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夜明けの来ない世界で君と笑う  作者: 相川あきら
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第七話 黒い男

 ピリリと項に淡い痺れを感じ、周囲に視線を走らせる。

 まただ。また、誰かの視線を感じた。つけ狙うような、あるいは観察するような、じっとりとした視線。

 知り合いに似ている人だから確認のためとか、容姿が自分の好みだったから思わず見惚れたとか、そんな生易しいものではない。敵意の混じった、険のある視線だ。当然心地いいものではない。

 時は遡ること一週間前。“それ”は、吉田先輩と知り合った週明けの月曜日から始まった。実際に視線を向けられていたのはそれ以前からの可能性もあるが、少なくとも私が意識し始めたのは、月曜からである。

 規則性はない。いつも突発的。気を抜いた瞬間に、私の過去の経験ゆえに鍛えられた第六感が危険信号を発する。人の多いところでのみ感じるということが唯一の共通項と言えるだろう。けれどそれは、視線の主への手がかりとはならなかった。

 ガラリと見回して一通りフロアを確認した後、前に向き直る。中断していた食事を再開すると、隣に座った素子が口を開いた。


「吉田先輩探してるの? あんまり気にしないほうがいいよ」


 首を回したことで肩から滑り落ちた髪を、背に向けて払う。

 素子には、視線について話していない。

 彼女は、私に何かあると毎回親身になってくれるのだ。それ自体は身に余る喜びなのだが、その真剣さゆえに一から十まで相談することは躊躇われた。心配させている身としては、あまり小さなことで煩わせてしまうと逆に申し訳なくなってしまうのだ。

 とは言え、彼女も立ち会ったイザコザに関しては把握されている。彼女が今話題にしたものも、素子と一緒にいるときに遭遇した今週の出来事が原因だった。

 火曜日のことだ。私は素子の協力を得てドイツ語の教室で吉田先輩を待っていた。ハンカチ代を渡すためだ。けれど、いつまで経っても待ち人は訪れない。

 昼休みも半ばを過ぎていい加減昼食に行かなければ食いっぱぐれるぞという段階に達してようやく、素子のことも考えて私は待機を切り上げることにした。問題はこの後だ。

 昼休みの中頃と言えば、移動の激しい開始と終了の十分を外した時間帯である。当然、廊下には人気がない。閑散とした通路を素子と二人、次の講義の教室で昼食にしようと歩みを進めていた時に起こった。

 階段の踊り場で、深刻な表情で話し合う吉田先輩と男子学生を見かけたのだ。男子学生は責めるような調子で吉田先輩の胸に指を突きつけていた。漏れ聞こえた「まだ二回だ」「違う“もう”二回だ。それも同級生でもなんでもない相手に」の声に、心臓が跳ねる。

 私のことを話しているという確証なんてない。それでも響いて鳴り止まない警鐘に、素子に腕を引かれて反対方向へ引きずられるようにして歩き出すまで、私は脳内で会話をリフレインさせていた。

 素子は、私がその出来事で悩んでいると思い込んでいる。


「心配してくれてありがとう。でも、大丈夫だから」


 今はありがたくその勘違いを利用させてもらって、曖昧な笑みでその場を濁した。

 その次の日。朝の通学電車の中で、吉田先輩を見かけた。

 この時の私は、おかしなテンションだったと思う。二度の危機から颯爽と救ってくれた彼に、過度な憧れを抱いていたのだ。恋心と言うには小さすぎる感情を持て余していた。なにぶん「いいな」と思った男子は軒並み厄介ごとを運んでくるのだ。恋をする気も失せよう。

 だから完全にコントロールが効かなかった。周囲の確認もせず、吉田先輩に声をかけてしまったのだ。


「あの! おはようございます」

「……あぁ、おはよう」


 振り向いた先輩の隣には、例の男子学生がいた。

 黒い髪、黒い瞳。吉田先輩とは別のベクトルで美しい顔をした人だった。首筋や袖から覗く手の甲の無骨さ、全体的な骨格から確かに男性であるとわかるのに、どことなく女性的な線の細さを感じる。繊細とは違う、儚いような雰囲気は、私と目が合った瞬間に霧散した。

