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夜明けの来ない世界で君と笑う  作者: 相川あきら
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第六話 春の訪れ

 窓の外に見える木から、葉っぱが一枚風に吹かれて舞い上がった。くるくると螺旋を描いて空を泳ぐ軌跡を目で追いかけ、机に伏せていた体を起こす。やがて紅葉は窓の枠の中から消え、私は頬杖をついて何となしに風景を眺め始めた。

 空きコマを潰しているのか、じゃれ合いながら並木道を歩くカップルが見える。

 講義に遅刻しそうなのか、二号舘に向けて全力疾走している女子学生が視界を横切った。まだ授業開始までには多少時間があるが、席取り合戦のある授業なのだろう。私も春学期に一人で熾烈なポジション争いのある講義を受けたから、気持ちはよくわかった。

 彼女を追い立てるように、風が並木を揺らした。葉が明るいオレンジに色づいた桜並木は、春には立派な花を咲かせる。滝野学園大学の桜並木は、この辺りでも有数の花見スポットとして知れ渡っているらしい。


「おはよう!」

「ぅひっ! び、びっくりした……。おはよう、素子」


 ボケッと外を眺めていたからか、私は背後から近づいてくる友人に気がつかなかった。

 挨拶と共に少し強めに肩を叩かれ、押し出されるようにして口から奇声が漏れ出る。バクバクと強いビートを刻み出した心臓を抑え、振り返った。したり顔の澪が、肩にかけた鞄を机に下ろす。

 Tシャツの上にパーカーを羽織り、ピッタリしたパンツにスニーカー。スポーツの秋らしい、身動きの取りやすそうな格好だ。ウェーブがかった明るい髪は高い位置にまとめあげられ、今にも走り出しそうな印象を与える。

 けれど彼女は、今まで体育の授業において五段階評価で三、ABC評価でB以外をとったことのない私が見ても顔が真っ青になる運動音痴だ。一度だけバスに乗り遅れそうになったときに走っている姿を見たが、パンプスであったことを差し引いても動きがスローだった。

 「人には向き不向きがあるの。私は運動に向いている身体構造をしていない。それだけ」とは彼女の言である。転倒とは無縁なスニーカーで平地を歩いていても見えない何かに躓くもんだから、あながちその言い分も間違ってはいないのかもしれない。


「あー、文法の小テスト返ってきて欲しくないなぁ〜」

「自信ないの?」

「んん、いや、ほぼほぼ自信あるのよ。でも昨日の夜最後の一問だけ間違ったのではないか疑惑が持ち上がった」


 席に着くなり机に突っ伏した素子が、頭を抱えてひぃひぃと悲鳴を上げた。額で机の天板を攻撃している。

 半年も一緒にいれば度々目にしている奇行を、私は黙って見守った。ひとしきり悶えたあと、気が済んだ彼女は大人しくテキストを鞄から出し始める。最後に手提げから和独辞書を取り出し、重石代わりにプリント類の上に置いた。


「返ってくるの来週じゃん」

「だからモヤモヤがすごいの〜。殺すなら早く殺せって感じ」


 これから開始する授業もドイツ語ではあるが、会話の授業だ。火曜日は文法で、金曜日は会話の授業という振り分けになっている。

 吉田先輩が私のプリントを拾ったのは文法の授業と言っていたから、担当の根岸教授は二年生も受け持っていることになる。とてもわかりやすい丁寧な授業をする人だから、進級しても彼女の元で学びたいものだ。


「まぁ確かに、どうせなら満点とりたいもんね」


 今度は辞書を額で攻撃し始めた素子を横目で眺め、ファイリングされたレジュメを引っ張り出す。コミカルな挿し絵入りのプリントには、ドイツ版“みんなの歌”の歌詞が綴られていた。

 会話の授業を受け持つ教授は、三十代半ばの上品なご婦人だ。ドイツ出身の彼女は日本人男性と結婚し、めぐりめぐって日本でドイツ語の教師をしているらしい。授業は毎回ドイツ語の歌を歌うことから始まり、今は職業について学んでいるのでパン屋さんの歌だった。

 ぼんやりと文字列を追いかけ、流し見る。

 チャイムが鳴った。でもこれは、一限終了を知らせるチャイムだ。二限が始まるまでには、まだ十分ある。お手洗いに行っておこうか一瞬迷ったが、生協で昼を買った後に寄ってから来たことを思い出してやめた。

