処する以外ない。


 やっと書類が片付き、書類箱に収めて、父の元に送る準備ができた。本来ならセントクレアのサインが必要なのだが、王宮も決算期で繁忙のため自宅に戻れない身では、サインどころではない。その旨も書き添えた。領地ではこの頃コリンも書類確認を手伝ってくれているらしく、父の負担も減り、両親も喜び、コリンにもよい結果となっているらしい。「よかった」とカサンドラは思う。

 家令のジョンストンを呼んで、書類箱を荷造りさせ、馬車でカーレオン領の父伯爵の元に送るよう命じた。


「奥様、ご招待状が届いております。お目をお通しください」


 決算が無事終わるまで保留にしていた社交のお誘いだ。むしろこちらのほうが荷が重い。姉と相談して出欠を決めようか。セントクレアが出席したいものもあるかもしれない。


「開封して持ってきてください」


 私信ではないので招待状は家令か秘書に開封してもらうことにしている。両親あての招待状には「まだ領地で静養中ですので」とお詫び状を出さなくてはならない。そのあとで領地に転送する。


「今日は旦那様のお帰りはいつ頃かしら。旦那様付の従僕に確認して」

「かしこまりました」


 婿に入ったばかりでは、気心の知れた者が必要だろう、と、セントクレアは実家から従僕を二人連れてきている。一人は職場に付き従い、一人は屋敷に残る、交代制のようだ。どちらもセントクレアと同年代で、黒髪の方がダン、亜麻色の髪の方がセオというらしい。姓はないと聞いた。ダンは人懐っこい性格らしく、カーレオン邸の元々の使用人たちとも馴染んできたようだが、セオの方はほとんど用件以外口をきかないそうだ。昨日からセオがセントクレアに付いて王宮に赴いている。ダンが留守番なので、彼に聞いてくるようにジョンストンに命じた。

 実際、妻である自分が知らないのは不甲斐ないとカサンドラは思っている。セントクレアの仕事にもっと寄り添わなくては、と思うのだ。夫婦となってすでに半年たつのに、二人の間の距離はあまり縮まってくれない。婿に来てもらった自分がもっと歩み寄らないと、とカサンドラは申し訳なく思っている。


「今日は旦那様がお好きと言った燻製鹿肉のステーキなので、お帰りが早いといいわ」


 食事の後でふたりで招待状を見て、出席するものを選びましょう。旦那様の冬物の衣装も新しくしなくては。そのご相談もしたいし。中背だがいかにも文官らしくすらりとしたセントクレアは、若々しくすっきりとした衣装が似合う。流行にはあまり関心がなかったカサンドラだが、夫には素敵でいてほしい。自分は着飾り甲斐がないけれど。まあ自分は無難で。

 女性だけの茶会の招待状は、明日にでも姉の所を訪問して見てもらえるといい。今のうちに公爵家に明日の訪問を伺わなければ。カサンドラは手早く姉あての手紙を書くと、侍女のセリカを呼んで公爵家に届けさせた。忙しいけれど、こういう毎日の積み重ねが「平穏な幸せ」というものだわ、とカサンドラは思う。

 財務局の繁忙期も一段落したのか、セントクレアは夕食までには帰宅できるようだ。ダンからジョンストンに報告があった。昼過ぎにメッセージがあったらしい。それこそ直接妻に連絡がほしい所だが、まだそこまで信頼がないのなら仕方がない。連絡は妻にも頂きたい、と話してみようか、とカサンドラは夕食用の着替えをしながらぼんやり考えていた。


「財務局が多忙のせいで、領地の決算を手伝えなくてすまなかった」


 セントクレアが食卓に向かいながら謝罪のことばを口にした。カサンドラは胸のうちにぽっと灯がついたように感じた。決算処理に追われた疲れも、その一言で報われる思いだ。


「旦那様こそ、お勤めご苦労様です。財務局にお泊りでは、さぞご不自由でしたでしょう。今夜はお好きだとうかがった燻製鹿肉です。お口にあいますように」


 さほど酒には強くないという夫のため、軽い赤ワインを添えて出す。少しでも心身の疲労が軽くなるように、と願いを込めて。


「これはおいしそうだ。いただこう」


 セントクレアは妻の心遣いに笑顔で応えた。

 夕食後、居間に移って、ふたりで招待状を吟味する。カーレオン伯爵家が出席しなければならないもの、セントクレアが顔を出すべきもの、ライモンド公爵家に関係があるものなど、来月だけでも片手では足りないほどの夜会がある。夜会が苦手なカサンドラはひそかに吐息をつく。幸いセントクレアは妻より社交的で、夜会も舞踏会も園遊会も苦手ではない。そこは本当に助かっている。

 だが、セントクレアの冬衣装をあつらえる相談はできなかった。


「申し訳ないが、かなり疲れてしまってね。ゆっくり湯をつかって眠りたいのだが」

「もちろんです。行き届かなくて申し訳ありません」


 セントクレアはにっこりすると、さっさと自室へ下がった。夫婦の部屋はセントクレアの希望で別々だ。仕事のつごうによって、出入りがあわただしいから、というのがその理由だ。夫婦の語らいも、当初三か月ほどはあったが、このごろはまったくないと言ってよい。妻の側からは言いにくい。姉や母から「体調が変わったらすぐに言うように」と手紙で何度も念押しされている。つまりは、婉曲に子どもができたのか尋ねられているということだ。ふたりとも心配してくれての事なので、そんなには気にしていないのだが、心にもやっとしたものが残る。

 冬衣装については、翌朝


「あなたの手を煩わせたくないので、時間を見てこちらで適当にみつくろうよ。懇意な仕立て屋がいるから、そちらから伝票を回すので、よろしく頼む」


と言われてしまった。カサンドラは「はい」と答えるしかなかった。少し楽しみにしていたので、がっかりした気持ちになった。

 その後、王都の仕立て屋から請求書が届いた。額面がかなり高額になっていたので驚いたが、内訳にコートや毛皮の襟巻、勤務用の衣類数着、夜会用の正装一式があったので、そういうものかと支払いに回した。


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