 細められた目から放たれる視線は、ビームが出るなら私は今頃丸こげになっているだろうと言うほどに鋭い。チリチリと肌が焼かれるような思いだ。

 あの日、二人を視界に収めた瞬間、私は素子と共に柱の陰に隠れた。だから姿は見られていないはず。意図的ではないにしろ話を盗み聞いてしまった後ろめたさがじわじわと胸を責めるが、相手は知らないはずだ。多分。

 嫌な沈黙が、私と二人の間に横たわる。


「……知り合いか?」


 たっぷり間を置いて放たれた言葉は、一見気を遣ったような空気を纏っていたが、その実恐ろしいほど冷たかった。


「あぁ、先週、ちょっとね」


 答える吉田先輩の声も、心なしか硬いような気がする。

 じっとりと身体全体に圧がかかっている気分だ。喩えるなら、しとどに濡らしたタオルを全身にまとわりつかせているかのような。

 口を開くことさえ億劫な重圧の中、空気を破ったのは吉田先輩だった。


「そう言えば図書館で聞き忘れたんだけど、手の傷はどう?」

「ぇ、あ、あ! 大丈夫です! 治りました」

「それは良かった」


 どうにかこうにか口を開いた私に対して緩やかに笑う吉田先輩に、絶好のチャンスを悟る。


「あの時貸していただいたハンカチなんですけど!」


 何度も言うが、この時の私はテンションがおかしかったのだ。

 温厚な──正確なことはわからないが、二度会話した限りでは気性の荒い面は見られなかった──吉田先輩が仰反るほどの勢いで詰め寄った私は、ハンカチに着いた血の汚れが洗濯で落ちなかったことを説明する。


「結局シミになってしまって、弁償しようと──」

「その必要はないよ」


 鞄の内ポケットからハンカチ代を入れたポチ袋を出そうとした私を、吉田先輩が遮った。


「気にしないで」

「でも──」


 頑なな態度で断わる吉田先輩を見るうち、黒い男子学生に鋭い視線を向けられていたことに気がつく。一瞬緩んだ手の力に、すかさず吉田先輩は私の手を押し戻した。

 断崖絶壁の方がまだなだらかと言える険しい視線。むしろ“睨み付けている”と言っても過言ではない。

 情けなくも蛇に睨まれた蛙状態の私の手から、吉田先輩がポチ袋を抜き取った。固まる私をよそに、鞄の半開きのチャックから中に滑り込ませる。

 電車がスピードを落として、ホームに滑り込んだ。大学の最寄駅だ。


「マツ」


 低い声で、男子学生が先輩を呼ぶ。促すように肩を叩き、私に一瞥もくれずに降車準備のためドアへ向き直った。

 ちらりと吉田先輩に視線を移せば、眉を寄せて小さく唇を開く。躊躇うように閉じ、また開いた。

 電車が完全に停車し、人並みがドアめがけて動く。


「ハンカチ一枚どうってことない。それで君の傷口を清潔に保てたなら。それよりも──」

「マツ!」


 下車する人並みに押されながら、先輩は捲し立てるように言葉を紡いだ。それを予測していたように、男子学生が先輩の二の腕を掴んで制止する。

 今まで私に向けていたような敵意の滲む視線に、先輩が怯んだ。


「……ごめん。僕はもう行くよ」


 背を向けて、先輩が男子学生と連れ立ってホームを歩き出す。

 「これで満足か?」と言う先輩の声が、風に乗って耳に届いた。

 置いていかれた私は後を追うことも出来ず、かと言って下手に歩き始めてバスの待機列や車内で合流してしまうことも怖くて、しばらくその場を動けなかった。

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