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カサンドラの四歳下の弟コリンは、伯爵家の跡取り息子で、家族みんなの愛を一身に受けた、いわば掌中の珠だった。美貌は上の姉に似て、幼い頃はまるで女の子のように愛らしかった。頭脳は下の姉譲りで、思慮深く読書好き。だが、男の子らしい覇気と冒険心は人一倍。責任感と正義感では人後に落ちない。同年代の少年たちからは、実力で一目置かれる存在だった。
少年のころは「天使」と呼ばれ、寄宿学校では「神童」の名をほしいままにし、父伯爵には末頼もしい跡取り、母夫人には自慢の愛息。姉二人には目に入れても痛くないかわいい弟だ。
「九月にカブ・ハンティングに誘われてるんだ。グレンフィールドに行ってもいいでしょう」
夏の休暇で家に帰って来たコリンは、母親にねだった。寄宿学校の友人の実家で、初心者向けのキツネ狩りが行われるのに誘われたのだそうだ。
「キツネが何の悪さをするっていうの。大勢でおいかけて追い詰めて、挙句猟犬に殺させるのを楽しむなんて、信じられない。野蛮だわよ。お父様はお許しにはならないと思うわ」
カサンドラが口をはさむと、コリンはちょっとバツの悪そうな顔をした。
「これは男のつきあいなんだ。カシー姉さんたち女の人にはわからないよ」
コリンは十四歳。少年から青年期へ足をふみいれた難しい年頃だ。カサンドラは肩をすくめてみせた。母は「お父様が行ってもいいとおっしゃったなら」としぶしぶ許可した。そう、あの時なにがなんでも反対すればよかった。かわいそうなキツネを持ち出して、コリンの動物好きでやさしい心根に訴えていれば、コリンはグレンフィールドに行かなかったのではないか。カサンドラは何度も胸の中で繰り返した。
モリス・フィッツジェラルドはグレンフィールド侯爵家の三男で、コリンの学友で寮も同じ親しい友人だった。その少年を通じて、グレンフィールド侯爵領で開催される、キツネ狩り初心者のための「カブ・ハンティング」に誘われた。グレンフィールド侯爵は王立ハンティング協会の理事を務める、名うてのハンティング愛好者で、貴族籍の少年や、市民階級出身で狩の経験がない人々に向けて「カブ・ハンティング」を開催していた。
確かに、ハンティングは貴族の子弟にとって、剣、乗馬、ダンス、カードゲームとならぶ社交技術であることはまちがいない。コリンの父のチェスター・アドナルも許可を出したのは、いずれ身につけなくてはならない技術なら、むしろ友人の家の行事に招かれる今回の機会はちょうどよいのではないか、と考えたからだ。
怯えたキツネが猟犬に追われて反転し、藪から飛び出したところに、勢子に誘導されて猟犬を追って走っていた少年たちの馬がぶつかったのは、予測できない事故だった。馬たちは足元を通り抜けようとするキツネと襲い掛かろうと追随する猟犬の群に動転して、棹立ちになったり、方向転換したりした。狩に慣れた馬が選ばれているとはいえ、乗り手は慣れていない者ばかりで、落馬する者が続出した。コリンの馬も棹立ち、足を下したところに隠れたウサギ穴があったのは、不運としか言いようがなかった。前足をまともにウサギ穴にとられた馬は横倒しとなり、怯えてもがき暴れた。コリンの足は倒れた馬の下敷きとなり、馬体といっしょに大地に打ち付けられた。
コリンが事故にあって大怪我をしたという知らせがカーレオン伯爵家に届いて、伯爵夫妻は侯爵領に急行した。一週間ほどで伯爵は戻ったが、伯爵夫人はグレンフィールド侯爵家にとどまった。コリンは動かすことのできない状態だったので、夫人はそれにつきそい病状の安定に努め、伯爵はコリン移送と伯爵家での受け入れ態勢を整えるために、先に戻ったというわけだった。
げっそりやつれた父親の様子に、カサンドラは駆け寄って腕を支えた。父親は静かに次女を見つめて口を開いた。
「コリンは、馬の下敷きとなって、頭を打ったために三日間意識がなかった。今は気が付いて、母上が看病している。何とか食べられるようになったし、話もできる」
カサンドラが胸をなでおろしほっと愁眉を開くと、父は続けた。
「ウサギ穴に足を取られたコリンの乗っていた馬は、かわいそうに足を折って射殺されてしまったよ。コリンは気にしていたからとても言えなかった。コリン自身、右足と腰の骨を折って、目がさめた今もベッドに起き上がることができない。侯爵家の侍医は、このまま一生歩行が困難になる可能性が高い、と言っているんだよ」
「お父様」
「コリンのために、侯爵家より王室の侍医の派遣をお願いして頂いた。うちからもお願いするつもりだ。コリンの症状が安定したら、馬車でこちらへ移動させることになっている。コリンの部屋を一階に作らなくてはね。庭の見える東向きの部屋がいいな。学校にも連絡して退学の手続きを……」
父はそこで言葉に詰まって顔を両手で覆った。
カサンドラは声を殺して泣く父の背をいつまでもさすり続けた。
コリン自身は当初「骨折さえ治ればもとの生活に戻れ、復学もできる」と思い込んでいたようだった。教科書を読み返したり、家庭教師を招聘したりした。「体力を維持する」と言っては、腕力を鍛える名目で重い辞書を持ち上げたりした。王室から派遣の侍医団が診察して、複雑に折れた右足をできるだけまっすぐにつなぐために、何度も悲鳴をこらえかねるほど激痛をともなう施術に耐え、腰骨を固定するためのギプスをつけ、皮膚が潰瘍を起こして眠れなくても、ひたすら治るために我慢した。
それが、三か月、半年とすぎるころには、コリンの顔から希望が消えていった。本は傍机の上で放置され、窓にはカーテンが閉じたまま、家庭教師も断った。生活がなげやりとなり、笑顔は消え、いつもいらいらとするようになった。当初休みの日に賑わっていた学友の見舞客も、いつかすっかり足が遠のき、最後まで来ていたモリスに
「君の誘いに乗ってカブ・ハンティングに行かなきゃ、こんな体になることなかったんだよ!」
と、見舞いの本を投げつけて額に怪我をさせてから、誰も来なくなった。
父伯爵はコリンをきつく叱責し、母はモリスに何度も謝罪した。
カサンドラは額に包帯を巻いたモリス・フィッツジェラルドを馬車まで見送った。
「コリンが怒るのも仕方ないんです。僕が強く勧めたのは本当だから。コリンがまた元気になるよう、ずっと祈っています」
少年は寂しそうに肩を落として馬車に乗っていった。カサンドラは静かに頭をさげて見送った。