第八話 すれ違い
同じ大学の、それも同じ学部に通っていれば、顔を合わせることも稀ではない。受講者数が多くホールなんかで行う講義であれば尚更。視聴覚ホールとか、滝野メモリアルホールとか、百人を超える受講者を詰め込める講義室はいくつかあった。
もしくは食堂や大学バスの停留所など、人の集まる場所は学内に少なくはない。
背景の通行人Aとして処理していた今までと違い、個人を認識してしまった今、私はそういった場で度々吉田先輩を見つけては目で追うようになった。
ストーカーじゃない。断じて違う。狙って居合わせたことは一度もないし、ただただ本当に、そこに存在していたということに気がついて、見てしまうだけだ。
そんなことを繰り返して気がついたのだが、どうやら私は彼とは時間割の重なる部分があるようだ。このキャンパスで開講しているのは、必修単位を除いて大部分が一、二学年共通科目であるため、不自然なことではない。
とは言え、単位登録上限いっぱいに詰め込んだ一学年の私と異なり、程よく隙間のある二学年の彼である。加えて人気のあるめぼしい授業は一年のうちに受講しているだろうし、お世辞にも被ってる授業は多いとは言えない。
ただ二年生である彼には、丸々一日フリーの日もあるのではなかろうか。そう考えると、西洋古典文学と日本美術史の授業が重なっていることは、多いと言えるのかもしれない。
とりあえず多いのか少ないのかはこの際置いておいて、とどのつまり、西洋古典文学を受講しながら五列斜め前に座る吉田先輩を眺めるこの時間は、貴重なわけである。
高齢の教授が一本調子でギリシア神話を語るこの授業は、なにも面白くて人気があるから滝野メモリアルホールで開講しているわけではない。いわゆる楽単というやつだ。出席は毎授業取るものの、配布されるレジュメがあればとりあえず中間・期末テストはパスできる。
純粋に時間割の空白と、シラバスを見た限りでの内容に対する興味から受講を決めたのだが、私たちは二回目の講義でそれを思い知ることになった。軒並み学生が寝ているのである。
起伏も特になく、レジュメの内容をそのまま喋る授業は確かに退屈ではあろう。だが内容はそれなりに面白いため、みんな勿体無いなと常々思っていた。
それで、本題に入るのだが、軒並み学生が寝ているとは、つまり学生のほとんどが机に伏せているということだ。見晴らしがいいのである。
照明を受けて、淡く光る髪。天然なのか、いわゆる“毛先を遊ばせた”ヘアースタイルなのか、メンズのヘアメイクに疎い私にはとんと分からないが、空調の風で小さく揺れる様がかわいらしい。
真面目に講義を受けろと責められそうだが、仕方ないのだ。正面スクリーンを見るためにはどうしても彼を視界に収めなくてはならないのである。注視しているわけではないので、許してもらいたい。
「ぅあ、今どこまで進んだ?」
つい一瞬前まで右隣で舟を漕いでいた素子が、あくびを漏らしつつ顔を上げた。慌てて吉田先輩の方に偏っていた視界を正面に引き戻す。
「右ページの真ん中らへん。ここ」
素子の、頬杖をついたせいで肘に押され、少ししわの寄ったレジュメのプリントをつついた。コツコツとシャープペンシルのノック部分が、机に当たって音を立てる。
眠気にとろんとさせた目を瞬かせ、素子が眉を上げた。
「一瞬で、めちゃめちゃ進んどる」
「いや、一瞬じゃないよ」
夢の世界へとトリップしていた素子にとっては一瞬だったろうが、現実世界では二十分経過している。ちらりと確認した時計は、講義の終了五分前を指し示していた。
教授の記念すべき本日二十回目の「まぁこの話は置いておいて」をプリントの端に記録し、素子がメモ書きを写しとりやすいように右に寄せる。
話を聞きつつレジュメに手早くメモを書き込んでいれば、チャイムの二分前に区切りのいいところにたどり着き、教授が授業の終了を宣言した。
途端にホール中にざわめきが広がり、人が立ち上がって出口へと流れを作る。瞬く間に通路は埋め尽くされた。通路側の席だったため、ひっきりなしに脇を人が通る。居心地の悪い、動くに動けない状態だが、素子のメモ写しが終わっていないためにこれ幸いとスマートフォンをいじった。
さして間もおかず、ふと視線を感じて顔を上げた。最近感じる嫌なものではない。不快感もいやらしさも孕まない“ただ見ているだけ”の視線。
(……あ、)
ぱちり、と。
それはもうびっくりするくらいにしっかり目が合った。
反射的に会釈をしてから、私たちは会釈をするほどの仲かと自問自答する。でも、一度ならず二度までも助けてもらって、御友人がいないときはボチボチ好意的な態度だった。会釈くらいは許されるはずだ。
(え……)
一度下げた視線を元に戻せば、再び視線がかち合った後、ふいと逸らされた。
あからさまな無視だ。目があったにもかかわらず、流された。
いや、もしかして気がつかなかったのか?
でも二度目の邂逅も三度目の邂逅も私を認識していたし、なんなら名前まで覚えられているのに。
そんな反応を返されてしまえば、これ以上見ていることもできなかった。居心地悪く視線を逸らし、先輩が脇を通り抜けたタイミングを見計らって呟く。
「はぁ〜、めっちゃ無視された」
「悪い方に考えるなって」
「会釈くらい返してくれてもよくない?」
「気づかなかったのかもよ。気にすんな気にすんな」
書き取りを終えた素子が、荷物を纏めながら私の肩を叩いた。今までプリントと向き合っていたくせに、完全に見抜かれていて、苦笑いしか出てこない。
恋の話題に敏感な素子には、とっくの昔に刑事も真っ青の手腕で私の淡い憧れを吐かせられている。どこで覚えてきたのか恐ろしく自然に話が誘導されいつの間にか全て開示させられていたのだ。
「でも初対面の時に汚しちゃったハンカチについて話しただけだよ? 妥当じゃない?」
「私は妥当だと思うよ」
「もしかして変なテンションに引かれた……?」
ズルズルと思考はマイナス方面に落ち込み、項垂れながら両手で顔を覆う。
距離感を測り間違ったのか。いや、許容範囲内だったはずだ。共通の話題──というのもおかしいかもしれないが、関わりのある話題──だったし、一人で捲し立てるように一方的にしゃべり倒したわけでもない。
慰めるように背中をさすられ、身を起こした。
「唐突に実家の話始めたりしたわけでもないのに」
「それ柳木じゃん」
すでに立ち上がっている素子に促されて、席を立つ。途切れた人の列を追いかけるようにしてホールを出た。
瞬間、強く吹いた風に眉を顰める。内にいる限りは設備が整っているために快適なのだが、独立して建っているために移動のたびに外に出なければならないところが玉に瑕だ。
風に吹かれて舞い上がる髪の毛を抑え、小走りで一号館に足を向ける。この後一限だけ授業があって、後は二人とも上がり。
「あっといっちげん!」と口ずさんだ素子が、何か思いついたように手を叩いた。ぱちんと鳴った音が、少々歴史を感じる廊下に反響する。
「気分転換に駅向こうのスタダ行こ! 季節限定メニュー出たから!」
優しい友人の気遣いが身に染みた。二人で予定をすり合わせながら、デートの日程を決める。
廊下の端からそんな私たちを見つめる影があったことに、私はついぞ気付くことはなかった。




