(八)横地監物
武州の巻
(八)横地監物
むかしむかし、ある所に、お爺さんとお婆さんが住んでいました。お爺さんは山へ柴刈りに、お婆さんは川へ洗濯に行きました。という言葉で始まる物語があるが、まさにそれと同じだった。
お婆さんが洗濯をしていると、どんぶらこ、どんぶらこ、と大きな桃が流れてきた。
一尺はあるだろう。あまりにも大きすぎる。不審に思った婆が目をこらしてよく見ると、桃ではなくて、人の尻だった。
「きゃぁあ」
婆の悲鳴がこだまする。尻を水面に出した裸の人間が流されていた。生きているのか死んでいるのかも分からない。
「誰かぁ、誰かぁ」
婆は大声で助けを求めた。
その時、騎馬の蹄が大きな音をたてた。
「そこで何をしておる」
異変を察した侍は、馬から降りて駆けつけた。
婆のいる岸に、裸の男が流れ着いた。少年のようである。まだ息があった。
「おい、しっかりしろ」
頬を叩くが少年は目を醒まさない。侍は従者に命じて焚火を起させた。赤い炎が少年の肌に反射して横顔を赤く照らした。
「屋敷へ運べ」
椿丸が閻魔大王からもらった二つ目の人生の始まりである。
※
後の世に北条早雲という名で知られる初代が起こした北条氏は、孫の氏康の代になって、関東一円を支配するに至る。氏康の長男の氏政は、一族の惣領として小田原城主を継ぎ、弟の氏照は八王子城主として兄を支えた。
一族の内紛、とりわけ兄弟の争いが多い戦国武将にあって、北条一族は珍しいほど兄弟が仲良く支えあってきた。
関東の西の境界を任された氏照は、兄氏政の信頼が厚い。その北条氏照の家臣が、この時椿丸を助けた横地監物であった。
※
横地屋敷に担ぎ込まれた椿丸は記憶を失っていた。ただ、椿丸という名前だけは憶えていた。
屋敷の者が懸命に手当をした甲斐あって、三日目に椿丸は目を醒ました。意識が戻ると日に日に体力を回復し、十日後にはすっかり元気になって、屋敷中を歩きまわるようになった。
椿丸は、屋敷の誰に対しても笑顔を向けた。そして働き者でもあった。薪割り、荷駄運び、掃除、なんでも自分から動いた。
川から助けられて、この屋敷で生活している事自体が、この上ないほどありがたいことであると、深く恩義に思っていた。
椿丸には、不思議な噂がある。屋敷から一歩外に出ると、必ず蛇が現れて後を追う、というのだ。
雑仕女など、これを理由に気味悪く思った者もいる。一方で、守り神が憑いていて頼もしい、として好感を持つ若い武士も少なくない。
ある時、椿丸が監物の帰館を出迎えるために門前に屹立していると、一匹のマムシが街道向こうの藪から這い出でてきた。マムシは鎌首を持ち上げると、じっと椿丸の顔を見詰めている。さすがに椿丸も気味が悪く、ただの噂、と聞き流すことが出来なくなった。
そんな折、一人の山伏が椿丸の前に現れた。了雲と名乗るこの男は、身の丈六尺の偉丈夫で真っ黒に日焼けしていた。
「椿丸殿」
「なぜ俺の名を知っている」
椿丸は了雲に駆け寄ると、衣の襟をつかんで大きく揺さぶった。握る指には、無意識のうちに、これ以上ないほどの力が入っていた。
「俺の過去を知っているのか。教えてくれ。俺はどこで何をしていた。父は、母は、生き別れた兄弟はいるのか」
失った記憶を取り戻そうと、食い入るようにして山伏の瞳を見つめた。
「今ここで話すわけにはいかぬ。話すならば、横地様のお耳にも入れておかねばならぬ。横地様とは、旧知の仲じゃ。帰られるまで、ここで待たせてもらう」
了雲は、門のすぐ外に佇むと、じっと西の空を見つめて動かなくなった。その足元には、マムシが了雲の従者のように、とぐろを巻いたまま居座っている。
※
「そなたは越後の百姓であった。一族はことごとく直江兼続とその家臣三宝寺勝蔵に殺された。かろうじて、そなただけが生き残って、武州に逃れてきた」
「直江とは、上杉の家老の直江か」
椿丸の顔が紅潮した。
了雲の首には、蛇が巻き付いたままだ。
「このマムシは、そなたの護り神じゃ。前世からの繋がりがあって椿丸殿を守っておる。これからも何かあれば、必ずそなたの力になってくれよう」
蛇は人間の言葉が分かるのか、了雲の言葉が終わるやいなや、椿丸に視線を向けた。椿丸は、なぜか不思議な懐かしさを感じた。
「殿。仇を討たせてください。上杉との戦さが起こったら、手勢に加えてくだされ。お願いします。これから槍の稽古もします。弓も覚えます。体も鍛えます。だから、だから必ず手勢に加えてくだされ。働きます、精一杯働きます」
心の奥底から絞り出すような声は、僅かにかすれ、大粒の涙が一粒、二粒と膝の上に落ちて袴を濡らした。
横地監物は何も言わずにうなずいた。言葉は交わさずとも、目だけで心は通じ合う。出会って日の浅い主従だが、その絆は三代仕えた譜代にも劣らなかった。
「分かっておる。分かっておる」
監物はそれだけ言うと、椿丸の手を握りしめ、しっかりと目を合わせた。
「良かった、良かった。ここへ来た甲斐があった。」
了雲が豪快な笑い声をたてて、湿っぽくなった座を陽気な場に変えた。
「来るなら来てみろ、直江。源平このかた兵馬の道は坂東武者が一番だ。思い知らせてくれるわ」
温厚な監物が、珍しく気を昂らせた。
関東はすでに新緑の季節を迎えていた。