 眺める歌詞が二番に差し掛かったところで、ようやく辞書に伏せる素子の顔がこちらを向いていることに気がついた。


「昨日、なんかあったの?」


 目があった瞬間に放たれる下手に取り繕わないすっぱりとした切り口に問いに、肩が跳ねる。

 「なんで?」と誤魔化すように問い返すと、素子は辞書から身を起こして頬杖をついた。


「三限終わったときはこの後直帰って言ってたのに、私が四限終わる頃にバス停にいたから。昨日は教授の都合でいつもより早く終わったの」

「同じバスに乗ってたの? 言ってくれたらよかったのに」

「いや、私がバス停に着いたときに発車したやつに澪が乗ってた」


 素子には、私の“見えてはいけないものが見える”という秘密こそ伝えていないものの、厄介ごとが集まってくる体質のこと自体は知られている。と言うか、あれは一学期一緒にいれば言わずともわかるものだ。

 素子の前でしつこいナンパに追っかけられたことも、見ず知らずのカップルの痴話喧嘩に彼氏の浮気相手と勘違いされて巻き込まれたことも、出会い系サイトの待ち合わせ相手に間違われてしつこく絡まれたことも一度や二度ではない。その度にお祓いに行くことを勧められるのだが、それらに全く効き目がないことは私の二十年近い人生で立証されていた。


「あー、変なのに追っかけられてて、また吉田先輩に助けてもらったの」

「大丈夫だったの? 変な人って?」

「見覚えのない人」


 無言で説明を求める友人に、私は昨日の出来事をかいつまんで説明する。

 三限終了後、四限の教室に向かう素子と別れた後に“ソレ”と遭遇したこと。最初は気のせいかと思って生協の店内を徘徊し、意思を持っての尾行か確認したこと。同じバスに乗り込んで帰路を尾行けられ、自宅の最寄駅や自宅までも知られることを恐れて学内で撒こうとしたことなどだ。


「言ってくれれば授業抜けて助けに行ったのに!」

「最後にコメントペーパー書いて出席とる授業でしょ?」


 我が事のように憤慨する姿に、柳木くんにまた絡まれたことは言わない方がいいかなと口を閉じる。

 素子は鋭くもその一瞬の表情の迷いを感じ取ったのか、ガラリと真面目な表情をすると全部吐いちまいなと詰め寄ってきた。


「……それで、また柳木に絡まれたの?」

「吉田松太に関わるなって……」

「あいつ……」


 脅しに屈してしまった私がペロリと吐いてしまえば、素子は険しい顔で虚空を睨みつける。華やかな見た目に似合わず意外と逞しい精神を持つ彼女の頭の中で、今頃柳木くんは身体ごと吹っ飛ぶアッパーカットを受けているのだろう。

 私の脳内でも、ギャグ漫画のように柳木くんが空を舞っていた。鼻から噴射される弧を描く血液の軌跡に、忘れかけていた記憶が刺激される。


「あ、そうそう!」

「どったの」

「吉田先輩から借りたハンカチ!」


 三日前の電車痴漢騒動で、私は吉田先輩からハンカチを借りっぱなしにしていた。帰宅後に懇切丁寧に洗いはしたのだが、乾いてしまった血はなかなか落ちず、結局シミになってしまったのだ。

 流石に使用感の残るハンカチをそのまま返すことは出来ない。なので、次に学内で会ったときにわけを説明して、お詫びとして新しくハンカチを買う代金を渡そうと思っていたのである。


「根岸先生のドイツ語取ってるみたいだから、来週なら確実かなぁ」


 本来なら昨日が絶好のチャンスだったが、生憎と二度目の洗濯をしていた上に突発的な出合いすぎて完全に失念していた。

 次の機会を狙うならば、賭けに出るよりも安全牌を切ったほうがいいだろう。


「ハンカチ代渡すんだ? 新しく買うんじゃなくて」

「だって勝手に買って気に入らないやつだったら嫌じゃん。趣味悪いって思われたくない」

「シンプルなのにしとけば外れないでしょ」


 意外そうに眉を上げる素子に、言い返す。

 シンプルなものを選んだとしても、吉田先輩の好みを外して趣味が悪いと思われるのは嫌だった。なんとなく。

 そんな私の言葉を聞いて、素子は面白いものを見つけたような顔をする。

 「春か? 春の訪れか?」と好奇心に輝く瞳が物語っていた。嫌な予感がする。

 私も素子も、大学に入ってから浮ついた話題は全くない。高校時代の彼氏と受験で自然消滅し、サークルもバイト先も女だらけの素子と、人生この方恋人などできたことはなく、サークルには入っておらず小さな薬局でアルバイトに励む私には、逆立ちしても恋の話題は生まれない状態だ。

 積極的に絡みにくる柳木くんでお腹いっぱいだったということもある。

 ハンターのように爛々と光る素子の目から逃れようとしていれば、タイミングよく二限開始のチャイムが鳴った。戸がガラリと音を立てて開き、ロート先生が入室する。

 信仰なんて毛ほどもしていない神に感謝を捧げ、時計に恨めしげな視線を送る素子を尻目に私はテキストを開いた。

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